東の香りは罪の味
グリーンローズハイスクールはここ、『ハマナスの街』ではあまり評判の良くない校風で有名である。
生まれも育ちもハマナスの街であるリーファですらも、この高校の良いところを挙げろと言われると思わず口ごもる程には悪評しか聞いたことがない。
街の中心地から少し離れた郊外に聳え立つグリーンローズハイスクールは、街の富裕層の肥溜めと揶揄される『坊ちゃん、お嬢様校』である。
OB、OG達による豊富な資金援助のお陰で、この高校はそんな悪評等撥ね退けるように“厳格な学校”のような風体で建っているのだ。
郊外故の広大な敷地に、大陸東部特有の石造りの四階建て校舎がコの字に建っており、教室以外にも体育館や各部活用のコート等の施設がところどころに設置されている。
高校としては珍しく草花を育成するための『温室』や、高校の建造中に偶然露出した地層の断面をそのまま残した『地層壁』なんてものまである。
専門的なコースからスポーツ特待、進学コースまで幅広い層の生徒にマッチした多数のコース分け。そして制服以外は自由な校風は、生徒達の『自主性』によって大いに学外に表現されている。
――ダメだ。頭が痛くなってきた。
そんな悪評高き高校に、リーファは歩いて向かっていた。
この春に新入生としてグリーンローズハイスクールになんとか入学したリーファは、そのあまりの荒れ方に思わずため息をついてしまった。
これまでの学歴の中で『不良』というレッテルを貼られたリーファには、こんな悪評高き底辺校ですら、なんとか入れるレベルの代物だった。
女子ながら男子並みに力の強いリーファは、身長こそ平均的な男には負けるものの、その度胸と喧嘩っ早さは誰にも負けないものがある。小柄ではない身長は、入学した時点で男子の平均より少しばかり劣る程度だ。それでも目線が低いことには変わりがないので、腹が立つことは立つのだが。
まだ二ヵ月しか使用していない真新しい制服の硬さを感じながら、リーファは周りの表情を見回す。
只今の時刻は朝一番の授業開始三十分前。この時間帯はこの悪評高き高校からすれば、充分優等生達の通学時間帯だ。こんな底辺校であっても、一握りの優等生、そして真面目だけが取り柄という不器用な人間達はいる。
むしろ上層部への癒着が指摘されるこの高校の推薦枠のために、敢えて『下の上』を狙って入学してくるような計算高い天才達もいるらしい。彼等は他の中以上のレベルでは、己が求める貴重な推薦枠を手に入れることが出来ないことを知っている。それは充分賢い選択のようにリーファには思えた。
真面目な生徒達の時間なので、この時間帯の生徒達の制服はしっかりと規定の範囲内である。深緑のブレザーに、チェック柄の入ったグレーのボトム。男子は長ズボンに、女子は膝丈のスカートである。ちなみにリーファは“諸事情”により膝上までスカートを短くしているので、制服の規定でもやはり『不良』というカテゴリーに入ってしまう。
鞄は高校指定のものはないので、リーファのセンスが光る黒のエナメルのスポーツバッグを、今日も肩からだらしなく掛けている。ちなみに中身はほとんど空っぽだ。授業のための教科書は常に机にお留守番。娘にあまり感心のない両親は、リーファの自室に教科書がなくても気にもしていないし、おそらく気付いてすらいないだろう。
家から持って来た水筒と、予期せぬ怪我のための簡単な救急セットが入っていれば問題ない。昼飯はいつも学食で済ませる。友達はそこそこいるにはいるが、あまり治安の良い教室ではないので、友達というよりは火の粉を払う時に加勢する仲間といった意味合いが強い。
もう歩き慣れた通学路も、そろそろ“ゴール地点”――いやこれから一日の授業が始まるのでようやく“スタート地点”と言った方が良いかもしれない――である校門が見えてきた。朝のこの時間は真面目な生徒が多いこともあり、熱血な指導教官は立っていない。だが、熱血ではない指導官は立っているので、一人の男性教員がリーファを見て声を掛ける。
「こらー、そこのお前。スカートは膝下だぞー。教室着いたらトイレで直しておけー」
熱血ではない教員の注意等こんなものだ。彼等は一応声は掛けるが、決してリーファと目を合わせようとはしないのだ。短い白の髪の毛に、強さを宿したルビー色の瞳。女子にしては少し高めのその身長は、スタイルの良さに繋がるだけでなく、格闘技に対する適正ももたらす。
