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百合の時期にはやや早い


 駅前物件のなんとも家賃の高そうなアパートに智夏は住んでいた。一人暮らしをしているということは知っていたが、やはり給料が良いのだろう。実家暮らしの碧とはまたしても全然違う生活だ。
 駐車場もアパートの敷地内だし、オートロックもついている。階数こそ二階だが、防犯面は充分だと思われる。
「正直、寝に帰ってるだけの部屋やから散らかってはないけど、多分生活感あんまないしな。碧にはつまらん思いさせるかもなー」
 部屋の扉を開けながら、智夏はそう言って笑っていたが、彼女の背中に続いて入ったその部屋は、正直碧の想像を超えていた。
 白と黒でまとめられた家具は必要最低限。黒の枠組みのベッドの上は清潔感のある白の寝具が敷かれ、同じく黒の長テーブルはギラリと光を反射している。テレビを始めとした電化製品――単身者用の冷蔵庫や電子レンジ、トースターに至るまで、全てが黒で統一されているのがまたクールだ。
 1Kのフローリングのシンプルな部屋だが、随分広く感じる。女子の部屋によくある床に転がっているものがないからだろうか。掃除をしやすくするためか、カーペットの類はひかれていない。その代わり座椅子としても使えそうなこれまた白と黒のクッションが二つ、ベッドと長テーブルの間に置いてあった。
 生活空間に向かうために通るキッチンには、本当に必要最低限の調味料と調理器具だけが並んでいる。キッチン自体が狭く、コンロも取ってつけたようなものなので、手の込んだ自炊は難しそうだ。
――なんか、男の部屋みたい……入ったことないけど。
 碧の部屋にあるようなぬいぐるみなんてものは一切ない。テレビの横の棚には、車関係の映画やアニメのDVDや漫画が並んでいるし、テレビを挟み込むように設置された大型のスピーカーからは、智夏が部屋に入ってすぐに電源をつけたようで、ゆったりとした洋楽が流れ出している。
 まだ昼間の時間なので、部屋の明かりはつけなくても明るい。
「ようこそ、私の部屋へ」
 甘い香水のような香りに包まれた室内にて、智夏は快く碧を迎え入れた。ベッドの手前で足を止めて、こちらを振り返りにやりと笑う。その瞳にはいつもの自信が滲み出ていて、本当に男前な性格の恋人だと思う。
「お邪魔します。凄い、オシャレな部屋」
「全部量販店で買った安モンやで? 使えたらエエねん、家具なんて。どうせ寝るだけやしな」
 彼女が言っていることは本当なのだろう。どこにでもある量販店で、これだけセンスの良い買い物が出来るのだ。
「それに……これからは碧がこの部屋に足りひんモン置いてってくれたらエエからな」
「え?」
「今日は流石に家帰すけど、これからはいつでも来てくれたらエエからさ。お泊りとかも、親御さんが許すなら、いつでもエエよ」
「お泊り、してもエエの?」
「親御さんの許可が出たら」
「もう! 女同士のお泊りも許されへんような年ちゃうし!」
 いつものじゃれ合いのつもりで言い放って、言い終えてから碧は気付いた。彼女の瞳が一瞬、揺れた。
「せやんな。“女友達”の家泊まる言うて、それがほんまに女の部屋なら、親御さんも警戒なんてせんよな」
 当たり前やんなぁと笑った智夏が見ていられなくて、碧はほとんど飛びつくような勢いで彼女に抱き着いていた。
「おっと……」
 いくら男前な性格の恋人だと言っても、智夏は体格は碧よりも小柄な女性だ。勢いに負けて華奢な智夏の身体は、碧と一緒にベッドに倒れ込む。
 ぽふんと柔らかい感触に包まれる。枠組みこそは安物かもしれないが、寝具自体には金が掛かっていそうだ。お金の使い方すらも上手なのか。
「うはー碧ってば、めっちゃダイタンやん」
 ぎゅっと碧の身体を抱き締めながら、本当に嬉しそうに智夏はそう言った。碧もそれに応えるように小柄な身体を抱き締める。細い細いとは思っていたが、所々に骨が当たる感触がある。
