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百合の時期にはやや早い


 智夏と付き合ったことで、碧の学生生活は激変――することもなかった。そもそも平日、下手をしたら休日までも忙しい企業戦士が相手の恋愛だ。数時間おきに通話アプリにメッセージが返ってくるだけでも感謝するべきだろう。
 夜遅くに帰って来た彼女と少しだけ通話して眠るのが毎日の日課にはなったものの、それ以外の学生生活は何も変わらなかった。
 だが、生活は変わらなかったが、意識は変わった。
 元から真面目なことくらいしか取り柄がないので授業には毎回出ていたのだが、その授業への取り組み方が変わったのだ。
 夢を――将来やりたい仕事を見つけるために、知識を吸収しようと考えが変わった。同じ女の智夏があんなに頑張って働いているのに、自分は適当に仕事なんて、出来ない!
 今更ながら夢を見つけられずに適当に大学に入ったことが悔やまれるが、しかしそんな“今”を悔いても仕方がないのだ。必ず訪れる“これから”のために、むしろこの大学で良かったと思えるように行動していけば良い。
 意欲的に勉学に励みだした碧のことを、智夏だけでなく昌也も応援してくれた。
 あの一件から昌也はまめに連絡をくれる。基本的には用件を伝えるやり取りながら、気を遣える彼らしい雑談がその間を彩るため、偶然スマホ画面を見た大学の友人は、昌也のことを碧の彼氏だと勘違いしていた。
――ま、面倒やからこのまま勘違いしといてもらお、っと。
 “あれ”から碧も少しだけ、大人になった。友人との適度な距離感というものを学んだつもりだ。今までは腹を割って全て話せる関係こそが正しいと信じていたが、相手を見て関係性を変えることもまた、重要だと教えられた。
 いつかは何もかもを伝えられるかもしれない。でも今は――今じゃないから。
 家では料理の練習を始めた。母には彼氏でも出来たのかと言われたが、そこは曖昧に流す。こんな反応は、普通だろうし。
 料理の出来栄えを毎日智夏に送っていたら、『まだ事務所おんのに腹減らすなや』と笑っているメッセージが来た。怒っているわけではないようだが、その時の時刻が夜の九時を過ぎていたので、彼女の身体が心配になった。身体のことは、本当に職場にも伝えているのだろうか?
 碧が聞くのを躊躇っていると、連続で彼女からの連絡が入る。
『料理上手な女になったら、嫁さん引く手あまたやで』
 いつもの調子の軽口だ。しかし、何故だが碧の胸が警鐘を鳴らした。彼女はこんな――別れを示唆するようなことを言うだろうか? 嫁さんとは、それはつまり、男性との結婚ということではないのだろうか?
 不安で手が凍り付いたように動かない。そんな碧の心境を悟ったかのように、今度は昌也からの連絡が入る。
『兄貴が言ってたんやけど、姐さんどうやら仕事の引継ぎしてるらしいで? 共通の営業先に行った時にたまたま見掛けただけらしいけど、何か聞いてる?』
 敬語はあの日を境に止めて貰った。自分はまだ、尊敬されるような人間ではないから。昌也も兄も一人暮らしだが、それなりに密に連絡を取り合っているようで、この前は彼氏に浮気と勘違いされたらしい。なんでやねんと思ったが、あまり突っ込まないようにしておいた。
 それよりも――
――仕事、引継ぎしてるなんて聞いてへんし……
 相変わらず智夏からは多忙な割には連絡が来ている。自分に時間を割いてくれていることが嬉しいと碧は素直に喜んでいたが、肝心なことを彼女は言ってくれていないのだろうか。それとも、学生の碧には会社のことを話すのはまだ早いと思われているのだろうか。
 それに、智夏のことを『恋人』とだけ説明している大学の友人からは『営業職の彼氏にしては連絡マメ過ぎん? 遊ばれてるんちゃう?』なんて心無いことも言われた。気にしているつもりはないのだが、それでもやっぱり不安にもなってしまう。
『碧ちゃんも知らんのや。なんかその取引先、姐さんのことお気に入りらしくてさ。兄貴も心配してるんやけど、もしかして姐さん、仕事辞めるとかちゃうよな?』
 そんなこと、あるわけない。
 智夏を知る人間は、きっと口を揃えてそう言うだろう。碧だってもちろんそうだ。彼女が病気だと知るまでは。
 すぐにどうこうなる病気ではないと言っていた。でも、百パーセントそうだとは言い切れない。その病気が引き金となって、更に大きな病気になるかもしれない。
――そうやん。智夏だけじゃない。みんながみんな、いつ死ぬか、なんてわからんのやん……
 人は死ぬ。いつか死ぬ。それは生き物全ての理で。避けようのない、未来の話だ。
 遠い未来の話のはずだった。
 碧の心がどくんと、震えた。この瞬間、やっと自分に告白してくれた智夏の心境が理解出来た気がした。
