東の香りは罪の味
「だから、教室内のゴタゴタのせいで呼び出し食らっただけだって。何も内緒話をしていたわけじゃない」
「ふーん? だったらなんで教室や職員室じゃないの? そんなに誰かに聞かれたらイケないお話なの?」
温室に入った瞬間から、リーファはギーラからの執拗な追及を受け続けていた。このやり取りももう何回繰り返したことか。
このグリーンローズハイスクールの温室は、出資が百パーセントボーデン家からのものである。そのためこの温室の中の全てのものが、ボーデン家の娘であるギーラの主観のみで選ばれ、そして生育されている。
軽く大教室二つ分はあるであろう広さを一人で管理するのは物理的に不可能なためか、温室のところどころに水やりや温度管理のための機械が伸びている。
中央には休憩用のスペースが設けてあり、そこに設置されているガーデンテーブルとチェアに向かって、入り口から一本道が敷かれている。道と休憩スペース以外は、背の低い独特な草花が並んで生えており、ギーラ曰くこれがお手製の茶葉の植物らしい。
広い温室にはこの茶葉の元となる植物しか生えておらず、さながら畑のような景色になっている。畑よりはよっぽど濃い緑とツタのような茎のせいで、『温室』と言われれば確かにそうかもと思えなくもないのだが……
外からも透明な壁と扉越しに見えていた光景なので、初めて入ったからといって特に感嘆の声もなく。そんなことよりも今の二人にとって重要なのは、この心が求め合っているという信頼の示し方である。この素晴らしい温室に対する感想は、二人の問題が解決してからだ。
本当に身に覚えがない罪を問い質されるのは、いくら愛しい彼女からのものだとしても気分が良いものではない。
――きっとギーラは、不安なんだろうな。
同性同士の恋愛は、異性の相手より難しい気がする。生まれて初めての恋人ならば尚更。例えば、今みたいな嫉妬の問題。相手は女同士として付き合ってくれているけど、本当は男の方が良いんじゃないだろうかなんて、多分これからもずっと付き纏う不安だろう。
異性と付き合うことが“普通”とされるこの世界では、リーファやギーラのような存在は特殊で。特に疲れた印象こそするものの、男前な見た目をしているリティストとの関係を怪しむ気持ちはわかる。
リティストはリーファのクラスの担任だが、ギーラのクラスでも数学を受け持っている。そのためギーラも知っているからこそ、余計に心配したのだろう。心配しなくてもリーファはギーラ一筋だし、あの男前が生徒に対してそういった目で見ていないのは、これまでの授業の調子を見ていればよくわかる。
「実は、同じクラスのグロウって不良がさ、ギーラに手を出してんじゃないのかって、リティスト先生が心配してたんだよ」
少し事実を伏せながら、自身が呼び出された理由を誤魔化す。思いがけない形で自分の名前が出たからか、ギーラは目を真ん丸くさせて驚いている。可愛い。
「……それで、リーファは何て?」
「なにも? いくらあいつでもそんな馬鹿げたことなんてしないさ。だから心配しないで」
どさくさに紛れて軽く小さな肩を抱きながら、リーファは愛しい彼女の顔の覗き込む。甘いカールが揺れる彼女の表情は、少し暗い。きっと不良にその身を狙われているのではないかと、不安になっているに違いない。
「ギーラ……」
「なに? リーファ」
浮かない顔ながらもこっちを見てくれたギーラの肩を掴んで、リーファは彼女の真正面に向き直る。草花の独特な香りが、緩い風に乗せられてふわりと鼻先を撫でる。
「怖いことがあったらいつでもあたしを呼んで。ギーラのためならあたしは、どこにだって駆け付ける」
真面目な顔をしてそう告げた。すると彼女の顔にようやく笑顔が戻ってきた。淡い月明りを思わせる柔らかい笑顔だ。この笑顔を見るためならリーファは、本当になんでもやれると約束出来る。
「もう、本当にカッコいいんだから。本当の本当に、リティスト先生とは何もないのね?」
何度もしつこく繰り返す彼女の表情から、もう彼女の嫉妬が落ち着いたことがわかり、リーファも安心して抱き締めることが出来た。この温室は周りの壁や扉も全て透明なガラスで出来ているが、下校時間であるこの時間は人気がなくなる。元よりボーデン家の持ち物と言っても過言ではないこの温室に、用がある者自体が少ない。
「先生とは何もないよ」
「それなら良いもん」
酷く幼いその返答に思わず笑ってしまいながら、リーファはギーラの頭を撫でながら温室の中を見渡す。
低めの天井には白い魔石による灯りが取り付けられており、どこかから緩い風が送り込まれている。温室というだけあり外の気温より少し蒸し暑いが、きっとこの環境でなければこの草花達は育たないのだろう。見れば見る程珍しい形をした草花達が、ガーデンテーブルの横で抱き合う二人の周囲を取り囲むように生い茂っている。青々としたその色合いから、草花に詳しくないリーファにも収穫時期という感じが伝わってくる。
