花踏み舞い
「このようなもの!」
飛んできた器を、トウハはその顔でもって受け止めた。よけられぬほど、愚鈍な性質ではない。それを主が望んでいるためだ。適温の茶が、頬を伝い、トウハの衣服をぬらすのもかまわず、トウハは頭を垂れる。
「申し訳ありません、サユグ殿下」
「殿下、殿下など、煩わしい! 遠くに控えておれ!」
主の怒気が雷撃となり走る。それをまた、トウハは顔で受け止める。余波を食らった調度品が、無惨に砕け散った。トウハの額も割れ、鮮血が滴る。今度はトウハは去ることを躊躇わなかった。主に、血を見せたくはなかったからだ。失礼しますとはあえて言わない。この主は去られることを、かたく嫌っているからだ。
「ご用がございましたら、お呼びくださいませ」
室をでると、女官のニルが、手ぬぐいを持って、トウハを泣きそうな顔で迎えた。トウハは礼をいい受け取ると、額をそれで押さえた。
「トウハ様、申し訳ございません。私のお茶のために」
「案ずることはない。そなたに任せたのは私。そしてそなたはよく働いてくれた」
笑って仕事に戻るように促すと、ニルは一礼し持ち場へ戻った。あれはよく仕事ができるが、線が細いのが難点だな。主の怒りに、一喜一憂していてはつとまらぬ。トウハは血を止めると、布を洗濯番に渡した。
そうしていつも通り、膳や湯殿の差配へと向かう。
主であるサユグは、御年十四、年若の皇太子であるが、気性の不安定な少年であった。兄たちが立て続けに亡くなり、本来回ってくるお鉢ではなかった故、彼は皇帝の証たる雷神の力をうまく扱えないのだと、彼が激情をほとばしらせ、雷撃を放つたび口さがない者はいう。
しかし、トウハは知っていた。物事はそう単純なことではないのだと。
サユグが自らの激情を持て余し、雷神の力を使いこなすことができないのは、ひとえに、彼の幼少の頃に負った深い傷によるものだと、知っているからだ。
◇
幼き日のサユグは、美しく明朗な皇子であった。彼の上には八人の兄皇子、三人の姉皇女がいた。おおよそ皇位継承に遠い身分と、その気質のよさで、彼の周りのものは彼の為に身を粉にして働いたし、兄皇子からも好かれていた。
「サユグ、剣を教えてやろう」
「ありがとうございます、兄上」
自らの稽古の息抜きに、彼に手ほどきをしにくる兄皇子がどれほどいたか、おそらく全員であろう。彼が目を輝かせ、兄のことをほめるたびに、彼らは自らの才を信じることができたのだ。
特に、第三皇子たるアルグにおいては、目に入れても痛くないほどのかわいがりようであった。いつのときだったか、サユグがアルグの宝剣の石をほしがったとき、何のためらいもなく、花のような手に握らせてやったのだ。それは、彼の母君の形見であった。
そんなアルグであるから、一介の従者であるトウハにもたいそうよく扱ってくれた。他の兄皇子というものは、弟の従者は自分の従者のように扱う節があったが、アルグはあくまで、サユグの従者として、トウハを扱ってくれたのであった。
「トウハ、お前は筋がいい。サユグを護るために、私が剣を教えてやろう」
「もったいのうございます。私のような宦官が剣を持つなど」
「トウハ、兄上に習うとよい! 僕はお前が舞うところをみたい」
トウハはそれなりの位の貴族の息子であったが、母の身分が高くなく、嫡男とはなれなかった。そこをサユグの母に気に入られ、いずれ生まれ来る我が子のために、と宦官として迎えられたのだ。
お仕えするために、男の証を赤子の時に落とされた。忠誠心は、疑うべくもない。しかし、このスユルの国において、宦官という身分はトウハの人生に影を落とし続けた。
宦官は剣も握ることができず、文官として出世も望めない。ただ一介の側仕えとして生涯を終える。残るのは忠誠心のみである。
だが、主はそんな自分より二つ年上の従者をたてた。何かあれば、剣を握らせたがったし、勉学を与えようとした。
「いずれお前に、僕は大きく報いてやるからな」
それが、サユグの口癖であった。トウハは、ありがたかった。しかしそのような大それたことを、決してよそでは言ってはならぬと言い含めた。するといつも怒るので、トウハは機嫌をとるのに、いつも膝を貸し歌ってやらねばならなかった。
純粋で美しいサユグは、どれほど多くの幸福をもたらしたろう。このままの日々がずっとよい、そうトウハが思うほどに。
