花踏み舞い


 夕餉の支度が終わった。トウハは廊下を歩いて、サユグの様子を見に行った。片時も離れずついていたいが、サユグはトウハの目を配ったものしか口にしない。もっとも先のように、感情が激しているときはそれでもだめなのであるが。
 音も立てず、羽が落ちる音さえ立てぬほど静かに歩く。サユグの五感は、精神の不均衡の為、恐ろしく鋭敏で、わずかな気配でさえ刃となった。
 そっと室の外に控えると「入れ」ときつい声がすぐにかかる。さすがだ。トウハは、そっと室に入った。

「なにをしていた」

 サユグの声は尖ってふるえていた。おびえではない。怒りと悲しみからだ。

「お前は僕が消えろと言ったら消えるか。死ねといったら死ぬのか」
「申し訳ございません。夕餉の支度をしておりました」
「そんなものはどうでもよい!」

 雷撃が走る。トウハの左人差し指の爪から、縦に裂傷が入った。無意識といえど、利き手からそれるように走らせたと言うことは、正気をとりもどされてきたようだ。トウハは安堵して、左手を袖に隠しひざまずいた。

「私は殿下のおそばから離れません。殿下の御為なら命さえ惜しくはありませんが、死にません」

 サユグは息を整え、それから「近う寄れ」と言った。トウハは音も立てず、かしずいたまま寝台に近づいた。サユグがいつもそれを求める。
 サユグは、トウハの頬に触れた。汗に濡れた手は、氷のように冷たい。その手を暖めてやりたかったが、そのような身分ではなかった。

「痛かったか」
「なにも痛くありません」

 サユグがトウハの額に、手をやる。手当がすんだ額に血のにおいはない。そのためトウハも好きにさせた。
 サユグはそれに飽きたらず、トウハの左手をほしがった。トウハは「お許しください」と言ったが譲らず、無理に袖から手を出させた。
 サユグの顔が青ざめる。トウハはすぐに手を隠そうとするが、サユグが許さなかった。貧血で力の入らぬだろうに、トウハの手に爪を立ててでも、その手を離そうとしなかった。

「すまなかった」

 サユグはふるえ、焦点の定まらぬ目にトウハを映す。トウハは微笑し首を振った。サユグは倒れ込むように、トウハの手に額をつけた。汗と血が混ざる。
 サユグはトウハの指を吸った。これには痛みに、背筋が反射的にしびれた。しかしトウハは微動だにせず、好きにさせた。
 これは、サユグのいつもの謝罪であるからだ。
 トウハはサユグの背を、あやしてやりたい心地をおさえた。彼は。傷を負ってから、他者からの接触をひどく嫌う故だ。
 誰より、その手を求めているだろうに。トウハは痛ましくなる。この方の背を抱いてあやしてやれる手が、一日でもはやく現れたらよいのに。
 ずっと、あの日よりトウハは祈ってきた。
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