東の香りは罪の味
己の罪を全て押し流してしまうような、まるで洗礼のような雨だった。
その天からの雫達に、リーファは打たれるがままだった。まるで罪を咎めるようにその雨は、強く強くリーファに降り注ぐ。その目の前にはこの学校に唯一の温室の扉がある。
学内にあるにしてはやけに大袈裟で、それでいてお嬢様が管理しているにしてはやけに綻びが目立つ温室。大教室二部屋分程度は軽くあるであろう広さのその温室には、強い香りを放つ草花が青々と茂っている。人の手によって整えられた土の恵みの上で、その“東の夢”は順調に成長していた。
扉も壁すらも透明なその温室には、扉を開けるまでもなくこの世の地獄が広がっている。扉に手を掛けるよりもよっぽど早くその地獄が視神経に突き刺さり、リーファは激しい雨の中、その先への一歩を踏み出すことすら出来ずにいた。
その透明なる“楽園”の中には、生まれて初めて愛おしいと思えた最愛の彼女が横たわっている。こんな時まで甘くカールした茶髪が愛らしくて、その無残に開ききった光のない碧の瞳に映る、立ち竦んだままの自分自身に腹が立った。
「ギーラ……」
酷く擦れた声が出た。こんな声量では扉を隔てた彼女に届くはずがない。彼女は微動だにしない。ガラスの壁も扉も、この声量では届かない。声を出せ。彼女が褒めてくれたこの声を、早く!
「っ……ギーラ!!」
今度はちゃんと大声が出た。彼女が好きだと言ってくれた、ハスキーな声が空間に響く。学内の敷地の隅にあるこの温室は、校舎からは少し離れている。今日は運動系の部活もこの雨のせいで皆、屋内に引きこもっているようだ。辺りには誰もいない。計算された人気の無さ。
油の切れた機械のようなぎこちない動きで、その手がようやく扉に掛かった。薄いガラス製の彼女との隔たりはいやに重く、いかに心がこの光景を拒否しているかがよくわかる。乾いたままの喉から、擦れた声ともつかない息を出し、その勢いで扉を開ける。
途端にむっとした温室特有の湿度に迎えられ、雨に濡れた白髪が違うべたつきに包まれたような気がした。
――違う。これは……悪意、か。
温室はねっとりとした悪意と、男の匂いに満ちていた。普段は鼻を刺す程の香りを放つ草花が、今日だけはその主張を控えている。まるでこの空間の真の主役が、自分達ではないことをわかっているかのように。
温室は中央に休憩所のようなスペースとして、白いガーデンテーブルと四脚のチェアが設置してあり、それを囲むように彼女お手製の『東の夢(オリエンス)』と名付けられた“茶葉”が揺れている。一般的な茶葉は遮光等の手間が必要な種類も多いが、彼女の生み出したこのオリエンスにはその工程は必要ない。
姿かたちすらも草花のそれ。しかしその身からは強く、心を惹き付ける香りを発する。魅惑の香り。これこそ東が生んだ夢の紅茶だ。
そんな自身の生んだ傑作に囲まれて、彼女はその身を横たえていた。汚されていた。
白いガーデンテーブルの前で倒れた彼女の服は無残に引き裂かれ、その下肢からは汚れた白き欲望が流れている。酷く鼻につくこの匂いは、紛れもなく男達の欲望の匂いで。
「……」
本当に悲惨な出来事に遭遇した時は、人間は声が出ないらしい。それなりに修羅場を越えてきたつもりであったギーラだったが、それでもこの場のあまりの凄惨さにその声を失ってしまっていた。
気を抜けば震え出してしまいそうな足を叱咤し、とにかく彼女の身体に寄り添うと、その力の感じられない上半身を抱き起こす。
ぐったりとしたまま開かないその瞳に息が止まりそうになるが、愛おしい彼女のその胸の鼓動を感じ取り、思わず安堵の溜め息をついた。
「本当にこのお嬢さんに惚れてるんだな?」
オリエンスの草花が不自然に揺れて、その陰から八人の男が現れる。そのまるで害虫のような湧き出方に、しかしリーファの心は波風ひとつ立たなかった。リーファの心を波立たせるのは、彼女からの愛それだけだからだ。
「お前らが、ギーラをこんなにしたのか!?」
怒りに燃えるルビー色の瞳を隠しもせずに、リーファは現れた男達を睨み付ける。八人が同じ、深緑色のブレザーにチェック柄が入ったグレーのズボン姿。男達は案の定、リーファと同じクラスの不良達だった。