 いつ死ぬかわからないから、自分の気持ちを伝えようと思った彼女。自分は彼女から動機を聞いたにもかかわらず、今この時までその気持ちを本当の意味で理解出来ていなかった。
 付き合い始めて二週間が経っていた。その間、連絡は毎日欠かさなかったが、デートらしいデートは出来ていない。
 彼女の仕事が終わるのは遅く、先週は仕事帰りに深夜でも開いているファミレスに誘われたが、実家に住んでいる碧には出掛けることが出来ない時間帯だったので行けなかった。
 将来のことを考えているのは碧だって同じなので、出来るだけ両親からの心象は良くしようとしたつもりだったが、今から思えばただの言い訳だったのかもしれない。
 そもそもその誘いは、二人きりのデートというわけではなく、昌也の兄もいる仲間内の小さな集まりだったからだ。智夏的にはそこで碧のことをお披露目しようと考えていたようだったが、健斗と昌也のやり取りを見た後ではどうにも気が進まず、断ってしまったのだ。
 変に悩まずに彼女に相談すれば良かった。そう思えるくらいに楽しそうな写真が、その日の深夜に碧のスマホに送られてきていた。昌也の兄である強面の男と仲良さげに写っているのを見て、ここは私の場所のはずなのにと、自分勝手な嫉妬をしてしまった。
――親の目気にしたり嫉妬したり……智夏のこと信頼してないやん、私。
 送られてきた写真の中には、彼女のスマホに映る自分の姿があった。待ち受けにされている自分の姿がいったいいつ撮られたものなのかという問題はあるが、それこそが彼女からの信頼の証に他ならないと碧には思えた。
 肉体関係にあった友人と平然と集まっているような彼女だが、ちゃんと付き合うにあたってそういう関係であることは切ってくれたのも事実だ。昌也に再度確認したが、それは本当らしかった。そもそも智夏側には恋愛感情もなかったようだし。
――ちゃんと顔見て、話そ。
 思い至ってもうじうじと考えてしまう私とは、二週間前にお別れしたのだ。
 昌也への返信は後。それより先に、即行動だ。
『明後日の土曜日、短くても良いから会いたい』
 そのメッセージへの彼女からの返信は、一日経っても送られてくることはなかった。



 メッセージも通話も全て試した。そのどれもに返事はなかった。
 デートの誘いを送ってから丸一日が経ち、どうにもこれはおかしいと思った碧は、昌也にすぐさま連絡を取った。彼も連絡がマメな智夏から音沙汰がないということが何を意味しているか理解して、慌てて自身でも連絡が取れるか確認し、そして兄にまで連絡を取ってくれた。
 時刻が遅かった――丸一日待ってみたので、日付が変わろうとしている時間だった――ためか、兄からの連絡が入ることもなく。
 胸騒ぎがして、その日はなかなか眠れなかった。時たまうつらうつらとして時間が過ぎ、なんとも晴れない心と頭のまま朝を迎えてしまう。そして、休日用の遅く設定した目覚ましのアラームより先に、昌也からの着信で目が一気に覚めた。
「もしもし……?」
『碧ちゃん! ちゃんと寝れた!? 頭はっきりしてる!?』
「え……寝れんかったけど、何かわかったん!?」
『えっとな……さっき兄貴からメッセージが入って、病院に姐さん迎えに行ってくるとか言っとるねん!』
「え、病院!?」
 驚く碧に、昌也も同じく混乱した声で答える。
『メッセージしか来てなくて、通話も多分運転中やからか出んくてさ。オレ、これから出勤やから助けてやれんねんけど、碧ちゃん一人で大丈夫そう?』
「行く! 大丈夫っ!! 今から行く! 病院って、この前の病院で合ってる!?」
『多分そこやと思う! つかそこじゃないともうオレもわからん!! 碧ちゃんにも、何も言ってへんのやろ?』
「うん、私なんも聞いてない。もう直接聞く!!」
――引継ぎのことも、病気のことも、そんで……昌也くんのお兄さんのことも……
 本当ならば、一番に連絡が来て、一番に駆け付けるべき存在なのは自分のはずだ。
 しかし現実は、病院に向かったのは昌也の兄だった。きっと彼は、智夏に呼ばれたに違いない。それか、彼とは連絡を取り、今日の予定を知っていたに違いないのだ。
「お父さん! 車貸して!!」
 化粧もしていない。適当に引っ掴んだ服に着替えたままの恰好で、碧は家を飛び出した。



 病院までの道のりが、やけに遠く感じてしまう。
 休日の道路は混んでおり、まだ朝の十時とは思えないような渋滞っぷりだ。
 急いでいる時に限って渋滞にハマるのは、車あるあるなのだろうか。
 運転中にスマホを触ることは出来ないのでメッセージ等は確認していないが、着信を告げる音は聞こえていないので無意味だろう。
――もしかして、私がお邪魔なんじゃ……?