これまでの学歴の中で培われた『不良』としての生き方が、リーファの纏う空気を真面目なものにはさせないのだ。決してこの時間帯に登校してきても、彼女の歩みは『問題児』のそれだった。男相手にも臆せず喧嘩に明け暮れるリーファの『武勇伝』は、教員達の間でも有名らしい。
「うぃーす。了解でーす」
気のない返答をしたリーファのことを気に掛ける教員はいない。そのまま問題なく校門を越えたリーファは、あくびをしながら教室へと向かった。
教室の扉を開けても、この教室ではリーファが一番乗りの生徒である。誰もいないとわかっている教室に、わざわざ挨拶をするリーファではない。
リーファの通うこの教室は、通称『赤組』と呼ばれる最底辺のクラスである。この高校では自身のクラスの色のネクタイやリボンを着用するので、リーファの胸元を飾るリボンはもちろん赤色である。好きな色ではあるので、リーファの気に入らない点は『女子はリボン』という点だけである。スカートは短い丈なら好きなので全然我慢出来る。
このクラスは何も取柄のない、言うならば親の金だけで入学を決めた問題児の集まりだ。しかし教員からすれば問題児ではあるが、このクラスの人間関係はそれなりに良好にまわっている。他のクラスではあるらしいイジメも、男も女も腕っぷしや気の強い人間ばかりのために、このクラスでは見受けられない。
人数自体は少ないのに、戦力的には校内随一のこのクラスは、どの学年にも一クラスだけの『特別学級』扱いだ。
やや後ろ寄りで並んだ教室の机には、そのどれもに綺麗なままの教科書が詰め込まれている。そのうちのひとつに鞄を置いて、リーファはもう一度あくびをかました。ちなみにこのクラスでは、『自分の席』というものは存在しない。皆が皆、教科書を置き勉しているために、どこの席に座っても“用意された”教科書は変わらないためだ。
「おはよー。リーファは毎日早いな。俺、これでもけっこう早起きしたのに」
教室の開きっぱなしの入り口から、制服を着崩した男子学生が入ってくる。この教室には不良の女よりもよっぽど不良の男の方が多いので、確率的にはおかしな話ではない。だがこの同級生は、どうにも最近リーファと一番乗りを競っているような節がある。
「おはよー、グロウ。あたしも今来たとこだから、明日には抜かれてるかも?」
リーファがそう言ってクスクス笑うと、話しかけてきた男子学生――グロウは何故かそっぽを向いてしまった。平均よりも高い長身に、喧嘩で鍛えた硬い筋肉を纏っている彼は、不良ばかりが集まる赤組のリーダー格だ。成長期に入ってぐんぐん筋肉の膨らんでいる最中の彼の身体に、目を逸らしたいのは正直リーファの方である。打倒男性ホルモン。腹立たしい。
筋肉と同じく硬い毛先の金髪は、相手を威嚇するようにリーゼント風にセットされている。いくら制服以外が自由な校風が取り柄のこの高校でも、こんな目立つ頭をしている人間は赤組ばかりに集中しているはずだ。比較的整ってはいるがいかつい顔のせいで、教員ですらも彼のことは避けている節がある。現にその鋭いオレンジの瞳に睨まれて、押し黙った教員も一人や二人ではない。
「そう言って、明日はまたもっと早く来るんだろ?」
「あたしに勝とうなんざ一万年早いんだよ」
本来不良であるリーファがこんなにも早く来る理由は、このグロウという同級生との“勝負”に負けたくないからだった。どんな勝負にも負けたくないのがリーファだ。それが男相手ならば尚更。その勝負が始まったのは些細なことからだった。
クラス全員を巻き込んでの腕相撲大会を授業中に行っていた時である。ちなみに授業中なので教員もいた。だがその教員は校門で立っていた例の熱意のない側だったので、誰も聞いていない授業を壊れたレコードのように途切れ途切れに――勝敗によって歓声や怒声が響く度に怯えてつっかえる為だ――語っていた。
その腕相撲勝負を見事制したグロウに、リーファは言い訳とわかっていてもつい口走ってしまったのだ。『寝不足のせいで瞬発力が鈍っていた』と。普段はそんな負け犬の遠吠えを相手にする程器の小さい男ではないグロウが、何故かこの時ばかりは噛み付いてきた。『朝も早く起きれねえ女に、俺が負ける訳がねえ』と。
その言葉にカチンときたリーファは、その次の日からこのクラスからしたらかなり早い時間帯に通学することを続けている。それを次の日の昼に知ったグロウが競うようになったのは、その次の日のことだった。それからもう二週間は経つが、このおかしな朝の習慣は二人の間で続いたままだ。