「さすがの鬼女も、大好きなレズ相手が男に犯されたら涙が出るんだな?」
ゲハハと品なく笑う男達に、リーファは返答を放棄する。その代わりに、流れる涙もそのままに、その拳を一番近くにいた男に向かって振るっていた。
ぐへっと間抜けな声を上げて、その男はぐったりと地に伏した。それを合図とするかのように、残った男達も獲物――リーファに向かって襲い掛かる。
骨が折れ、重いものが地に落ちる音が温室内に響く。酷く暑いこの空気には、もう――悪意しか残っていない。
――なんでだ? なんであたしは、ギーラを護ってやれなかったんだ。あたしには暴力しかなくて、そんなあたしをギーラは好きだと、そう言ってくれてたのに……
男の一人が放った拳を、リーファは搔い潜るようにして避ける。
違法なる手段で膨れに膨れあがった男の腕は、不自然に青筋が浮かび上がっている。盛り上がった血管には、きっと違法なる『オリエンス』が流れているのだろう。ドクドクとした邪悪なる脈動が、皮膚を越えたリーファの耳にまで聞こえてきそうだ。
男は案の定、グロウの取り巻きの一人だった。彼だけでなくこの場にいる全員が取り巻きで、そしてその中にはグロウ本人もいた。彼はいやに虚ろな目でリーファを見たまま、ガーデンテーブルに腰掛けている。その姿こそは不良のリーダー格のそれだが、温室に入った時から無言を貫く彼からは、いつもの覇気は感じられなかった。
大振りの攻撃につんのめった取り巻きの一人に、リーファは顎を狙って掌底をぶち込む。普段のじゃれ合いのような喧嘩ならやり過ぎのこの行為だが、今はジャンキーを相手にしている。感覚が鋭敏になっているであろう麻薬の効いている人間には、多少やり過ぎくらいの攻撃でないと効果がない。
どさりと大きな音を立てて男が倒れ、それに入れ替わるようにして別の取り巻きが一人、リーファの前に進み出る。彼等は、リーファと決闘をしているのだ。一対一のタイマンで、己の強さを――己が得た力を確認している。
温室でギーラを見つけてから、既に五人。いや、さっきの男も含めて六人の男と戦い、そして倒した。あとは目の前でニヤニヤした口元を隠そうともしない男と、ガーデンテーブルに座るグロウだけだ。意識を失ったままのギーラの身体は、隅に移動させて横たえている。彼女は命に別状はないようだが、しかし精神的なショックにより意識を手放してしまっているようだった。
その『ショック』が何なのか、わからないリーファではない。彼女の身体は汚されていた。そこにどんなやり取りがあったかは知らない。だが、遠目から見て『襲われている』と言わせる程に、彼女が意識を失う程に、彼等は彼女の身体を、心を傷つけたのだ。
戦う理由はそれで充分だった。怒りに燃える瞳で相手を睨み付け、唸り声を言葉に変えた。彼等にはそれで充分だ。彼等は人の形をした獣でしかない。人間にとって何より重要な、理性というものを吹き飛ばしてまで得た力が、こんな女生徒一人の憎悪すら抑えることが出来ない。何故ならそこには、感情がないから。相手を想う心がないから。
「てめえも詫びろ! ギーラに詫びろ!!」
ありったけの憎しみを込めて、リーファは相手の男をぶちのめす。こちらに伸びる腕を抱えて関節を攻める。丸太のように太い腕には、直接的な打撃は効果がないと見切りをつけて、鍛えようのない関節を破壊する。彼等が痛みに鈍感になっていることは、これまでの男達で理解しているので、それだけでは満足せずに、攻撃の手は緩めない。
腹を一発蹴る。これはフェイントなので相手の意識が足に向けばそれで良い。案の定鋼のように硬くなった腹筋は、蹴ったリーファの足の方がダメージを負っている。もう倒れ込みたいくらいには疲労しているが、彼等は彼女を傷つけた張本人だ。負けるわけにはいかない。
