貴方に捧げる、ふたつの心

 酷く血生臭い風が彼女の鼻を刺激する。
 雄々しい程の魔力に染まったその森を、彼女――ウィアスは駆け抜ける。流れる水流を思わせる美しい蒼の毛並みが、濃い新緑の木々をすり抜けていく。
 彼女はこの大陸でも珍しい霊獣族の娘だった。大型の狼のような姿に、人間並みの知性を合わせ持ち、人語こそその口からは扱えないものの、この大陸での共通語は理解している。
 この大陸には人間をはじめ、エルフ、ドワーフといった種族やその混血種、また彼等とは敵対関係にある魔族や鬼族といった闇なる種族、それら以外にも天界を支配する天使達や、水中を主な生活域とする魚人族等多種多様な種族が、均衡を保っているとは言い難いパワーバランスの上で生活している。
 霊獣族とはその種族の内の一つで、括り的には獣人種に近いらしいが、彼等のように二足歩行や言語を操る発声器官は持ち合わせていない。古から変わらぬその身体は、見た目こそ野生動物達とそう変わりはしないが、高い知性からエルフ顔負けの魔術を扱い、その戦闘能力は力自慢で名高い鬼族にすら匹敵すると言われている。
――くっ……お父様、お母様……不甲斐なき娘をお許しください……っ。
 ウィアスは凄まじい速さで森を駆け抜け、しかし泣いていた。力強く走る四肢に――相反するように涙に濡れる、エメラルドグリーンの美しい瞳。
 彼女はこの森の中にある小さな村の娘だった。霊獣達だけのひっそりとしたその村は、人の言うところの村という形こそなしていないものの、数個の部族が寄り集まって出来た集落に違いはなく。彼等のことを知る近くの村の住民達からしたら、「言葉こそ語れないものの、その高潔なる意思はなにものよりも尊敬に値する」と称賛される程だった。
 人のように貿易等の必要のなかった霊獣の村は、近くの村――この辺りには人間やエルフ達が住んでいる――からお互いに干渉しないというシンプルな形で、その存在を互いに認め合っていたのだ。その平和な村を――
 今朝、ウィアスの住む村は謎の集団から突然の襲撃を受けた。ウィアスの家族が寝床としていたのは、村の中心から少し離れた洞窟だった。霊獣でも特に水流系と氷結系の魔力に高い資質を持つウィアスの家系は、魔力の源である霊水の湧くその洞窟を長年寝床と定めていた。
 朝早く、村の者達の悲鳴によって目が覚めたウィアスは、既に洞窟の出口に視線を送る母親に『何かから襲撃を受けているようです。貴女は奥の出口から先に逃げなさい』と霊獣同士でしか通じない言葉により伝えらえた。一足先に様子を見に行った族長でありこの村の長も務める父親を案じ、母親の表情も険しいものになっている。
 獣の血が濃い霊獣の一族は、その抜群の嗅覚により相手の力を見極める。その嗅覚により母親は、夫達の劣勢を嗅ぎ取っていたに違いない。それは霊獣としてまだこの世に十六年しか生きていないウィアスですらも感じ取れたからだった。洞窟の外――村から流れてくるこの匂いは、他ならない村の者達の血の匂いだから。
 その匂いに交じり、一際強い力を持った匂いが近付いて来ていた。酷い血の匂いと魔力の匂いに、鼻が曲がりそうだ。母親の目に決意の光が宿る。
『早く行きなさい! 森を抜けた先にエルフ達の村があります。そこならば貴女だけならかくまってくれるでしょう』
『お母様はっ? お母様も一緒に行きましょうっ!』
『私は貴女の母親である以前に、村長の妻です! 村の者達よりも先に敵に背を向けるわけにはいきません! さあ、早くっ!』
 ウィアスは族長の娘として、とても大切に、そして厳格に育てられていた。母親からの命令に近いその言葉に、ウィアスは従う以外の選択が出来なかった。そしてそれは母親からの、最後の言いつけであり優しさであることも理解していた。
 走るウィアスの眼前に大きな川が広がった。それは霊獣達の縄張りの境目であった。この川を越えたその先に、母が言ったエルフの村があるはずだった。目的のエルフ達の匂いを辿ろうとしても、川の水のせいか何も嗅ぎ取れない。しかし、背後から漂い来る血の匂いだけは鮮明で、足を止めればきっとその闇に追いつかれてしまうと本能でわかっていた。
 魔力の“色”に色濃く染まった蒼き四肢に力を込めて、ウィアスは一際高く跳んだ。目の前に迫っていた大きな川を僅か一回の跳躍で飛び越える。しなやかな筋肉に包まれた体躯には傷一つなく、柔らかい足の裏の肉によりその駆ける音はほとんど響くこともない。
 一息で川を渡ったウィアスは、突然強い魔力を感じて木々に寄り掛かり姿を隠した。川を越えたこの場所は、本来ならば対岸と同じく木々が鬱蒼と生い茂る森のはずだった。しかし、ウィアスの目の前の景色は違っていた。
 不自然に切り取られたような空間だった。森の木々が何か爆発でもしたかのように焼け落ち、そこだけが円形の広場のように開けた地になっている。そして、おそらくその原因であろう二つの影が、その円形の中心でがっぷりと刃を合わせていた。
――あれは……天使に、魔族……でしょうか?