「凄い設備だね」
身体を離し、ガーデンチェアに並んで座った。自然と口に出た素直な感想にはそれまでの色気が全くなく、その落差のためかギーラがぷっと噴き出した。鈴が鳴るように笑ってから、管理者としての返答をする。
「設計はほとんどがパパだけどね。設備も草花の植え方もパパが考えてくれたから、私は正直、水や風のシステムがちゃんと作動しているか目視して、痛んだ葉を時々切り取るだけの簡単なもの。だから設備が凄いっていうリーファの感想は大正解」
彼女曰く、この温室の設備にはボーデン家の莫大な財源が投入されているらしい。たかが娘の学校生活における趣味のために放り込む額にしては高級過ぎる代物だが、どうやら彼女の父親自体も薬草関係の商いで財を築いた人物らしい。上流階級のそういった噂はリーファの知ったところではないが、愛しい彼女の家の商売くらいは知っておくべきかと思えてくる。
リーファはギーラの説明に相槌を打ちながら、周りの草花を見渡していく。背の低い茶葉の元となるであろう草花は、イメージとは違って形や臭いに特徴のある正しく草花である。木ではない。まるで野菜でも育てているかのように、長細く線状に盛られた土の上からにょきっとその姿を晒している。こんもりと丸くなったその茎と葉の奥底には、形を維持するための支えが見え隠れしている。その間に細い管のようなものが見えるので、そこから栄養分等を流し込んでいるのかもしれない。
青々とした葉に紛れるようにして、やけに汚い黄色の花が咲いている。しっかりと見ていないと枯葉と見間違うような花だ。まるで生気は全て『収獲する部分』に持っていかれてしまったように、カサカサとした表面には潤いすら感じられない。その渇きの上を走る葉脈が、どこか落ち着かないかのような広がりを見せている。こんなにも良い香りを放つのに、その見た目はどこか醜悪だった。どことなくその枯れた花に、魔女のような禍々しさを感じる。
「この茶葉は私の自信作なの! でも、なかなか配分が難しくて……ほら、これ……凄く良い香りでしょ?」
施設の説明を一通り終えた彼女は、次に己の生育中の自信作――つまりこの温室の草花の説明をし始めた。本来ならば遮光を行う品種が多い茶葉だが、この品種では太陽光はそのままに、しかし他とは違い『魔力の光』を与えて育てるのだと言う。
「あの天井の魔石がそうよ。私のパパの魔力が宿った『太陽』の光。どんな時にも暖かく、そして包み込むようなパパを体現したような魔力なの。これを使わないとこの品種は枯れちゃう。遺伝子レベルで品種改良をしたボーデン家の新商品は、ボーデンの家系でしか育てることが出来ないの」
「この香りを専売出来るなんて、ギーラのパパさんは商売上手だね」
――ちょっとファザコンな気もするけど……
心の中に思ったことは口には出さない。父親だけでなく家族という存在自体を嫌っているリーファからしたら考えられないが、ギーラはかなり父親と仲が良いらしい。この年頃の普通の女の子は、けっこう父親のことを蔑ろにするものらしいのだが、彼女はこの括りではないようだ。会話の中からひしひしと伝わるのが、家族への愛――というよりは、選ばれた者故の傲慢に聞こえたのは気のせいだったと思うことにした。
悦に入る彼女にリーファの顔が少し歪んでいるのはわからない。彼女は父親の魔力を放つ魔石を見上げ、いかに自分の家系が素晴らしく、その力の際たるものであるこの温室の素晴らしさをも語っている。その瞳にリーファは映らない。それが無性に――腹立たしい。
鼻先に緩やかな温風が流れる。これはこの温室の香りだ。少し苦く、それでいて甘さをひた隠す。まるで獲物に擦り寄る刺客のように、そろりそろりと嗅覚に訴えかける。
――いつまで父親の話してんだよ……
これまで感じたことのない、強い感情がリーファの頭を支配する。そう、支配だ。とろりとリーファの目が据わってしまっても、彼女の瞳は天上に向けられたまま。無防備に上を向いた白肌だ。喉のラインがやけに扇情的で、リーファの頭は彼女の吸い付きそうな肌のことしか考えられなくなる。
むわりと草花を感じた時には、彼女のがら空きの首筋に、口づけをしていた。獲物の喉を噛み千切るように、激しく大胆に。その血流すらも感じさせる筋を、命を繋ぐ気管を全て己のものにしてしまいたくて。さっきまでリーファが座っていたガーデンチェアが、乾いた音を立てて倒れる。
「……っ……り、りー……ふぁ」
きっとリーファに肉食動物と同じ牙があれば、彼女を噛み殺してしまっていただろう。彼女の苦しそうなその息も、甘く零れるその声も、閉め潰してしまいそうな気管も、全て己の支配下に置きたい。そう強く脳が命令するのだ。
「ぅ、ぅん……」