首ごと足――下を向いた男の首に両腕を絡めて、絞める。理性を剥がされただけではない、本能からの容赦ない抵抗が来るが、飛びつくように背後に回っているリーファの被害は、肘から下だけに抑えられている。タイマンというにはあまりにも決まりの悪い手ではあるが、男女の体格差だけでなく筋肉量が異常な相手をしているのだから、これくらい反則でもなんでもないだろう。
男の両手がリーファの腕にかかる。指の一本一本すらもリーファの倍はある鍛えた男の指だ。だが、それでもリーファは負けない。負けられない理由と憎悪があるのだから。しばらくばたつくようにしてもがいていた男の身体が、重力に従って地面に倒れる。前に倒れた男の背から、リーファは問題なく離れて残る一人に目を向ける。
彼は――グロウは腰掛けていたガーデンテーブルから立ち上がり、リーファの正面に歩み出た。
「グロウっ……」
リーファは彼の名前を呼んだ。彼の名前を呼びさえすれば、普段通りの彼の言葉が返ってくるような気がしたからだ。
彼は、答えない。彼は終始無言だった。リーファが温室を訪れたその時から。普段ならば率先して話を纏めるリーダー格が、今は何も話さない。先程のリーファに対する挑発も嘲笑も、全て取り巻き連中から投げ掛けられたものだった。
彼は、答えない。
「グロウ!」
彼の反応にリーファは、涙が出そうだった。いつも過剰なまでに絡んで来るその男が、今朝、自分へ心のこもった贈り物を贈ってくれたその男が、今は何も答えない。話さない。
「なんとか言ってくれ!!」
悲痛なリーファの叫び声に、ようやくグロウの口元が動いた。
「……お前は、オリエンスを使わなかったんだな」
「あ、当たり前だろ! こんな麻薬で力なんて欲しくねーよ! グロウ! お前だってそうだろ!?」
「お前は……そういう奴だったよな……俺は、馬鹿野郎だ……」
「グロウ?」
俯いてしまった彼の姿には、普段の暑苦しいまでのエネルギーは感じられない。そんな彼の姿が見ていられなくて、リーファは縋るようにその男の名を呼んでしまう。
「……俺は、お前があの女からてっきり、オリエンスを貰ったんだと思ったんだ。俺への当てつけに、俺の目の前で……っ!」
「そんな……あたしが、受け取ったのは……っ!」
思わず反射的に反論しようとして、そこで言葉を選ぶリーファ。そんなリーファにグロウは鋭い視線を、まるでこの身に突き刺すかのように送る。
――いったい、なんて言や良いんだよ……
何を言っても、まるで言い訳にしか思えなかった。彼からのこの身を貫くような真っ直ぐな『気持ち』が、リーファの中の小さな『違和感』を増幅させてくる。
真っ直ぐにリーファを見据える。真っ直ぐな『純愛』だ。そんな彼は、きっと……リーファに『勝つ』ためにオリエンスに手を出したのだろう。リーファを納得させるためだけに、その身に違法なる力を取り込んでしまった。
どれだけ違法なる力に犯されようとも、彼の瞳は真っ直ぐなままだ。彼の瞳は、リーファを――いや、リーファの背後を見据えたままだ。
「……グロ――」
「――リーファ、避けろ!!」
突然の彼の怒鳴り声に、リーファは反応が遅れた。そんな彼女の身体目掛けて、グロウが突進してくる。思わずガードしようとするリーファの身体に、グロウは側面から抱き着くようにして密着して――
酷く赤黒い雨が降った。
透明なる天井に守られた温室に、雨風が侵入することはない。異常に鍛えられた筋肉の重みが、リーファの肩に圧し掛かってくる。力を失くしたグロウの身体が、リーファの身体を巻き込むようにして地面に倒れた。リーファはその下敷きになってしまうが、彼女の身体もまた力を失くしてしまっている。
腹が尋常ではない程に熱かった。この感触は知っている。喧嘩が常のリーファは、女だが不良である。なので己の身体に穴が開く、あの痛みを、あの熱さを知っている。確か初めて経験したのは、相手が突き出した小型のナイフに自分から拳を叩き込んだ時だが、その時の小さな傷ですら、灼熱の痛みを伴ったのだ。あの小さな傷ですら、拳を再び握れるようになるまで一か月掛かったか。
リーファは意識を強く保とうと、自分を叱咤する。恐る恐る視線だけで傷口を確認。自身の腹と、グロウの腹の辺りから、ドクドクと大量の血が流れている。
――っ! グロウ!