「これ……病気のせいなん?」
 骨の浮き出た細腕に触れながら問うと、智夏が「んっ」なんて甘い声を上げたから、足の脛を軽く蹴ってやった。あの表情はわざとだ。悪ふざけだけはする女だから。
「軽い冗談やん。努力のダイエットの成果……って言えたらエエんやけど、その通りや。消化能力が潰瘍で落ちとるから、栄養をしっかり吸収出来てへんらしい。健康診断で引っ掛からんかったら、わからんかったで」
「前々から細い細いとは思ってたけど、こんなんなってるなんて思わんかった」
「碧も細くて可愛いで。つか、せっかくやから、私の身体……もっと見る?」
 再度の悪い誘いに、しかし今度は碧も突っぱねることが出来なかった。「もう!」と溜め息をつきながら見た彼女の表情が、想像通りの悪い笑みでも、いつもの気だるげな表情でもなかったから。
 智夏は真面目な表情で、もう一度碧を“誘う”。
「碧……これからはもう、私の身体はお前にしか見せへん。“これ以上痩せることがない”ように気を付けるし、この身体は、碧の好きなようにしてエエんやで」
 それはまるで悪魔の誘いだ。恋愛経験のない碧にだって、この空気が何を意味するかはわかっている。
 初めてで、やり方すらもわからなくても、好きという気持ちだけで、碧の身体は吸い寄せられるように智夏の身体に密着し、そのまま――初めてのキスをした。
 触れるだけの、しかし気持ちを通じ合わせるキスだった。閉じていた目を開けると、目の前には笑っている智夏の顔がある。その瞳が本当に優しくて、守られていると実感出来た。
――これからは、私だって、智夏のこと守るんだから。
 決意を示すようにもう一度強く抱き締める。それに応じながらも智夏が「なぁ、もっと」なんて耳元で囁くものだから、碧も自分自身が彼女に対して抱いていた感情が恋愛感情であったことを悟る。
 智夏の手がするりと着ていたセーターの中に潜り込んでくる。しっかりとインナーをロングスカートにインしていたために少し笑いながら「見た目だけじゃなくて中身もガード固いん、嫌いやないで」と言われた。
 動きやすい服装をしている智夏とは反対に、碧の服装は基本的には露出が少なく、そして地味だ。それは色合いだけでなく、無難なもので固めているのが原因だろう。今日だって季節柄仕方なく春色の淡い水色のセーターに白のロングスカートを合わせているが、本当はブラウン系統が一番好きだったりする。
「碧……好きやで」
「っ……私も、智夏が好き」
 智夏の手が直に腹を撫でた。ひんやりとした指先が、焦らすように這う。いつの間にか体勢も逆転し、智夏が覆いかぶさってきている。
「……エエんか? 怖かったら、今日やなくてもエエんやで」
 優しく、問われた。これ以上が何を意味するかなんて、流石に碧だってわかっていて、それでも抵抗なんてしていないのに。智夏は碧を本当に心配し、大切にしてくれている。
「……うん、大丈――」
 ピロピロピロピロ――!!
 頷く拍子に涙が滲んだ碧の頭上で、けたたましい電子音が響いた。
 愛しい人の視線がベッドの上に放り出されていたスマートフォンに向けられる。赤いカバーがついたそのスマホは智夏のもので、まだ鳴っているところを見るに着信のようだ。智夏がスマホを手に取りながら「このクソ野郎、エエとこやのに」と呟いた。
 下側から覗く碧からは着信の画面は見えなかったが、その視線に気付いた智夏はにっと笑って通話を開始しながらスピーカーモードをオンにしてくれる。ついでに頭も優しく撫でてくれた。
『姐さん! 遅くなってすみません。仕事今終わったんで、健斗(ケント)と一緒に向かいますけど、今家ですか?』
 スマホからは男の声が流れてきた。少し音割れをしていて、どうやら走っている車の中からの着信だと思われる。そしてその声には、碧も聞き覚えがあった。確か集まりで会ったことがある男の子だったような。
「悪いな昌也(マサヤ)。後ろの音楽うるさいけど、健斗の車で来てるんか?)