舌先に薄い血の味を感じてから、それを癒すかのように舌を這わせる。それからようやく彼女の顔が見たくなって、リーファはその頭に手をやって、ギーラの顔をこちらに向けた。
彼女の瞳は、怯えすら見えない欲望に彩られた碧だった。むっとする甘き香りに焼かれるように、彼女の瞳には淫らな色が滲んでいる。その口がやけにねっとりとした吐息を吐いて、リーファを誘うように歪められた。
「ギーラ」
もう二人の身体以外に、何もいらない。リーファはギーラを温室の床に押し倒し、何度も何度もキスを落とす。浅くも、深くも、何度でも。二脚目のガーデンチェアが倒れたが、そんなものには構ってられない。
――こんなにも心が熱い。こんな気持ち初めてだ。
リーファにとって、ギーラは初恋の相手ではない。リーファにとっての初恋は、だいたいの同級生と同じくジュニアスクールの時だ。その時に気になった相手は男の子だったので、多分自分はレズビアンというわけではなさそうだ。おそらくバイセクシャルになるのだろうか。
その初恋も相手と何か進展することもなく、なんとなく疎遠になって儚く散った。それから成長期を迎えたリーファは、周りの女の子達におかしな欲求を抱いている自分に気付いて愕然とした。とにかく更衣室が恥ずかしく、それでいて柔らかそうなその肌に触りたくなる。そしてそんな、リーファが触りたくても触れない肌を、『彼氏』という立ち位置から容易く触る男子達が大嫌いになってしまった。
元から体格は女子にしては良かったのも幸いし、リーファの喧嘩デビューは華々しい勝利で幕を開けた。勝負になるのは自分よりも体格の良い男子ぐらい。身長の低い男子相手なら、そのリーチの差だけで勝ててしまう。いつしか喧嘩で周囲から認められることに快感を感じるようになってしまい、気が付いたら不良街道まっしぐらだったというわけだ。
素行は不良中の不良でも、女の子達を守るという心情――という名の下心だ。護ってあげた相手から好意を寄せられて……みたいな甘い展開は、どうにも物語や劇上の話だけだったらしいが――で喧嘩に明け暮れていたリーファを、周りの女友達達は毛嫌いせずに慕ってくれていた。
しかし友人間の評価と、教員達からの評価は違う。進路の問題がどんどんどんどん険しい空気を孕んでいき、それでも他校との小競り合いや、学内での喧嘩を控えないリーファに、ついに担任が最後通告を発した。『このままだとグリーンローズハイスクールしか受け入れ先はないぞ』と。
学校名だけは御立派な、掃き溜めのような学校への進路が決まり、リーファは両親から完全なる無視を決め込まれた。学費こそ出すが、それ以外のどんな問題も課題も、リーファの両親はそれから干渉しなくなった。まるでこの家には娘なんていないかのように、両親の振る舞いは無視の限度を超えた『存在の抹殺』であった。
家での居場所がなくなれば、繊細なる青少年の心は、別の拠り所を作ろうとする。リーファは学内では自分の性的対象のことは秘密にしてきた。しかしどれだけ秘密にしてきたつもりでも、微かな違和感を嗅ぎつける輩は必ずいる。
リーファが少しばかりの親切心と満々な下心で助けた女子生徒が、『助けてくれた女の目つきがやらしい』と彼氏に相談し、その彼氏があろうことかクラスメートであったものだから、卒業間際のデリケートなタイミングで、危うく底辺ですら入学を取り消されるかもしれなかったのだ。
そんなこともあったので、リーファはこの学校では絶対に女子には期待しないと決めていた。幸い、入れた底辺クラスの大多数は男子学生だったので、そちらの方向でのロマンスでもあれば万事解決だったのだが、一番体格の良いグロウが絡んで来るばかりで、その兆候もなさそうだった。ちなみにリーファは自身のことは棚に上げて、不良女のことは好みではない。どちらかというと小柄で清楚で愛らしい、品のある女性が好きだ。
人間、恋愛の相手には自分にはないものを求めるとも言うし、理想を語るぐらいは問題ないだろう。現に今、ギーラのことはこれ以上ない程に愛している。本当ならばもう少し小柄でも良かったが、そんなことは問題ないくらいに、彼女はタイプでどストライクなのだ。
だってこんなにも心が燃える。身体もじっとりと汗を掻くぐらいには、緊張していて、興奮しているのが自分でもわかる。
「リー、ファっ……」
何度も際限なく落とされる口づけに、ギーラが焦れたような声をあげる。地面に二人転がるようにして絡まり合っているために、少しばかり空気が冷たい気がした。暖かい空気は上にいくと、習ったのは何年前だっけ。
もしかしたら初めてじゃないのかもしれない、とリーファの心に少しばかり冷静さが戻った。リーファは恋心こそ何人かに抱いたが、恋愛における行為自体は、男相手も女相手も初めてだ。キスだけはお遊びのような感覚で女の子相手にしたことがあるが、こんなにも本能を剥き出しにしたものではなかった。
――初めてがギーラなのは嬉しい。でも……ギーラは、どうなんだろう?