頭では声の限りに叫んでいて、彼の身を揺り動かしていた。しかし、腹に開けられた風穴のせいで、リーファの身体は満足に動くことも、ましてや声を出すことすら出来ない。
ガーデンテーブルの横、この温室の中心で、重なるようにして倒れている二人に、足音が一つ、近づいてきた。視線だけで相手を確認しようとして、悍ましいまでのプレッシャーに、視線一つ動かすことが出来なくなる。足音はリーファ達ではなく、ギーラの前で立ち止まった。
「おやおや、温室の前には特務部隊がうろついておりましたし、中では中で、不良達の仲たがい、ですかな?」
ふぉっふぉと笑う声は、酷くしわがれている。老人、だろうか? しかしこの学校にはそんな老齢な教員はいなかったはずだ。それは即ち――この老齢らしき男が、他国の軍人であることに他ならない。
地面に飛び散っていた『黒い雨』が、意思を持ったようにその声の主に向かってぬるりと動き出す。これは老人の魔力で操られた『凶器』であって、自分とグロウはこの凶器に貫かれたのだとリーファは確信する。
「生徒を護れなくて残念でしたね、先生さん。せめて特等席でその眼に焼き付けてくださいませ」
声の主が何かを地面に放り捨て、それと同時に蠢いていた黒い雨が再び上空に浮かび上がり、そして――グロウの取り巻き連中の身体を貫いた。相変わらずのプレッシャーに、リーファはその目を閉じることすらも出来ないで、その凶行を見届けた。ザクザクと何度も何度も、小さな雫達がまるで弾丸にでもなったかのように、膨れ上がった筋肉も飛び散る臓腑も関係なく、その身体を単なる肉の塊に変える。
悪夢のようなその光景は、時間にすればものの数秒の出来事で。その数秒の時間の間に、グロウの取り巻き達はその若い命を奪われて、その『頭』が転がって来た。胴体から切断されたのであろう人間の頭部が、ごろりとリーファの視界の中に納まって、止まった。
その頭にはリーファのクラスの担任である男の顔が貼り付いていて、既にその男が絶命していることは明らかだった。
――先生……
驚きに目を見開いたまま絶命しているその表情から、彼と声の主の力の差は歴然だった。仮に全快の状態であったとしても、絶対にリーファが敵う相手ではない。腹に力が入らないおかげで悲鳴を上げずに済んだことが奇跡だった。
声の主はどうやらリーファのことを殺したつもりでいるらしい。リーファの上に覆いかぶさったままである、グロウの大きな身体に隠れているからだろうか。彼もまた虫の息ではあるが、生きている。それでもその命が風前の灯火であることには変わりない。この出血は危険だ。もう呻くことも出来ない、朦朧とした意識の中を漂っているようだ。
リーファの視界には声の主は映っていない。そこに映るのはリティストの首と、ギーラだけで。そしてその彼女がむくりと身体を起こしたものだから、リーファはまるで自分が悪い夢でも見ているような気分になった。
――駄目だ! ギーラ!! 今起きたら駄目だ!!