 勢いに任せて出てきたは良いものの、病院が徐々に近づくにつれて、碧の心は昔から巣食う『弱虫』に蝕まれつつあった。
 自分じゃなくて、彼に連絡をしたのは、それはつまり……関係が切れていないということじゃ? むしろ碧とは遊びで、彼の方が本命なんじゃ? だってだって、彼は『男』だから。
――違う! 違うし! 智夏はそんな人じゃないっ!!
 頭を振って弱虫を振り払い、碧は漸く見えた病院の看板を睨み付ける。そして、どうやらこの渋滞がただの休日ムードのせいだけではないことを悟った。
「あー、事故やったんか」
 大通り沿いにあるこの病院は、西口が正面玄関に当たる。大通りに面した西口の手前で、どうやら事故があったようだ。大型トラックが横転しており、警官が交通整理をしている。なんとか直進はさせているが、病院への道は閉鎖されていた。ついさっき起こったような事故ではなさそうに見える。
 碧は仕方なく右折して、脇道に逸れる。この病院には駐車場への出入り口が二つあり、東口ならこの道からでも行ける。同じ考えの病院利用者の車数台と共に、碧が駐車場に入ると、すぐに見慣れた赤色が端の方に停められていることを発見する。
 少し躊躇してからその車に近寄っていく。躊躇した原因の青色の改造車が、まるで碧を威嚇するかのように赤色の隣に停められていたからだ。
 ゴクリと唾を飲む。車体の影から男の姿が見えた。昌也の兄だ。男らしい大きな手が、彼女の――車の前に板のようなものと何かの部品を置いていく。
 見慣れない物体に意識をもっていかれてしまい、気が付いた時には彼女達の正面まで車を動かしてしまっていた。
 こちらの接近に気付いた二人が視線を向けて、智夏が驚いたように「碧!」と声を上げた。その声に隣の男も「あ、噂の彼女? マジ?」と言っている。窓開けてないのに、二人共声が大きいんやから。
 とにかく、智夏が元気そうで安心した碧は、車を駐車することにした。年上二人に見守られながら、駐車する。男が後ろに素早くまわって誘導までしてくれた。やっぱり、兄弟揃って悪い人ではない、かも?