一度考え始めてしまったら、もうその不安は止まらなくなる。前にもしたことあるんだろうか? 前の人の方が上手かった? 自分が初めてなのは見破られている? 恥ずかしい。
頭の中がぐるぐる回り始めて、今更上がってきた羞恥心に負けて、ごろりとギーラの上から転がって逃げた。甘い糸が離れたお互いの口から垂れるが、お構いなしにリーファはごろりとギーラの隣に横になる。
「……ごめん、ギーラ。いきなりこんなことして、怖かった……よな?」
相手の反応を見るのが怖くて、リーファは天上を見上げたまま言った。本当は怖かったかなんて聞きたくない。良かったかどうか聞きたいのに、意気地なしな自分が憎い。パパさんの魔力が籠った魔石の光が、まるでリーファを咎めているような気がして更に気分が悪くなる。全ての罪を白日に晒すとでも言うように。
「ううん。リーファが本当に私のことを好きなんだって、わかって……私嬉しかったよ。でも確かに、ここじゃ……ね?」
クスクスと笑う彼女の声には、『これから先』への期待があって。その妖艶な声音にリーファは顔に熱が集まるのを自覚する。全く彼女の方を見ることが出来ないまま、リーファはそれでも彼女への愛を口にした。
「ギーラ、こんなところでごめん。あたし、どうかしてた。でも、ギーラのことが好きだから。そうしたかった。我慢出来なかった。ごめん」
彼女の方を見れない代わりに、その目を温室の入り口へと向けた。透明な扉も壁も、二人の行為を隠すことはしない。だがここから見る限り、外に人の姿は見えなかった。
「謝らなくて良いのよ。私もリーファのことが好きよ。だから次は……ね?」
いきなり後ろから抱き着かれて、リーファは思わず声を上げそうになった。なんとか我慢したリーファの耳元で、甘い誘惑の言葉が囁かれる。
「次は、私の家でしましょ? 新しい茶葉も飲みたいわね」
正しく悪魔のような微笑みが、見えなくとも見えた気がした。熱の集まる頬とは別に、リーファはその微笑みに振り返ることが出来ずにいた。愛しい彼女のその声に、酷く背筋が冷えるような感覚を覚えた。
青々とした草花が揺れて、しかしその緩やかな風は、寝そべったリーファの鼻までは届かない。
「……寒い。そろそろ帰ろう」
まるで暗示から醒めたかのように冷えた頭と心臓で、リーファは起き上がり彼女を促した。その言葉にギーラもうんと頷いて、倒れたままだったガーデンチェアに手を掛けるのだった。
昨日のアレは、夢のような一時だった。引き締めていないと終始ニヤけてしまいそうなだらしない表情筋に力を入れながら、リーファは一人朝の通学路を歩いている。
アレというのは言わずもがな、昨日の温室での出来事で。愛おしい彼女との初めてのキスは、彼女の自慢の温室で、彼女の自信作達に囲まれてのキスだった。少しばかり咎めるような頭上の光は気になりはしたが、それでも記念すべき出来事に代わりはない。
昨日の帰り道の自分はおかしかったと、自分でも思う。まるで百年の恋から醒めたかのように、ギーラに対して素っ気ない態度を取ってしまった。あれではまるで『手を出そうとしたら拒否られて、それから一気にトーンダウンした男子学生』そのものではないか。
いや、もちろん下心はたんまりとあった。だがそれは、彼女の妖艶なる瞳を見て燃え上がっただけであって、決してあの白肌を見た自らの軽率な勘違いでは絶対にないと言える。そう、絶対だ。彼女は絶対に誘っていた。
だが、そう考えれば考える程、リーファは自分自身の心に滾った一時の欲望に嫌悪感を抱くのだった。今の言い分ではまるで彼女が色情に狂った淫乱女みたいではないか。しかしあの瞳の情欲はなんとも――
「――だーっ! やめだやめだ! 朝から何考えてんだあたしはっ!!」
周りの目線など気にもせず、そう叫んで自分自身の心に終止符を打った。考えても仕方ないし、そもそも考えれば考える程、彼女を汚しているような罪悪感が芽生える。淫乱な女はそりゃそそるものがあるが、リーファの理想はあくまでも清純そうな女の子だ。でも、そんな子が乱れるのも――
「――くっそっ!」
どう頑張っても昨日の甘い香りに脳が引き摺られているようで、リーファは思わず足元の石ころを蹴り飛ばす。コツンコツンと転がっていく石に溜め息をついてから、昨日の帰り道のことをどう謝ろうかと考えを巡らせる。
