貴方に捧げる、ふたつの心


 その日も長く冷たい夜だったが、ウィアスの心は暖かかった。それはその身に宿した男の存在のおかげだ。村の者達のことを考えて必死に目を瞑る夜が続いていたウィアスにとって、この日は初めて本心から安心して眠れた夜だった。
『おいウィアス、起きろ。あんまり可愛い寝顔をしてると、俺が先に味見をしたくなっちまう』
「……ヘルガ。夜通し嫁入り前の身を口説くのはやめてください。それに私と同じく、貴方もこの身体での顔を見てはいないでしょうに。あまり適当なことを言わないでください」
『お堅いねー。イイ女だってのは俺もゼトアの野郎に賛成だぜ。お前に食われながらその姿を見てたが、獣の姿であれだけ“美人”だったんだ。さぞかしイイ女だろうよ』
「……それはどうも」
 溜め息をついてしまったウィアスにヘルガはおかしそうに笑う。命を弄られた二人の間に芽生えた絆は、一晩のうちに固く確かなものになっていた。真面目な性格のウィアスの反応をヘルガは楽しんでいるようで、ウィアスもまた彼の調子の良い言葉がどこか心地良く感じられた。
 どうやらヘルガにはこの身体の主導権はないようだった。眠る前に二人でいろいろと試してみたが、ウィアスが心の中で強く願わない限りはヘルガに身体を渡すことはなかった。睡眠等で意識を失うと主導権は変わるようだが、本体のウィアスが目を覚ますと自動的に主導権が戻るようだ。
 眠っている間も何をしていたかは“共有”の脳に記憶されている。身体の機能はひとつなのだから当たり前だ。その為ヘルガはわざとウィアスが眠っている間に、『イイ女の身体だ』だの『いやらしいメスにしてやりたい』だの、酷く甘い声音で口説くように囁くのだった。
 ヘルガはそんなことを言いながら、自身の元の肉体が着ていた服を、血だまりの中から取り出してくれていた。飲み水のために入れられたままだった皿――ゼトアはおそらく気付いていたが見逃してくれたようだ――に入った水を使って、夜の間に汚れた服を洗う。
 付着した血液が取れることはなかったが、べっとりとした感触は無くなっていた。鉄格子にかけるようにして乾かしていたが、なんとか我慢出来る程度には乾いた。薄い素材の半袖とボトムだったからだろう。灰色の肌に合う、黒の半袖と、ダークグリーンのシンプルなボトムだ。
 靴を履くということを、ヘルガは出来なかったと言っていた。魔物のように尖った爪を持つ手足を食べたウィアスには、その理由がよくわかる。人間や魔族とは比べ物にならない程、彼の手足の指は長く強靭だった。おそらく戦闘でも武器を持つより、自身の爪での攻撃を好んでいたに違いない。
「ヘルガと私の精神が共存していることを、ゼトアは気付くでしょうね」
『ああ。おそらく俺らの魔力も混ざり合ってる。高位の軍人様が、それに気付かないわけがねえな』
 ヘルガが得意とする魔法は爆炎系らしい。性格も得意な属性もまるきり反対だというのに、どうしてこうもこの身体には馴染むのだろうか。
『……“上”に人の気配がある。来る前に服、着とけ。未来の旦那様以外に、この身体はどうにも見せたくねぇよ』
 冗談なのかわからないことを言ってヘルガが笑うのを聞きながら、ウィアスは手早くヘルガの服を身に着ける。シンプルな服は着るのに手間取ることもなく、しかしサイズ感が違い過ぎてどうにも動きにくい。
 重い扉が開く音が響き、そこからゼトアが姿を現した。
「顔色が良くて安心した。体調はどうだ?」
「……この姿に驚かないのですね」
 ゼトアは至極当然のように鉄格子越しにウィアスを見ている。その口元に微かに笑みが浮かんだ。
「今は、ウィアスか……共存しているとはな。益々気に入った。その様子だと、ヘルガから俺の“こと”は聞いたんだろう?」
「貴方が彼に何をしたかもしっかりと」
「それで? そんな俺とは結婚は出来ないか?」
 まるで全てを視通しているかのように、強い瞳でゼトアに見詰められる。その口元から薄い笑みが消えることはなく、目の前に立つ魔将の姿には余裕すら感じられる。彼はあくまで、選ぶ者で、選択肢はこちらにはないのだ。
「私は……貴方との結婚を受け入れます。私は、貴方を愛してしまいました」