飛んできた器を、トウハはその顔でもって受け止めた。よけられぬほど、愚鈍な性質ではない。それを主が望んでいるためだ。適温の茶が、頬を伝い、トウハの衣服をぬらすのもかまわず、トウハは頭を垂れる。
「申し訳ありません、サユグ殿下」
「殿下、殿下など、煩わしい! 遠くに控えておれ!」
主の怒気が雷撃となり走る。それをまた、トウハは顔で受け止める。余波を食らった調度品が、無惨に砕け散った。トウハの額も割れ、鮮血が滴る。今度はトウハは去ることを躊躇わなかった。主に、血を見せたくはなかったからだ。失礼しますとはあえて言わない。この主は去られることを、かたく嫌っているからだ。
「ご用がございましたら、お呼びくださいませ」
室をでると、女官のニルが、手ぬぐいを持って、トウハを泣きそうな顔で迎えた。トウハは礼をいい受け取ると、額をそれで押さえた。
「トウハ様、申し訳ございません。私のお茶のために」
「案ずることはない。そなたに任せたのは私。そしてそなたはよく働いてくれた」
笑って仕事に戻るように促すと、ニルは一礼し持ち場へ戻った。あれはよく仕事ができるが、線が細いのが難点だな。主の怒りに、一喜一憂していてはつとまらぬ。トウハは血を止めると、布を洗濯番に渡した。
そうしていつも通り、膳や湯殿の差配へと向かう。
主であるサユグは、御年十四、年若の皇太子であるが、気性の不安定な少年であった。兄たちが立て続けに亡くなり、本来回ってくるお鉢ではなかった故、彼は皇帝の証たる雷神の力をうまく扱えないのだと、彼が激情をほとばしらせ、雷撃を放つたび口さがない者はいう。
しかし、トウハは知っていた。物事はそう単純なことではないのだと。
サユグが自らの激情を持て余し、雷神の力を使いこなすことができないのは、ひとえに、彼の幼少の頃に負った深い傷によるものだと、知っているからだ。
◇
幼き日のサユグは、美しく明朗な皇子であった。彼の上には八人の兄皇子、三人の姉皇女がいた。おおよそ皇位継承に遠い身分と、その気質のよさで、彼の周りのものは彼の為に身を粉にして働いたし、兄皇子からも好かれていた。
「サユグ、剣を教えてやろう」
「ありがとうございます、兄上」
自らの稽古の息抜きに、彼に手ほどきをしにくる兄皇子がどれほどいたか、おそらく全員であろう。彼が目を輝かせ、兄のことをほめるたびに、彼らは自らの才を信じることができたのだ。
特に、第三皇子たるアルグにおいては、目に入れても痛くないほどのかわいがりようであった。いつのときだったか、サユグがアルグの宝剣の石をほしがったとき、何のためらいもなく、花のような手に握らせてやったのだ。それは、彼の母君の形見であった。
そんなアルグであるから、一介の従者であるトウハにもたいそうよく扱ってくれた。他の兄皇子というものは、弟の従者は自分の従者のように扱う節があったが、アルグはあくまで、サユグの従者として、トウハを扱ってくれたのであった。
「トウハ、お前は筋がいい。サユグを護るために、私が剣を教えてやろう」
「もったいのうございます。私のような宦官が剣を持つなど」
「トウハ、兄上に習うとよい! 僕はお前が舞うところをみたい」
トウハはそれなりの位の貴族の息子であったが、母の身分が高くなく、嫡男とはなれなかった。そこをサユグの母に気に入られ、いずれ生まれ来る我が子のために、と宦官として迎えられたのだ。
お仕えするために、男の証を赤子の時に落とされた。忠誠心は、疑うべくもない。しかし、このスユルの国において、宦官という身分はトウハの人生に影を落とし続けた。
宦官は剣も握ることができず、文官として出世も望めない。ただ一介の側仕えとして生涯を終える。残るのは忠誠心のみである。
だが、主はそんな自分より二つ年上の従者をたてた。何かあれば、剣を握らせたがったし、勉学を与えようとした。
「いずれお前に、僕は大きく報いてやるからな」
それが、サユグの口癖であった。トウハは、ありがたかった。しかしそのような大それたことを、決してよそでは言ってはならぬと言い含めた。するといつも怒るので、トウハは機嫌をとるのに、いつも膝を貸し歌ってやらねばならなかった。
純粋で美しいサユグは、どれほど多くの幸福をもたらしたろう。このままの日々がずっとよい、そうトウハが思うほどに。
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