正直にどうかしていたと謝るべきだろうか。それとも何事もなかったかのように振舞うか。
「どうしたんだよ! 朝から難しい顔してよー」
いきなり後ろから肩に手を掛けられて、思わず殺気の籠った目で睨み付けようとして、すんでのところでリーファはその相手が知り合いだということを悟った。丸太のように太い腕が肩に乗っかって、なんだか擦れたような独特の匂いが背中から漂う。
「朝から絡んでくるなよグロウ。ついにあたしと同じ時間帯に登校かよ」
「うわぁ、朝の挨拶しただけなのにその目! 早起きは三銀の得って気持ちで声掛けたのに、早速それかよオイ」
声を掛けてきたのはグロウだった。二人で競う早起き合戦も、ついに相打ちとなってしまったらしい。まるで示し合わせたかのように並んで校門へと向かう二人の姿は、いったい教員達から見たらどう映るのだろうか。素行の悪い不良カップルなんて取られていたら最悪だ。
元は甘くて良い香りだったんです、とでも謝罪が聞こえてきそうなその香りにリーファは顔を顰める。いったいどこの香水使ってんだよ? 色気より食い気な体格だろうがと文句を口に出そうとして、そのオレンジの瞳が熱心に自分に向けられていることに気付く。
「……なんだよ?」
「……」
なんだか無性に生理的に無理な沈黙が降りる。肩に掛かった腕はそのままなものだから、この距離感もそのままなわけで。普段よりも少々鼻息の荒いグロウの顔が近すぎて、リーファの眉間には皺が刻々と刻まれていく。
「……用がないなら離――」
「――リーファ!!」
急な大声に拒否の言葉を阻まれて、リーファだけでなく周りを歩いていた生徒達も一斉にこちらを振り返る。しかしその目線達は、グロウの姿が視界に入った途端に蜘蛛の子を散らすように逃げていく。結局皆前を向いて、何事もなかったように決め込むのだ。薄情な奴等め。男だって何人もいるのに、女が絡まれているんだぞ?
その元凶は元凶で、もじもじしたまま一向に続く言葉を吐こうとしない。鼻息が荒いせいか顔が赤い。
「……こ、これ……やる」
グロウはそう言って、急に思い出したように服のポケットをゴソゴソしだした。もじもじしたりゴソゴソしたり忙しい奴だ。やがてその大きな手がポケットの中から差し出される。
その大きな手には何かが握られているのはわかる。だがその大きさ故に彼の手は『何か』を完全に包み隠してしまっている。指の隙間から見えるのは――小さな箱、だろうか?
「……? なんだよ、これ?」
その小さな箱をついつい受け取りながら、リーファの頭の中ではクエスチョンマークが飛び交っている。渡されたその箱は、上品そうな青色の色合いで、見た目だけならそう――指輪とかが入っていそうな代物だ。
――まさかな。相手はグロウだ。それに渡す相手があたしだろ? きっと質の悪いドッキリだ。ドッキリ。
一瞬自分らしくもなく、グロウ相手でもときめき掛けたこの胸には罪はない。はずだ。指輪を他人から渡されるなんて、女の子皆の夢だろう。そこにシチュエーションや相手の是非が絡んでくるのは、まずは渡されることが絶対条件なのである。
リーファは男勝りなボーイッシュな女の子だが、女の子であることに変わりはない。男になりたいわけではないし、恋愛対象だって幼い頃は男の子だった。だからこんなサプライズには、心が躍るものなのだ。いくら品性の欠片もないこの金髪クソリーゼントからの贈り物だったとしても、それは乙女の性なのだ。
「……さっさと開けろよ。校門着いちまうじゃねえか」
何故かわからないが凄まれるので、リーファはそそくさとその箱を開けた。箱の中身は案の定、ルビーの指輪が入っていた。リーファの瞳の色と同じ輝きだ。一目見ただけでわかる程に、ぶかぶかのリングに安っぽいデザイン。そしてどう考えてもガラスの模造品の品のない輝き。
「こ、これって……」
周りからのドッキリ大成功の乱入があることを意識しながら、しかしリーファの口は思いの他、自身の心の動揺を零してしまっている。
「お、お前と二人きりになれるのなんて、この時間くらいしかねーからさ……」
真っ赤な顔を背けてしまったグロウからは、からかいの気配は微塵もない。これはもしかして、もしかするのだろうか。周囲の人も前を向いて歩いているだけの知らない生徒達で、いつもの取り巻き達の姿もない。
――嘘、だろ。おい。グロウが、あ、あたしを?