「腕相撲では負けたくせに」
はっと鼻で笑われたので、リーファはその鼻に向かって鋭い蹴りを放った。突然のリーファの奇襲。長い足がスカートを翻しながら宙を舞う。机を軽く三脚は飛び越えるリーファの跳躍。その滞空時間の長さを見て、グロウが小さく「おぉ……」と感心したような声を上げた。
しかしその突然の攻撃を、グロウは当然のように腕でガードする。彼の実力ならば軽く避けることも出来た。リーファとて真剣にはこの蹴りを放ってはいない。だが彼は、“腹立たしいことに”リーファの着地を案じてわざとこの蹴りを受けている。そうと技を放ったリーファにすらわかる程に、丁寧に威力を殺された。
勢いをすっかり殺された右足を引っ込めながら、宙で反転し両手を教室の地面につけて、距離を取るようにバク転の要領で着地を決めたリーファに、グロウはひゅうっと口笛を吹いただけだ。しれっと見るんじゃねえよ変態。顔がだらしねえんだよ。
「二度とそれは言うんじゃねえよ」
「ま、これで五十勝五十敗の引き分けだな。そろそろ決着つけねえとなー」
ゲラゲラと笑うグロウの後ろから、ぞろぞろと同級生達が教室に入ってくる。教室の前の壁に設置されている時計の針は、授業開始一分前を指している。今入って来た人数でそろそろ半数程度になるか。後の半数は昼までに揃えば上出来だろう。
軽い気だるげな挨拶を交わしながら、リーファは一限目の授業に臨むために着席してからぐいっと背を伸ばし、そして机に倒れ込んだ。
今日も長い長い学校の時間がようやく終了した。授業中だろうが休み時間だろうが構わず絡んでくるグロウと愉快な仲間達をのらりくらりと躱しながら、昼飯を学食でがっつり食べて、昼からの授業は昼寝をする。そうした努力の結果ようやく、一日の授業時間の全てが終了してくれるのだ。
高校からの帰り道、リーファは常に一人で下校することにしている。入学当初はリーファの腕っぷしを聞き付けて絡んでくる男子学生がけっこういたが、中庭でやや本気気味にグロウと愉快な仲間達と取っ組み合いの喧嘩を披露してから、そんな中途半端な悪達からのご挨拶はめっきり減っていた。
他クラスからの自分達の評判なんてリーファだってわかっているので、行動を共にするのは常に赤組の連中だけだ。人間は同じレベルの者達と集まるものだというが、それは頭の問題だけでなく周囲からの目というものも関係あるのかもしれない。
共に行動する友達がいないわけではない。クラスには数少ない女友達だっているし、あまり認めたくはないがグロウとは性別を超えた友情が芽生えていると思う。だが、敢えてリーファはこの下校時間は一人で帰るのだ。
リーファはいつも、寄り道してから家に帰る。その寄り道先は、絶対に友人達には知られたくない。
いつものように大通りを少し歩いてから裏道に入る。大通りには何人か同じ制服の生徒達がちらほらいたが、この少しばかり寒々しい裏道には制服はリーファの姿しかない。そもそも人通り自体少ないので、動くものすらリーファのみだ。
そんな細く寂しい裏道を歩いて程なく、リーファは目的の店の前についた。可愛らしい外観のその店は、まるで女の子の夢を詰め込んだようなふわふわと柔らかいパステルカラーを基調とした、この地方では珍しい木造の二階建ての建物だ。柔らかい雰囲気が漂うのは、木本来の暖かみのお陰かもしれない。
ちらりと周囲を気にしてから、リーファはそそくさと店の扉に手を掛ける。周囲にはいつものように人影はなく、今日も誰にもバレずにこの店に辿り着くことが出来たと胸を撫で下ろす。
その店は『紅茶の専門店』であった。スカートこそ履いてはいるが、もともとリーファはあまり女の子らしいものが好きではない。自他共に認める『ボーイッシュな女の子』であるリーファは、自身のイメージを守るためにも、こんなメルヘンな店に入っているところを見られるわけにはいかないのだ。
「いらっしゃいませー」
この世の『可愛らしい』を全て詰め込んだようなフリフリのメイド服を着た女が、やや素っ気なくそう声を上げた。ほとんど毎日通っているリーファは、この店では完全に顔を覚えられている常連だ。一か月前の学校帰りにたまたま見つけたこの店の紅茶を気に入ったリーファは、それから平日のほとんどの寄り道先にこの店を選んでいる。
