食罪人


 龍は極上の肉を食べ終わると、暖簾を潜って出て行った。見送りなど無駄だとわかりながらも店の外に睿は出たが、やはり龍の姿は煙のように掻き消えた後だった。暖簾を押した手が、やけに重たく感じられる。
 数時間前なのか、それとも数日前なのか……霞がかかったような頭で見る外の景色は、龍が来る前となんら変わりなく。春の訪れに華やぐ山道に、柔らかく微かに甘い風が吹き込んでいる。冬を越えた山々には穏やかなる色合いが戻り始めており、その色彩に引き戻されるように、このところの都の華やぎも風に乗ってここまで聞こえてくる程だ。
 先程までの体験は白昼夢か、それとも夢見る余りに見た幻想か……
 身体だけでなくいやに働きの悪い頭を捻って、それでも出ない答えに、店内にいる愛しい妻に答えを求めようと踵を返す。
 がさり。
 すぐ近くで茂みが揺れる音がした。睿はぎょっとしてその方向に目をやる。ここは山道の途中にある店だ。まわりには店も家すらも建っていない。人通りすらも少ないこの道は、人里離れたという表現が一番似合う場所である。
「……どうして?」
 そこには龍と共に先程まで店にいた、あの子供がいた。山の腕に隠れるかのように茂みから姿を現したその子供は、明るい陽射しの元でも相変わらず、感情も性別すらも読めなかった。
 大きな愛らしい瞳に甘い光を宿したかと思えば、その下で引き締まった唇が鋭い気配を漂わせる。不思議で、どこか儚げで。性や種など超越した何かが、そこにはあった。
 ここには姿を見せていない親譲りなのだろうか、漆黒の髪が穏やかな風に揺れる。短髪にもかかわらず、そこには鈴の音でも潜んでいるのかと思う程、艶やかに揺れる妖艶さがあった。
 こちらは父親――と言う存在になるのだろうか――譲りであろう深紅の瞳が、いやにゆっくりと細められた。山がしんと、静まり返った。
「ボクは貴方が気に入った」
 小さく形の良い口から、そんな言葉が出た。声変わりのしていない少年のような声で、いやにはっきりと空間に響いた。声音に感情は、ない。その言葉だけから全てを理解しようとするかのように、山々も、風すらも呼吸を止めたように静かだった。
 親子揃って同じようなことを言う。睿が返事のしように困っていると、子供は静かに目の前まで歩を進める。驚く程足音がしない。衣と同じく煌びやかな靴をはいているというのに、まるで地面にすら触れていないようだ。
 並んで向き直ったところで、睿はやはりこの子供は人間でいうところの“子供”なのだということを理解した。
 そうでなければこんなにも……こんなにも奇に満ちた表情で覗き込まれることはないはずだから。
 子供は睿のがら空きの腕の中にすとんと身を委ねた。まるで女子が男の愛をせがむように。獲物を決して逃がさないように。子供の身体から甘い、食欲のそそる香りが立ち込める。
「貴方に、ボクを料理してもらいたい」
 睿の胸に身を寄せて、ねだるようにそう告げた。深紅の瞳は合ったまま。声とは逆に、その顔に表情はない。
「愛しい父に、極上の肉を食べさせて欲しい」
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