声にならない悲鳴は、心の中だけでしか上げられなかった。だが、その彼女の繊細な手に、軍の制服姿の手が差し伸べられる。
「ギーラさんは随分趣味の悪い宴を開かれているようですなぁ」
声の主が、まるで肉食獣のような欲望を剥き出しにしたような声で笑った。おそらくこの声の主が、愛しい彼女の手にその手を差し伸べているのだろう。そして彼女は、その手を取った。
「ふふ、これこそオリエンスの楽しみ方じゃない。何物にも勝る快楽を与え、その副産物として肉体すらも強化する。まさに『最高の商品』だわ。これでボーデン家も安泰よ」
凛と、鈴が鳴るような清らかな声で、彼女は邪に笑った。ところどころ破れた痛々しい姿が、今ではまるで、魔界の淫魔の装束にすら見える。欲望を笑いながら謳うその口からは、淫らな雫が筋になって零れる。
「最初に取引の話を貴女のお父上から持ち掛けられた時には、学校内で栽培など随分酔狂な考えだと思いましたが、あながち間違いではなかったようですなぁ。あの特務部隊を二ヵ月も欺くとは」
「汚らわしい犬の正体が、まさか数学教師だったとはね。随分な男前だから目をつけていたのに、残念だわ。何も知らない頃に戻れるなら、一度寝ておきたいぐらいだったのに」
「特務部隊には麗しい容姿の人材が多いらしいですから。ですがお嬢様は、レズビアンではなかったのですかな? 確か数日前には彼女が出来たとか」
「貴方達みたいな変態とは一緒にしないでちょうだい。彼女とは『ビジネスの付き合い』なの。彼女には『オリエンスの風味を整える役目』を担ってもらって、その代わり私は彼女に恋愛ごっこを提供したわ。それに、女性の身体にどれだけオリエンスが効くのかも気になったから」
「男女共に学校内の同級生で人体実験とは……昨日の取引分から風味が『落ち着いた』のは、その彼女のお陰なのですね」
倒れたリーファの心なんてお構いなしに、二人の『ビジネスの話』は進んでいく。
確かにリーファは彼女に言った。少し酸味のようなものが強く、飲んでいる最中に舌の上が微かにちくりと痛むような違和感を感じるから、『もう少し深い甘みを足したら誤魔化せるだろうし、味自体もイーストゴールドに近くなって万人受けすると思う』と。
そんなリーファに彼女は、偽りの好意をちらつかせて、その自身のビジネスを安泰なものまで押し上げたのだ。
つまりリーファは、彼女にとっての共犯者で実験動物だったのだ。それはリーファだけでなく、グロウ達も。
渦中の二人に息があることなど思いもしていないであろうギーラは、邪なる思惑を告白していく。
「もうここまで『風味』が安定すれば、流通に関しての問題はクリアしたも同然よ。イーストゴールドに偽装する形で軍部内や……こっそり貴方の国にも流してあげる。感謝しなさい」
偽造元の風味に寄せるために、彼女はリーファの心を利用した。そして違法なる『オリエンス』は、これから東部の軍内だけでなく、他国への秘なる商品として広がっていく。
――許せない! ギーラも、この声の主も……あたしを、グロウを……こんな目に合わせやがって……
憎しみの心が身体を突き動かすのは、ある程度身体に自由が利く場合だけだった。憎しみの炎はどんどん湧き上がるというのに、リーファの身体は指一本動かない。
命というものが零れ落ちそうなその身体からは、もはや軍人の鼻ですら生の匂いを嗅ぎ取ることは出来ないようで、どろりとした血の海に浸かった二人の息を確認するような素振りはない。
「さて、それでは私はもう帰りましょう。貴女には『この現場の被害者』として気を失ってもらっておきましょうか。手荒になって申し訳ありませんが」
「いいわよ。気を失ったふりってのが、私にはどうにも向かないことがさっきわかったから。寒い青春ヤンキーものでも見せられているようで、むず痒くて仕方なかったの。私がいなくても、『売り物の部分』はわかるでしょうね?」
「ここの収獲用の設備を使えば五分もかかりませんからな。そこは問題ありません。茶葉の部分さえ見つからなければ、貴女の罪はお父上がもみ消してくれるでしょう。それでは、機会があれば、またいつか……」
「ええ。ごきげんよう」
まるで親愛なる別れの挨拶のようにして、軍服の袖が彼女の首に手刀を落とした。糸の切れた人形のように地面に倒れる彼女を追うように、リーファの意識も悪夢の波に囚われるようにして混濁していった。
再びこの目が開かれた時には、どうか悪い夢を見ていただけだと、愛しかった頃の彼女と笑い合えるように願いながら、リーファはそのルビー色の瞳を閉じた。