『はい、そうっす。オレのエイトちゃんは仕事場置いて来てるんで、健斗の運転で二人で向かってます』
「りょーかい。うち来てくれたら鍵渡すから、そのまま病院行って私の車持って来て欲しいねん。さすがに日ぃ跨いで置いとくんはマズいし」
『防犯的に良くないっすよねー。大丈夫っすよ。了解です』
「助かるわ。せや! 車持って来てくれたらうちで鍋でもせんか? ちょっと季節的にももう暑いし酒もナシやけど」
『良いっすね。愉しみっす。んじゃ、多分あと二十分もせんうちに着くんで。お願いします』
「はいよー」
 通話を終えた智夏が「騒がしくて悪いな」と申し訳なさそうに薄く笑った。彼女にそんな顔はして欲しくないし、会話内容を聞いていた限り、どうやらあの病院に置き去りにされている智夏の車をこれから来る二人が取りに行ってくれるようなので、むしろ感謝しなければならないだろう。
「ううん、智夏の車取りに行ってくれるってことやんな? なら仕方ないし、鍋とかするなら私は――」
「――良かったら一緒に食べへん? それか、あの子らと一緒やと嫌?」
「っ……嬉しい! 一緒に食べたい!」
 地味で大人しい自分なんかがいたら、きっとこれから来る男の子達は嫌がるだろうと考えていたので、智夏のその申し出が碧にとっては嬉しくて仕方がなかった。きっとこの関係は秘密だろうが、それでもまるで認められた仲のようになれた気がした。
 碧の返事に智夏も満足そうに笑うと、スマホを少し操作してからキスをもう一度くれた。
 今度のキスは少し長めに、そして少しだけ唇を舌でなぞられた。それだけで碧がびくりと震えてしまったので、彼女は笑って離れてしまったのが、申し訳なかった。
「あいつら来たら近くのスーパーに具材買いに行こか。男の子二人やけど、あいつら馬鹿みたいに食う奴らちゃうから、ちゃんと碧が食いたいモンも食えると思うで」
「えっと、昌也、くんって、確か白いかっこいい車乗ってる人やっけ?」
 自分の中の記憶が合っているかどうか本人達が来る前に確認しておきたくて、碧は智夏にこれから来る二人について質問する。
「せやでー。ロータリー乗っとる子やな。気配りも出来るエエ子やけど、いくら男前やからって浮気したらあかんで!?」
「せんし! 智夏の意地悪! えっと、それより……健斗、くんって?」
「多分碧は見たことなかったんちゃうかなぁ? たまに来とる若い子で、あいつはどっちかっていうと見た目以上に中身がチャラいから、あんま関わらんようになー。エエ子なんはエエ子やねんけどー」
 先程の昌也とは大違いの説明に、碧も注意しておこうと心に留める。さすがはヤンチャな趣味な集まりだ。車だけでなく異性関係も派手な人間は、学内なんかよりもよっぽど多い。
「うん、気を付ける」
「多分連絡先は聞かれるやろうから、躱しきれんかったら交換だけして無視しとき。あんましつこかったら私に言ってくれたらエエし」
 こちらを安心させるためだろう。頭をまた撫でられた。碧は確かに不安を感じている。その不安を敏感に智夏は感じ取ってくれている。しかし、彼女はその不安の“中身”までは感じ取ってくれていない。
「う、うん……智夏は、さ……」
「なんや?」
「私が他の異性ってか、その……『一般的には恋愛対象になる相手』と連絡先交換するんって、どう思ってるん? 良いと思ってる?」
 聞く前から、なんとなくだが、彼女の答えはわかるような気はしている。それでも碧は聞かずにいられなかった。
――だって私は、この人に恋してるんやから! 独占欲があるのなんて、恋人なんやから当たり前やし!
「あー、やっぱ碧ってそういうん嫌? 私はべつに、友達関係とかは気にしてないし、連絡先消せとか言われるやり取りって、けっこう苦手なんやけど……」
「消せまでは、さすがに言わんけど……」
――だってそこまで言い出したら、同性も含める私達の関係やときりがないし……
 まだ学生の碧ならともかく、社会人である智夏にそんな束縛は現実問題無理であろう。取引先とのプライベートの連絡先でのやり取りもあるだろうし、これまでの友人関係だってある。そしてその友人関係から派生するこれからの友人達の輪だって、碧が閉ざしてしまうのは違うと思えた。
「これからは連絡先、増やさんとこか?」