肩に掛かったままの彼の腕から小さな震えが伝わってくる。これは緊張からの震えなのか。じんわりと汗ばむその丸太のような腕が、今はどこか心地良い。
――なんだよ。それ……けっこう、嬉しいもんなんだな。
指のサイズがわからなかったのだろう。ぶかぶかのリングが不器用な彼らしくてなんだか可愛い。安物のガラスの模造品だとしても、学生の自分達からしたら手痛い出費だったに違いない。確か彼も家では親から見放されているので、彼は食費どころかすぐ駄目になる制服代――何故かは聞くな――も自身で賄っていたはずだ。
リングのサイズが大き過ぎて男女の骨格の違いを理解しているのか些か不安ではあるが、それでもそこも彼らしいと言えば彼らしい。このサプライズプレゼントにはグロウからの気持ちがこもっている。それはもう、紛れもなく、本気の気持ちを感じ取れる。
だからこそ、リーファはこのリングを受け取ることが出来ない。リーファにはもう心に決めている人がおり、男女だとか性別がとかそんなものの以前に、彼女への愛以外に他者が入り込む余地なんてものはないからだ。
渡されたリングを手に持ったまま、しかしその手に触れようとしないリーファを見て、おそらくグロウもこちらの気持ちを読み取っているに違いない。彼は少し寂し気に笑い、「受け取ってくれ」とやや気持ちを抑えたような声で続けた。
「グロウ……悪い。あんたの気持ちは受け取れない……」
いくら辛そうに受け取れと言われても、こんなに気持ちのこもったものを中途半端に受け取ることは出来ない。彼にも、彼女にも失礼だ。
手のひらに乗せたその箱を突き返すリーファに、グロウは今にも泣き出しそうな表情になっている。「なんでだ? 俺のことが、嫌いか?」とその口から小さく漏れて、リーファはなんて残酷なことをしているのだろうと自分で自分を殴りたくなった。
「あんたは最高の男友達だと思ってた。それに、こんなこと言うのもおかしいけど、あんたからのこの指輪、凄く嬉しかったんだ」
「なら、せめて貰ってくれ! これはお前のために選んだんだ! 今更持って帰れるかよ」
「駄目だ。あたしには……」
ここまで言い掛けてリーファは迷った。グロウのことは信頼している。だが、その信頼はあくまで男友達としての信頼だ。今この場で自分の性的対象に女性も含まれると告げて、更に彼女の存在まで伝えるのは、それは果たしてこれからの学園生活においてプラスになるだろうか。いや、ならない。絶対に好奇の目で見られるだろう。グロウからは見られなくても、きっとその取り巻き達は嘲笑するに決まっている。
「あたしは……自分よりよっぽど強い男にしか興味ない、から……」
心にもない言葉だった。そんな酷く歪に苦しむようなその言葉が、自分の口から流れることが理解出来ない。だが、その言葉は確かに、グロウの心に突き刺さった。彼の引き締まった口元が強く結ばれ、そこからいやに低い声が響く。
「……そうかよ……俺なんて、これだけ鍛えても眼中にないってか……」
その怒りに満ちるオレンジの瞳に恐怖を感じた。こんな感情も、リーファは初めてだった。これまで接してきた彼とはまるで異なる威圧感。言葉通りに日々鍛錬を欠かさない彼の膨らんだ筋肉が、丸太のような太い腕が離される。
「グロウっ……」
「うるせ――」
「――リーファ! おはよう。待ってたの」
不穏な空気を一気に掃う、鈴の音のような声が凛と響く。歩きながらやり取りをしていたために、リーファとグロウは校門の前まで到達していた。周囲に生徒が少ないのは、二人の登校時間が昨日より更に早まっているからに他ならない。
そんな『優等生』の時間帯に登校するのは、正しく優等生達で。校門の前で笑顔で二人を迎えたのは、今一番会いたくなかったギーラであった。慌てて隠すように手に持ったままであった小さな箱を、制服のブレザーの胸ポケットに突っ込んだ。不本意ながらもグロウからの贈り物を受け取る形になってしまったが、背に腹は代えられない。多分この箱をギーラに見咎められる方が、絶対に面倒なことになると確信している。
「……」
「……」
リーファも充分狼狽しているが、隣のグロウの方がそれは顕著だった。彼はギーラと面識があるのか、そのオレンジの瞳が不安気に揺れている。普段の彼の態度からは想像もつかない狼狽っぷりだ。問題児ばかりの赤組でリーダー格を務める男が、こんな可憐なお嬢さん一人に動揺を隠せないでいるのだ。
