花踏み舞い


 それは夏が目覚めだした、空気に熱を帯びた夜のこと。寝所にて、サユグは不思議そうに窓の外を見た。

「トウハ、なにか音が聞こえる。誰ぞか笛を吹いているのか」
「風鳴りではございませんか?」
「ううん。——いや、やはり何か聞こえる」

 サユグの訴えに、トウハは窓を開いた。そうして外を確認した。火だ。ひゅん、ひゅんと音が鳴る。きりりと何かを引き絞る音が聞こえる——トウハはサユグを庇い、伏せた。風を裂く音がすぐに続き、壁の砕ける音がした。サユグは悲鳴を上げた。

「敵襲!」

 トウハは叫び、幼い主を抱き上げ駆けた。だがすでに遅かった。屋敷の外には兵がつめかけていた。人の逃げまどう声の中、トウハは一瞬呆然とした。どういうことだ。ありえない、一介の敵にこんなに入り込まれるなど。そこまで考えて理解した。謀反だ。

「トウハ」
「大丈夫です。逃げましょう、サユグ様!」
「トウハ、トウハ! 皆は無事なのか?」
「まずはあなたが逃げなくては! きっとそこで落ち合えます」

 その時だった。アルグがやってきたのは。あの宝剣を、真っ赤な血に染めて、皇太子の首をその手に下げて——

「サユグ。探したぞ」

 いつものやさしげな微笑を浮かべて、そう言ったのは。
 サユグの絶叫が響いた。



 そこから先のことは思い出したくもない。
 ひたすらに惨い時であった。トウハは逃げようとした。しかし、すでに兵に囲まれていた。アルグは、トウハごとサユグを拐かした。抵抗するトウハを強く打ち据え、兵にとりおさえさせた。

「はなせ!」
「ははは。やはりお前は筋がよい。だがまだまだだな」
「サユグ様!」

 サユグの頬に触れた。アルグの手から、乾いた血が黒い砂のようにぽろぽろと落ちた。

「やっと私のものだ……わが后よ」

 うっとりとアルグは囁いた。優しく甘い、愛の囁き——その目は、地獄の炎のように恐ろしく見えた。

「あの宝玉はね、サユグ。母上がお前の姫に渡すようにとくれたものなのだよ」

 サユグは、凍らされたようにふるえ、おびえた。トウハが「サユグ様!」と何とか拘束から逃れようとする。アルグが手を挙げる。兵たちはトウハの肩をはずした。トウハは痛みに息も忘れた。

「トウハ!」
「……サユグ様! 私にかまわずお逃げください!」

 サユグは、涙に頬をぬらしていたが、瞬間、燃えるような目をして、アルグに対峙した。片時も離さずにいた宝玉を、アルグに投げ返した。アルグにぶつかり、宝玉は砕け散った。

「こんなものいらぬ!僕は、僕は……!」

 アルグの目が、くらくよどんだ。
 兵士たちにすっと指をさした。トウハの体に、兵士たちが群がる。腕の利かぬトウハは、必死に足で抵抗したが、為すすべもなかった。宦官の体を嗤い、辱められ——トウハはこのときの自分の絶叫を、一生忘れることができない。

「やめろ!——やめてくれ!」

 サユグがアルグにくみかかった。アルグは、

「なら、私の后になれ」

 とサユグの唇をなぞった。トウハは「サユグ様!」とうつろに叫んでいた。サユグは口を開いた——



「主が力に目覚めたのはそのときであったな」

 大きな雷が落ち、皆一様に肉の塊となっていた。逃げおおせていた皇帝の軍が、その雷撃を頼りにたどり着いたのは、明け方であった。もうすべてが遅かった。

「よほど私は気が滅入っていると見えるな。殿下とはいえ……あのような方と自分を引き比べるなど」

 あの夜のことは、忘れたことはない。主にとっても深い傷となり……精神が不均衡となってしまったのだから。
 身分の低い母を持ったゆえに、才長けていても冷遇されていたアルグ。それでも深く母を愛していたアルグ——。
 アルグのことは憎い敵だ。一度尊敬した方故に、失望は深かった。だというのに、今彼に心を寄せねばならぬほど、自分は惨めだと言うのか。
 庭にうずくまっていると、ニルがやってきた。

「トウハ様」
「ニル」
「お加減でも悪いのですか」

 可憐な顔に心配をにじませて、ニルはトウハに尋ねた。トウハはそこでようやく己を取り戻し、立ち上がった。

「なんということはない。日光が恋しくなってな」
「そうなのですか? 確かに、今日は天気がようございますね」

 ニルは、とりあえず納得したふりをしてくれた。その細やかさがうれしかった。室内に戻る。二人並んで歩くと、相応の男女に見えるであろう。

「そうだ、輿入れが決まったと聞く。おめでとう」
「ありがとうございます」
「祝いの席でも設けたいものだ。お前はよく仕えてくれたゆえ」

 ニルは嬉しげに、はにかんだ。トウハも笑い返す。そのとき、高い声が響く。

「トウハ!」

 振り返れば、サユグが燃えるような目で、こちらを睨んでいた。隣にリウエを控えている。トウハとニルは、急ぎ礼を取った。それにもかまわぬ様子で、サユグはつかつかとこちらに歩んでくる。

「誰が去っていいと言った! こちらへ来い!」

 トウハの手を取り、引っ張っていく。トウハはニルに目礼し、その場を後にした。ニルはトウハの背を、切なげに見送っていた。


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