女は見た目は若く見えるがこの店の店長なので、それなりの年らしい。高校一年生、ピチピチの十五歳であるリーファには詳しい年齢を教えてくれない性悪だ。心の中で『白と桃の魔女』と名付けたことは、絶対に口にすることはないだろう。
心の中ではそう思っていても、店の売り上げを支えるリーファのことをこの女は気に入っているはずなので、こんな素っ気ない態度はおかしい。よく見れば店長は、レジカウンターを挟んで他の客と話し込んでいる途中だったようだ。客との話を中断されたために、隠しきれない苛立ちが漏れ出たようだ。商売人に向かない性格の魔女だ。
「姐さん、あたしに向かってそんな素っ気ない挨拶なんてめ……」
そこまで言ったところで、リーファは思わず言葉を無くしてしまった。レジカウンターと入り口の間には、紅茶のパックが並ぶ背の高い商品棚が並んでいるために見通しはあまり良くない。人がいるという程度はわかるが、相手の、特にレジの前の人の姿は隙間からちらりと見える程度だ。そのためリーファが店内を進んで、ようやくその客の姿がしっかりと確認出来た。
その客は、高校の制服を着ていた。深緑色のブレザーに、チェック柄の入ったグレーのスカート。間違いない。同じ高校の制服だ。その客がこちらを振り向く。胸元を飾るリボンの色は――青。
青色が示すクラスの特色は『優秀』。ただの真面目ちゃんというだけではない。学年一の秀才クラスの色である。確か今年の一年生では一番少なく、十人程度の人数だったはずだ。
「あ……こんにちわ……」
遠慮がちに、彼女がそう挨拶した。少しだけ緊張が含まれた、控えめな声。鈴の音のようなその声に、意識が吸い寄せられるようだ。
――綺麗な声。それに、可愛い……
同い年、なのだろう。だが、彼女はとても繊細で、触れたら壊れてしまいそうな、そんな気配を感じさせた。繊細なものほど美しい。その身に纏う香水のような香りも、また……
甘くカールしたセミロングの茶髪が遠慮がちに下げられる。それが自分に対してのお辞儀だとわかって、リーファも慌てて頭を下げた。
元の位置に戻った顔には、髪の毛と同じくふんわりとした笑みが浮かべられている。慈愛の色を宿した碧の瞳が、リーファを包み込むように映している。身長はリーファよりは低い。だが、小柄というわけでもなさそうだ。体格は……うん、充分に女の武器は持っている。
白い肌を少しだけ赤らめながら、彼女はリーファを上目遣いに見ている。同級生にはいないタイプの女の子のため、リーファは先程からドギマギしっぱなしだ。
「ギーラちゃん、この子よこの子。この店にある紅茶は一口飲んだだけで当てちゃう天才。貴女達二人共この店の常連なんだから、仲良くしなさいよー」
「……?」
「へえ、そうなんですか。私はギーラ。グリーンローズハイスクール一年生のギーラ・ボーデンです」
「あ、あたしはリーファ。同じ一年のリーファ・クライ。よ、よろしく……」
半ば本能的に伸ばした手に、ギーラの細く白い手が添えられる。その途端にどくんと心臓が跳ねたのを、リーファは顔に集まる熱と共に感じていた。
――この子、めちゃくちゃ可愛い。女の子なのに、凄いタイプだ。
自分自身に女らしいところがないせいか、リーファは同性に対して可愛いと感じることがこれまでも多かった。特にフェミニンな印象を持つ同性にとても弱い。可愛いという感情ばかりが先走るので、これが単なる下心ではなく本当の意味での恋心に結び付く感情なのか、今までは判断出来なかった。
だが、今は違う。これは『恋だ』と、リーファの心が吠えている。添えられた手を逆に強く握り返してしまったが、ギーラは穏やかに微笑んでくれた。
「なーにやってんのよ。ギーラちゃん、まだ時間大丈夫?」
「ええ。後は家に帰るだけですから少しくらいなら大丈夫です」
「リーファは、今来たところだから大丈夫ね。だったら、これからお茶会でもして帰ったら?」
店長のナイスな提案に、リーファは小躍りしそうになったが我慢。さすがに初対面でそれはマズい。ドキドキと煩い心臓を完全にスルーしながら、手に浮かぶ汗にどうかギーラが気付かないことを願う。
「それは良い提案ですね。リーファさん、実はお茶会の時にお願いしたいことがあるんですが――」
「――いいよ! あたしが力になれることがあるなら、なんでも言って!」
やや食い気味に答えてしまった馬鹿な自分のことを、それでも彼女は笑って何度も頷いてくれた。花が咲いたようなその笑顔を、ずっと眺めていたいとリーファは思っていた。