 背中から神々しいまでの翼を生やした短い金髪の男と、やたら背の高い茶髪の男だ。
 霊獣の村から出たことのないウィアスにとって、直接見たことがある種族は限られていた。貿易の必要のない霊獣の村にも、病気の治療等のために他の村から派遣された人間やエルフといった聖職者は訪れる。今目の前で戦っている二人の男は、どちらもその特徴は見知ったものではなかった。
 背中から白き立派な翼を生やした金髪の男は、おそらく聖職者達から聞いた天使だろう。天界の王の思想を地表に伝える天使達は、即ち神の代弁者である。姿かたちこそ人型ではあるがその思考回路は人とは異なり、極めて合理的な者達が多いと聞いていた。
 翼がはためきその身体が天を舞う。その身体がまるで重力等ないかのように縦横無尽に動く。見れば槍――天使達の武装は概ね、神から与えられし聖なる槍と、天なる加護を宿した純白なる衣である――を操る白い腕は、聖職者達となんら変わらぬ細さだというのに、金属のような冷たい強さを感じる。
 対して魔族であろう男は、言葉通り天使とはその見た目からも対極であった。聖職者達と比べれば長身であろう天使より、魔族のその男は更に頭一つ大きかった。全体的に無骨な印象を与えるのは、腰までありそうなボサボサに伸び切った茶髪のせいか、血の跡を隠そうともしない黒を基調とした戦闘用のレザーアーマーのせいか、それともそこから伸びる鍛え上げられた逞しい腕のせいか。
 ウィアスと同じく魔力に染まったその肌は、美しさを感じる褐色で、髪の茶色はその肌に比べると赤みがあるとわかる。エルフのように尖った耳には、深い緑色が鮮やかなピアスをつけていた。天使を強く見据えたままの深い海の底を思わせるダークブルーの瞳に、ウィアスは思わず引き込まれそうになる。
――綺麗な瞳……
 天使に対しての感想ではなかった。死闘を繰り広げる男に対する感想としては相応しくない。
 ウィアスの住んでいた村は、基本的には他種族に関して干渉はしない。それでも世界の流れともいうべきか、魔族達からなる闇の種族の勢力『魔王軍』に対して寛容な教育は受けていない。
 その強欲さから人間のことも一概に好いているわけではなかったが、獰猛なる戦闘民族である魔族のことは、父親も母親も充分に警戒するようにと幼きウィアスに伝えていた。あの当時のウィアスにはわからなかったが、今目の前にいる男の魔力でそれがよくわかった。
――魔力の底が、見えない。こんな種族がいるなんて……っ
 族長であり村長でもある父を持つウィアスは、その産まれもさることながら、魔力の質を高める学びにも熱心だった。元来真面目で穏やかな性格は、彼女の魔力の質を更に押し上げた。純粋なるその心には、水や氷といった生命の力がこれ以上なく馴染むのだ。
 魔力だけなら村のどんな者にも負けないウィアスだったが、その彼女が計れない程の魔力を、その魔族は放っていた。
「ふん、邪魔が入ったな……」
「……強い魔力には感覚が阻害されてしまいますね」
 突然、二人の目がウィアスに向いた。木々の影に隠れたウィアスの位置は、どういうわけか二人の男には気付かれていたようだ。
 魔族の男が天使と同じく槍を振るって、噛み合っていた天使と強引に距離を取った。彼の槍は天使の光輝くそれとは違い、漆黒の闇を纏っていた。鋭い刃のみが刃物特有の輝きを放ち、その先は相変わらず天使に向けられたままだ。