「リーファ、どうしたの?」
朝の挨拶が返ってこないことを心配してか、その愛らしい碧の瞳を揺らしながら、ギーラがリーファに問い掛けてくる。
「いや、なんでもないよ。おはよう、ギーラ」
なんとかこの場を誤魔化せないものかとどぎまぎするリーファに、ギーラは特に気にしてないように思える。まるでリーファの隣にいるグロウのことなど、目にも入らないかのようだ。
「リーファ、昨日素っ気なかったでしょ? 私、これを昨日渡したかったのに、渡しそびれちゃって……だから、はい。これは私からのプレゼント」
ギーラはそう言って、リーファの手に少し大きめの袋を渡して来た。先程手のひらの上に乗った箱より一回り大きい。肌触りの良い柔らかい布地のせいで、中身が判別出来ない。高級そうな手触りに、なんだか嫌な予感が過ぎった。
「昨日はごめん。ギーラ、これって?」
グロウの目を気にしてその場で開けられないリーファの問いに、ギーラは少しもったいぶってから「秘密。開けたらわかるわ」と小悪魔――いや、このタイミングだけは悪魔も悪魔。大悪魔だ――の返し。
手のひらの上からの圧力に、リーファは思わず生唾を呑んだ。どんな喧嘩の時にも感じたことのないような圧を、手のひらの上から、そして目の前の碧の瞳から感じ取ってしまう。これはリーファの罪悪感がさせるものなのだろうか。リーファの心の内とは裏腹に、校門の前には清々しい朝の風が吹き抜けている。
袋は指輪が入っているにしては大きい。これならば指輪が被るなんてことはないかもしれない。
「……っ」
「……クソがっ」
意を決してリーファが袋に手を掛けたその時、グロウが悪態をついて走り出した。彼の大きな背中はぐんぐん校舎の方へと駆けていく。
「っ? グロウ?」
反射的に追い掛けようとしたリーファの腕を、予想以上に強い力でギーラが掴んだ。彼女の意思のようにすら感じるその力強さに、リーファは困惑と僅かな恐怖心を覚えて、その手を振り払うことが出来ない。先程出会った時から妙に、彼女の瞳から圧を感じるのは気のせいか。
「リーファ。あんな小物はどうでも良いから、私からの贈り物を開けてちょうだい」
実に権力者の子どもらしい物言いで、ギーラはリーファにそう告げた。有無を言わさぬ口調だ。リーファもとりあえずはグロウのことは後回しにすることに決めて、彼女の願いを叶えることを優先する。手のひらの上からの圧の原因は、そう決意してしまえば案外簡単に開くことが出来た。
袋の中は――リーファの予想に反して、指輪であった。グロウからのプレゼントと丸被りである。しかしその指輪は彼から贈られたものとは違い、本物の宝石をあしらった高価なものだった。素人目にもよくわかる、本物の輝きだ。シルバーのリングの上に小ぶりながらも上品な碧の宝石――サファイアが煌めている。リーファの瞳の色とは真逆の色合いは、ギーラの瞳の色に他ならない。
「これって……」
「リーファのために用意したプレゼントなの。気に入ってくれた?」
言い淀むリーファの困惑などどこ吹く風で、ギーラは満面の笑みでそう言った。
それは例え愛しい恋人に贈るとしても、学生が贈るにしては高価過ぎる代物で。上流階級の家庭で育ったギーラがアルバイトなんてものをしているはずがない。彼女からのこのプレゼントは、彼女の両親のお金で用意したものだろう。そこには選ぶという手間こそあれど、愛する者への努力といったなんとも言えないものが乏しいように思えてしまった。
普段のリーファなら、愛しい恋人からの贈り物へ、こんな感情を抱くことはなかっただろう。しかし、今はあらゆる意味でタイミングが悪かった。ギーラにとっても、リーファにとっても。
不良友達の男友達から、本当に心のこもった贈り物を貰ったのだ。それは本当に安物で、子供のままごとのような模造品だ。それでも彼は、リーファのために汗水垂らして働いたに違いない。
そして何より、サファイアの色合いは、ギーラの瞳の色合いだった。リーファはその碧の中に、どことなく不穏な色を感じ取っていた。歪んだ自己愛のような倒錯した心の闇の部分が、その深い碧に落とし込まれているように感じていた。