「ううん、私は智夏を信頼してる! やから、大丈夫」
 自身に出来る最大限の譲歩であろう条件を優しい笑みで提案する智夏に、碧は首を横に振ってそれを断った。
 愛する人を信じない関係なんて、それはきっと恋“愛”ではないと思うから。束縛はきっと、相手への愛ではないのだろうということは、碧にもなんとなくわかってしまった。だって――
――目の前の愛する人が、私のことを束縛なんてするはずないから。
「ありがとう。碧も気にせんと友人関係は広げていけよ。絶対自分のためになるから」
「うん!」
「じゃ……中途半端になってもたし、今日は“ここまで”か?」
 そう言って笑った智夏の顔は、最高に悪い笑みだ。その発言に顔に熱が集まるのを自覚しながら、碧は彼女の身体を抱き締める。
「……ほんまは、ちょっと怖かった。私、初めてやし……」
「……無理させて悪いな。私は碧とキス出来ただけでも、充分幸せやったで」
 またお互いに甘えるようにしてキスを繰り返す。
 そうやってベッドの上でじゃれ合ううちに二十分なんてすぐに経ってしまうもので、相変わらずけたたましい電子音とインターホンの音が同時に鳴り響いてから漸く、二人はお互いの服装の乱れを直してから客人を迎え入れた。




 玄関の扉を開ける智夏の後ろ姿の先から、二人の男の子が入って来た。
 碧はこれまで、男友達がいたことがないわけではない。それでもこうやって自分の部屋に入れるような関係の相手はいなかったし、そもそも密に連絡を取り合うような相手もいなかった。あくまで大人数で遊ぶ時の友人であって、グループの一員としての関係だった。
「お邪魔っす! うはー、相変わらずえっろい香水っすね! 男惑わすフェロモンムンムン!」
「おー健斗、お前は相変わらずやなぁ。がっついてる男はモテへんで」 
 先に入って来た短い金髪の男が、どうやら要注意人物の健斗だろう。智夏とはそれなりに仲が良いのか、かなり下品なことを言っている。チャラ男らしい派手な身形だが、学内で見る悪ぶっている人達とは違って、立っているだけでも迫力がある。肩幅? 目つき? とにかく佇まいに迫力があるのだ。
 開いた扉から吹き込んだ風は、春といっても時刻はもうすぐ夜を迎えるだけあり冷たい。しかし目の前の健斗は半袖だ。鍛えられた腕からは、ついつい目を逸らしてしまう。
「お邪魔しまーす。健斗のアホがすんません。それにしても姐さんの部屋、久しぶりっすね。あ、“ゴミ”あったらついでに持っていきましょか?」
 がたいの良い健斗の後ろから、同じく短髪の男が顔を出す。こちらは黒髪でしっかりセットされている髪型と合わさり、落ち着いた印象だ。しかし、それもあくまで二人を比べた場合だ。碧からすれば充分チャラそうには感じるが、智夏に対する態度はかなりしっかりしている。細身の身体をしているせいか、健斗とは違い黒の長袖のシャツを着ていた。
「昌也、久しぶりやな。“ゴミ”なぁ、またまとめとくけど、“今”はエエわ。とりあえずこれ、鍵やから、あんたが運転して持って帰って来てや」
 智夏が用意していた自身の車の鍵を投げて渡す。それを男にしては細い腕がしっかりとキャッチ。昌也はにっと笑って「了解」と答える。褐色の肌に笑顔が映える。これは世間一般的に男前と言って良い顔だろう。
「えー! なんで俺やなくて昌也なん!? 俺だって先輩の愛車の具合試したーい!」
「お前は自分のモンで満足しとき。私の愛車、汚い手で触られたないし」
「ひどー!!」
 碧からすれば酷い罵倒に聞こえたが、どうやらいつものじゃれ合いの範疇のようだ。そのまま二人は智夏と――その後ろで固まってしまっていた碧にもぺこりと頭を下げてから、さっさと外に出て行ってしまった。智夏がその後ろ姿に「西口から出ろよー。東口からやと亀なるからな」と言っている。
 二人を送り出してから、智夏が溜め息をつきながら碧に振り返った。
「はぁー、ほんま騒がしい奴等やで。ごめんな、碧」
「う、ううん。いきなりでびっくりしたけど……見た目はちょっと怖いけど、エエ人達、やんね」
 最後に下げられた頭を思い出しながら、碧は笑った。少しぎこちないのは、自分でもわかった。
――あんなヤンキーみたいな子ら、集まりでも近寄らんようにしてたし、しっかり目ぇ合わせたん初めてやもん!