 ウィアスは観念し木々の影から広場に出た。途端に二人の男の視線の質が、はっきりと変わったのがわかった。悪意を孕んだその視線に、四肢が震えるのを必死に隠す。強すぎる魔力に圧し潰されて、そのまま地に伏してしまいそうだ。
「霊獣、か。こちらの言葉はわかるのだったな?」
 魔族の男の言葉に、ウィアスは頷いて答える。すると男は――小さく笑った。予想外のその表情にウィアスが目を丸くしていると、天使が表情を変えずに機械的に言葉を放つ。
「酷く血生臭いお嬢さんですね。あの村の生き残りがいたとは――」
『っ! まさか村の者達を襲ったのは貴方ですか!?』
 ウィアスは声の限り叫んだが、その言葉が男達に伝わることはない。だがウィアスの怒りに彩られた咆哮は、言葉以上に男達に伝わったようだ。
「そんなに吠えなくても貴女の言いたいことはわかります。ですがこれも神の情け。一人……いえ、失礼。一匹で彷徨う哀しき魂に、神の慈悲を与えましょう」
 天使はそう言うや否や、ウィアスに向かって槍を構えて突進してきた。神々しい羽根により、天使は中空を滑空するように突き進む。恐怖に駆られたウィアスは動けず、その瞳を閉じて自身が串刺しにされる未来を呪うしかなかった。
 だが、いつになっても痛みや衝撃が襲ってこない。恐る恐る目を開けると、そこには魔族の大きな背中があった。
 魔族の男がウィアスを庇った。天使はその行動に極めて機械的に舌打ちをし、ばさりとその身を反転させて、横に薙ぐように執拗にウィアスを狙う。柄の部分をすかさず魔族の男が弾き返すが、その矛先が一瞬早くウィアスの左前脚の根本を浅く切り裂いた。
『っ……』
 それは浅く切り裂かれただけの、重症とも呼べない小さな傷だった。しかし――
「貴女の高い魔力、気に入りました。この槍と“混合”するに相応しい。その水源の力を天なる王のために使役しなさい」
 ウィアスはあまりの激痛に悲鳴を上げた。天使の言葉が頭の中で、大音響で鳴り響く。それはもう大きな音としか判断出来ない程の音量で、言葉の意味等理解しようがない状態だった。
 傷を負った箇所から魔力が渦のようにウィアスを飲み込もうとしてくる。激痛は傷からではなくその渦から湧き出ているようだった。
「貴様っ! 霊獣の娘にまで手を出すのか! 天界の傀儡風情が調子に乗るな!!」
 魔族の男がウィアスの傷口を直接掴んだ。その瞬間、違う種類の痛みがウィアスの身体を駆け抜ける。それは魔力の反発だった。霊獣であるウィアスの魔力は光の眷属のものであり、今は天使から受けた傷からその光の魔力が露出している状態だ。
 そんなところを闇の眷属の魔族が触れば、お互いに反発のダメージを負うのは目に見えている。そう、お互いにだ。
――っ!!
 ウィアスは、自分と同じく酷い反発の痛みを受けているであろう男の目を見詰めた。男のダークブルーの瞳は、しっかりとウィアスを見ていた。激しい反発の中、二対の視線が絡まり合う。
「少し手荒になる。すまないが我慢してくれ」
 男は小さくそう言うと、持っていた槍でウィアスの左前脚を引き裂いた。更に訪れた激痛にウィアスの意識が遠くなる。
 霞み始めた視界の中で、ウィアスは天使の持っていた槍が矛先から砕けるのを見たような気がした。


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