そこには本当に、『リーファのため』という感情が込められていたのか。それとも――
「……」
「……リーファ?」
「あ、ありがとう。ギーラ」
不安気に揺れた碧の瞳に引き摺られるようにお礼を言って、リーファはその指輪も胸のポケットに入れようとする。さすがに学校内でアクセサリーをつけているわけにはいかないので、そのことに関してはギーラも何も言わなかった。彼女の手をちらりと見ても、お揃いのものをつけているような気配はない。
とりあえずは袋にそのまま戻そうとして、その中に折りたたまれた紙が入っていることに気付く。
「うん? これって?」
目の前のギーラに問い掛けても、彼女はにこっと微笑むのみ。仕方なく袋の中からその折りたたまれた紙を取り出すと、どうやらそれは手紙のようだった。端まで文字が書かれているのが、ペンの色合いがほのかに裏側にも透けていてわかった。几帳面らしい側面が見れる。
「手紙?」
「そうなの。付き合った記念に、ね。でも恥ずかしいから、その手紙は今夜帰ってから読んでね。絶対よ」
「わかった……ありがとう」
どこか釈然としない心で、心にもないお礼を口に出し、リーファは校門をようやく越えた。一昨日からの彼女との約束の通り、校門を越えてからは彼女とは完全に別行動だ。会話も別れの挨拶もせずに、リーファは真っ直ぐ教室に向かった。
早い時間帯なので、赤組の教室にはまだ誰もいなかった。先に行っていたはずのグロウの姿もない。少しばかり気がかりではあるが、今のリーファも彼にどう声を掛けて良いかわからないので、助かったとプラスに考えることにした。
リーファ一人の時間が過ぎて、続々と教室にクラスメート達が登校してくる。しかし、その中にグロウの姿は見えなかった。そればかりではなく、彼といつもつるんでいる取り巻き連中の姿も見えない。
結局そのまま午前中の授業がスタートし、リーファは普段は寝てばかりいるそのつまらない内容を、動揺した頭で聞く羽目になった。おちおち寝ている場合ではないと、リーファの中の本能が告げていた。
グロウ達は昼休みにも、午後の授業が終わってからも姿を見せなかった。校舎に走っていったところを見るに、おそらく校舎内にはいるのだろうが、どういうわけか姿を見ることがなかった。
普段から出席自体が疎らな取り巻き連中はともかく、この数か月は目立った欠席のなかったグロウのことを心配してか、リティストがホームルームの後にリーファに声を掛けてきた。
「リーファくん。今日はグロウくんはどうしたのかな? 知らないかい?」
相変わらず漆黒のジャケット姿のリティストは、教壇に立つ姿だけは素敵だとクラスメートの女子共が言っていた。確かに線は細い、というか細すぎるが、その端正な顔には女生徒がくらりといってしまうこともなくはなさそうな魅力がある。しかしいくら優男な皮を被っていたとしても、その本質を見抜いてしまっているリーファからすれば、要注意人物の一人でしかない。
高い位置にある腰に手をあて、溜め息をつく姿も様になっている彼からすれば、『グロウのことはリーファがだいたい知っているだろう』という安直な考えが透けて見える。不良は不良に、蛇の道は蛇と同じ原理だ。それなら男子生徒に聞けと、リーファも思わず溜め息を返してしまう。
「知らねえよ。だいたいアイツとはこの教室内での付き合いしかしてねえから」
「それもそうだったね。すまない。つい君になら、グロウくんも何か話しているかと思って」
ふふっと笑う彼の瞳に、少しばかりきな臭い色が混ざった気がした。リーファの表情が変わったのを見て取り、リティストが静かに「“学内の美化”について話したいことがある。中庭まで一緒に来てくれないか?」と教員の声で言った。
その瞳にも言葉にも、何か別の意図をひた隠しているのが伝わる、厳かな声だった。他にクラスメートがまだ残っているこの教室にて、その言葉はカモフラージュとしては充分に機能している。話を漏れ聞いたクラスメートの数人が、「ドンマイ」「しっかりやれよー」と見当違いな野次を飛ばしている。
「わかったよ……」
自分にしてはえらく素直過ぎただろうか。言ってからそう後悔しながら、リーファは大人しく先に歩き出したリティストの背中を追って教室を出た。背の高い彼の後ろ姿からは、何故か足音がしなかった。