「智夏!」
 シートベルトを外して荷物なんてそのままに飛び出してきた碧のことを、智夏は人目も気にせず抱き締めてくれた。周りからしたら仲の良い女同士のハグにしか見えなくても、恋人同士の二人の抱擁だということを、隣の男は知っているというのに。
「智夏?」
 抱き締めて、わかった。
 彼女はまた、痩せている。明るい太陽の下だというのに、碧を見上げる顔色もあまり良くない。
「碧には、こんな姿見せたくなかったんやけどな……」
「……智夏……連絡なかった間、病院いたん?」
 ざわりと足元を駆け抜けた風が、駐車場を囲むようにして植えられた桜の枝を揺らした。
 舞い散る桜の花びらを見上げて、彼女はふっと零すように言った。
 その声はまるで微かに響く鈴の音のようだ。静かに心に寄り添うように、それでいてどこにいても聞こえてくるような凛とした声だ。
 彼女はとても、綺麗な声で――己の病気について答えた。
「うん……入院、してた」
 彼女の声は鈴の音のように――震えていた。それでいて、どこか落ち着いた気配も漂わせていた。諦めや自棄からくるものではない。
 そこには普段の彼女からいつも感じていた『力強さ』のようなものを感じた。
「……入院しても、治らないん……やんな?」
 自身の声が、弱々しい。病に侵されているはずの彼女よりも、その声はやけにか細く響く。
「うん……でも、エエねん。そのおかげで……自分の気持ちに正直になれたし。この病気になったこと、私は後悔してない」
「……うん」
 彼女の声が、震えた。熱を帯びて、震えた。
「でも……碧にはほんま、こんな姿見せたくなかった……」
 震えた声にはっとした時には、彼女の強い瞳から一粒の涙が零れていた。けっして泣きわめくことをしないのは、彼女のプライドのように感じる。一筋流れたその涙すら、真っ直ぐな彼女を表しているかのようだ。
「智夏はさ、どんな姿でもかっこいいよ。今だって、凄いかっこいい。私の自慢の恋人やで」
 ぎゅっと抱き締めてそう告げる。腕も、肩も、骨に当たる。心も瞳もこんなに強いのに、病魔に侵された彼女がこんなにも愛おしい。
「私……今絶対かっこ悪いけど、ほんまにかっこええって思ってる?」
「思ってるし! そうじゃなかったらこんな姿の智夏、好きやって思えへんし! 大切に守りたいって思ってるんは、智夏だけじゃないんやで!」
 そう笑って言ったら、とうとう智夏の顔にも笑みが差した。いつもの顔に近づいてくるだけで、碧の心臓は早鐘を打つのだから、自分も案外単純だと思う。
「そっか。なら次からは板とジャッキ、碧に頼もかな」
「え?」
「へ?」
 にかっと笑った彼女の言葉の意味がわからなくて、思わず間抜けな声を上げた碧。そしてその碧の反応に更に間抜けな声を上げる智夏。
 暫く無言の時が過ぎ、とうとう耐えきれないと言わんばかりに、昌也の兄が大笑いして言った。
「おい智夏、お前彼女に誤解されとるって気付け。彼女が言ってるんはお前の身体のことで、お前が言ってるんは車のことや」
「え? 車!?」
「へ? 碧、何がかっこいいって言ってたん? 亀さんなりかけた私の車のこと、慰めてくれたんちゃうん?」
――てか、亀って何!?
「今朝から正面で事故っとるやろ? こいつの車、車高低いから正面からやないと出れんのやけど、早く彼女に会いたいからって、俺にジャッキと板持って来させて東口から強引に出ようとしとったんや。マジで頭悪いやろ? こんな女でほんまにエエんか?」
 まだ笑いが治まらないという表情で、昌也の兄が説明してくれた。名乗りもしていないというのに、ズケズケと人の恋人のことをボロカスに言ってくれる。
「勢いよく出ろ、腹くくれとかこいつ言いおるんやけど、さすがに恋人に会いに行くのにそれはないなと思ってな。時間かかるからちゃんと出てから連絡しようと思ってん。心配かけて悪かった」
 しかしその口の悪さもお互い様なのだろう。二人の間に流れる空気は、悪友のソレだ。
「ううん、ええよ。智夏が無事なら、それで良いし……って、入院してたんやろ!? 体調はどうなん?」
「あー、それな。ちょっと薬が合わんくて血ぃ止まらんかったんやけど、念の為病院に一泊して薬替えたらバッチリ止まったわ」
「そっか。ほんまに良かったー。あ、えっと……」
「あ、俺? 優利(ユウリ)やけど、碧ちゃん、で合ってる?」
「はい。優利さんも、ありがとうございました。えーっと、私の恋人がご迷惑をお掛けして――」
「――おーおー、話聞いてたんと違うぐらいかましてくる奴っちゃなー。どうせクソガキ(昌也)から俺のことも聞いとるんやろー? 腹立つわー」
 言葉とは裏腹にその口元には悪い笑みが浮かんでいる。さすが愛しい人の悪友だ。こんな悪ふざけにもびくともしない。
「お幸せに」
 ふっと笑った顔は、気遣いの出来る弟に似ていた。
「当たり前やろ。こいつを幸せにするんは私の仕事やし」
 病的なまでの細腕に、強引に抱き寄せられる。そのままの勢いでキスを交わした二人の横で、優利はひゅうっと口笛を吹いた。
――やっぱり智夏はかっこいいで。
「大好き」
 周りの目なんて気にせずじゃれつく二人を祝うように、花びらがまるでシャワーのように舞い落ちていた。
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