 夜通しヘルガと心を繋いで、ウィアスにはわかったことがある。それは、ウィアスもヘルガも、この男のことを憎んでいるわけではなかったのだ。深く強大な魔力に惹き付けられるように、この男のことを愛してしまっていた。
 ダークブルーの瞳が、まるで心の奥まで覘くように細められる。その鋭い表情にすら、ウィアスの心は歓び燃やされる。それを頭の奥でヘルガが笑った。嘲笑ではない、優しい声だ。
「そうか。ならば我らが魔王に会わせてやろう。俺のモノ(女)だと伝えれば、もう後戻りは出来ないぞ」
「貴方に救われた命です。どうかこの命が消えるその時まで、貴方のために使わせてください」
「……本当にイイ女だ。お前もそう思うだろう、ヘルガ?」
 ゼトアの表情が突然歪む。悪い笑みを浮かべた彼にすら、ウィアスの心は強く惹き付けられた。これでは彼の存在自体が、まるで一種の麻薬のようだ。くらくらとしそうな頭の中で、ヘルガの声が“耳から”響く。
『……おいおい、今は命を救った女との感動的な場面だろう? 俺の名前まで呼んで、強欲な奴』
 ウィアスの口が勝手に動いて、男の声でその言葉を発した。同じ声帯から出たその声は、紛れもないヘルガの声だ。
「ほう。今のお前たちの姿、後で鏡で見せてやる。見事なまでの共存だ」
『てめえの歪んだ顔こそ鏡でよく見るんだな。お前……女が抱けないなんて、嘘だろ?』
 ヘルガのその問いには答えずに、ゼトアは鉄格子の開いていた扉から牢獄の中に入ると、ウィアスの手にその大きな手を重ねた。
「二足歩行は初めてだろう? あまりに歩きにくいなら所々でヘルガに手伝ってもらえば良い。最初は手を引いてやるから、魔王の元までこのまま行くぞ。服は……謁見の後だな」
 長身のゼトアに手を引かれ、しかしその優しい手つきにウィアスは自分の顔が赤くなるのを自覚した。脳裏にヘルガの笑い声が響くが、彼もまた少し恍惚としているように感じるのは共存の故だろうか。
 ゆっくりと足の感触を確かめながら立ち上がる。急激に高くなった視線に眩暈がして、ふらついたその足をヘルガの意思が力強く踏み止まらせることで手助けしてくれる。まだふらつく上半身を、ゼトアが優しく抱き留めてくれた。
「獣の時から思っていたが、本当に小柄で華奢だな。俺が触れれば折れてしまいそうだ」
『お前が触れたら腹に穴が開くぜ』
「ふっ……お前の肌の色は素晴らしいと思っていたが、この蒼もまた美しいな。毛並みよりは薄いが、見事な水の魔力だ」
 ウィアスの手を引いたゼトアは、そのまま手の甲に軽いキスを落す。右腕だったのでウィアスの魔力に染まった肌の方だ。突然の甘い行為に、ウィアスの心臓が高鳴る。ドキドキと自分の心臓が煩いと感じるなんて、産まれて初めてのことだった。
「ゼ、ゼトア様……」
「お前は俺のものになるんだ。そんな他人行儀な呼び方はやめてくれ。俺のことはゼトアと。ヘルガ、お前もだ」
「はい……ゼトア」
『へいへい』
 忙しなく動くウィアスの口元に目を落し、ゼトアはくっくと喉の奥で笑った。細められた瞳には、昨日も見た優しさがある。ウィアスを抱いていた大きな手が、ウィアスの頭を優しく撫でる。さらりと指の通る自身の髪の毛に、ウィアスはようやく意識を向けた。
 毛並みと同じく蒼色の髪は腰まで伸びている。その感触を楽しむゼトアの手が、髪から顎に添えられる。気が付いた時には唇同士が触れ合って、熱く燃えてしまいそうな胸に息苦しさすら感じてしまう。
 軽い唇同士のキスはあくまで優しく、それが離れた時には、深い深海を思わせる瞳に捕まっていた。
「イイ顔だ。女の“お前”もイイものだな」
 彼の言葉の真意を知りたくて、でも……知りたくなくて。
 ウィアスはその言葉に返事が出来ず、ただただ手をその広い背中に回す。長身の彼の腰の上辺りに、ようやくその手を添えることが出来た。ウィアスの反応に彼はまたくっくと笑い、包み込むように抱き締めてくれる。
――いったい、どちらを抱き締めているのですか?
 心に浮かぶ問いを口に出すことが出来ないまま、ウィアスは彼にその手を引かれ、ついに薄暗い牢獄を出ることになった。
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