 とにかくいかつい見た目の健斗は、まるで不良漫画の世界から飛び出してきたような金髪――ボサボサだったけど――だったし、昌也は昌也で変に小綺麗な見た目をしていることが、余計にアウトローな空気に拍車をかけている。
――タトゥーとか入ってても、多分驚かんかな……
 ぎこちなく笑ったままそこから何も言わない碧に、智夏は笑いを噛み殺している。
「碧の言いたいことはわかるでー。でもな――」
 そしてそのまま白い細腕が伸びてきて、碧はぐっと智夏の腕の中に捕まった。
「――今からは二人っきりやねんから、他の男のこと考えんなや」
 嫉妬と捉えてしまいそうな言葉をすらりと吐いて、彼女はそのまま碧の手を取りながら続ける。
「さ、近所のスーパーでお買い物デートしよか。碧の好きなもん買おなー」




 智夏の言う近所のスーパーとは、本当にアパートから見える範囲にあるスーパーだった。
 そこまで歩いて向かう間、繋がれた手がとても暖かくて。部屋で見た腕だけでなく、智夏は指先までも“薄い”。細い、ではなく手が薄いのだ。すぐ骨に当たりつくその手を握って、碧は彼女への愛情を更に強く感じていた。
 女二人で手を繋いで歩くことは、そんなに世間的にはおかしなことではないようだ。部屋を出る時から繋がれたその手に、碧は不安を彼女に伝えたのだが、「若い女が手ぇ繋ぐくらい、思春期の延長みたいにしか見られんから大丈夫やって。少なくとも私は、碧と付き合うまではそう思ってたんやし」と笑い飛ばされた。
 確かに彼女の言う通り、全然周囲の目は気にならない。時刻はとっくに夕飯時で、このスーパーにもたくさんの買い物客が訪れている。そんな中ですら二人は、手を繋いだまま仲良く食材を選んでいった。
 会計は何も言わずとも智夏が全額払ってしまったので、碧は申し訳なくてそれでもそれから財布を出したのだが、「年下の女に金なんて出させれへんわー」と笑われた。
 男性陣の分まで買ったので、かなりの額にはなったのだが、智夏はどうとも思ってなさそうな顔をしていた。前に本人が言っていたが、『給料良くても使う暇ないから貯まる一方や』という言葉を思い出した。使うタイミングでは豪快に使っているところを見るに節約家という感じもしないので、本当に使う暇がないのだろう。
「ありがとう。ご馳走様、です」
 家への帰り道に碧がそう伝えると、智夏はまた笑って「なら、部屋では碧の包丁さばきを見せてもらおっかなぁ」と茶化した。
 しかしその言葉に、碧は二つ返事で引き受けることが出来なかった。
「……私、料理とか、出来なくて……」
「へー? お母さんのお手伝いとかでも、せん? ほら、簡単にカレーとか、チャーハンとかでも」
「小さい頃のお手伝いくらいで、包丁って握ったことなくて……」
「……なるほどなー」
 強さの変わらない繋がれた手。隣を歩く彼女の瞳は、ずっと前を向いたまま。
 どこか、痛いところを突かれた気分だった。『料理は女の仕事』、『女のくせに料理も出来ない』なんて今時言う男なんて、碧だってどうかと思う。だが、碧の恋人は男ではない。同じ土俵の、同じ女なのだ。
 ついさっきだって『男並の稼ぎ』で食費を賄われて――碧自身、無意識のうちに『男の役割』と刷り込まれていた行為を受けて、『女の役割』だと信じてやまなかった行為を返せないことが悔しかった。
 どこかで女は男に奢られるのが普通と考えていたのに、女の彼女にその役割だけを押し付けて、自分はその優しさに包まれているだけで良いのだろうか。良いわけがない。だって――
――恋人なんだから。
 女同士だ。恋人だ。だから、年齢の差があろうが、対等になりたい。きっとかっこいい彼女は、碧がそう言えばその気持ちを尊重してくれる。だって、彼女は――優しい恋人だから。
「私、料理練習したい……」
「エエんちゃう? “今”出来ないことは嘆いたって仕方ないから、“これから”出来るようになればエエだけやし。『料理でけへん』って若い子が言うんはまだ可愛げがあるけど、オバハンが言ったら笑えへんからな。お料理教室通うような凝ったん作れんでエエねん。ただ簡単な家庭料理を作れたらそれでエエんやって」
 気が付いたら彼女の瞳は碧を向いていた。その強い瞳には、いつも吸い込まれそうな魅力が宿っている。そうだ。自分は、この瞳がかっこよくって、恋をしたのだ。
「智夏は、何の料理が好きなん? それ練習する」
「……なら、応用利く肉じゃがって言っとこかな」
「もう! 真剣に答えて」
「あんま好き嫌いってないからなぁ。碧が作るもんならなんでも食べるでー。ま、今日は私が用意することになりそうやけどなー」
「ごめん……」
「碧はこれから、な。めんどくなったら昌也にやらせよー」
「えっ? 昌也くん、料理出来るん?」
「あいつんとこは兄貴も料理それなりに出来るからなー。見栄えとかまで考えたら、私より上手いで」
 意外だった。あんなアウトロー全開な人でも料理が出来るなんて、と若干失礼なことを考えながら、碧はここに決意する。
――絶対、料理出来るようになる! 人並くらいには……
 最後には少し弱気になってしまった碧の心の内を見抜くように、智夏が笑いながら「何事も、焦らずに、やで」と言ってくれた。
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