食罪人
荒れ果てた一本の道を、一人の男が歩いている。少々の赤の差し色のある黒を基調とした恰好をしており、金になりそうなものはその腰に差した一本の厚口刃だけであった。服とは違い黒一色の短髪が、風に吹かれている。
男はまだ若く――見えた。年齢も、下手をしたら性別すらも感じさせないその顔の上で、感情の浮かばない深紅の瞳がじっとりと世界を睨むかのように細められている。春の気配を孕む暖かくも強い風が、彼のことだけは敬うようにその力を弱めた。
男だとわかるのは、その体つきが成人男性のものであるからに他ならない。この大国には小柄な者が多く、男も例に漏れずの体格だ。この大国の出身者にしては平均的なのだが。
男は遥か彼方で光を発する、都に向かって歩いていた。古の時代から続くこの大国には、“あれから”たくさんの争いが起こり、政治が変わり、人が変わり、そして時代が変わった。
今では歴史と呼ばれる時間を過ごした男にとって、これから向かう都は遥か彼方――距離ではなく、時間としての、遠い遠い未来の話だった。『近代化』という言葉を手前の街で聞いた時、時代はこうも変わったのかと、思わずその口元に笑みを浮かべた程だった。
気遣いな風達が、“遠い”山々から霞を届けてくれる。幻想の、極上の味を吸い込み、飲み干す。身体に『龍』の力が染み渡るのを意識して、その心の弾みを抑え込んだ。
人は未来を求め、龍はきっと――過去を求めるのだ。
その身に『魂』として混ざり込んだ愛しい深紅を細めて、その脈動の源である愛しき刃にそっと触れる。刃は甘えるようにどくりと震え、男にその道≪未来≫へ向かうように促した。
『俺の望みは……一つだけだ』
龍は人間の大半の願いを叶えることが出来る。しかし龍も生物だ。天なる存在ではない龍に、人の命は扱えない。男の切望は『永き時』であった。怪異のような不老不死でなくても良い。ただ、彼女“達”が生きられなかったこの世を、長く生き、この瞳を通じて見せてやりたかった。土産話が欲しかった。この世は本当に、良いところであったと。“お前”に出会えて良かった、と。
そして、その身を懸けてこの世に『夢』を提供するのだ。かつては友人の夢であったもの。いつしか男にとっても夢になり、最愛の存在もまた応援し共に歩んでくれたものだ。
『……馳走の、礼に……最後の願いを、聞き……入れ、よう……』
龍の口元は、確かに、穏やかに歪んだ。それを笑顔と受け取った男は、自身の夢を叶えるために、龍に自身の切望を伝えたのだ。
龍は、その身を男に混ぜ込むことにより、男を人ならざるモノに変えた。人の命から外れた、永い永い時を得たのだ。衰えを知らぬ男の身体は、見た目はあの時から変わっていない。生活自体も変わらずに、自身の物を欲しがるようなこともしなかった。
男の身体は龍であった。霞を食み、天地を揺るがす力を持つ。しかし、そんな力は必要ない。男が手に入れて喜んだものは、永い時を生きる命と、その手先から迸る龍の吐息≪炎≫であった。
灼熱の炉より更に強い、自慢の焔であった。その手先から迸る様はさすがに人様には見せられないが、厨房を借りて店を渡り歩くうちに、いつしか男は『龍炎の料理人』と呼ばれるようになっていた。そのせいか『この大国の料理は、炎こそが命』などと言う料理人達も現れた程だ。たくさんの油と強火で“勝負”するこの大国の料理人にとって、その炎≪力≫は絶大であり、一種の信仰の対象になってしまってはいないかとすら不安を覚える程だった。
もう――極上の食材は必要ない、か? 己の手だけで報いることが出来るのか?
龍の姿を収めたこの目が愛おしい。今はもう深紅に染まった、人ならざるモノの証。
龍の香りを嗅いだこの鼻が愛おしい。山々に潜む獣にすらも劣らない、全ての匂いを嗅ぎ分ける。
龍の声を拾ったこの耳が愛おしい。どんな些細な要望も、その言葉の裏側に潜む心まで聴き取れる。
龍と言葉を交わしたこの口が愛おしい。どんな愛の言葉すらも、紡ぐことは、もう――しないことだろう。
『次は愛しい者と一緒に、お前が逃げろ』
男はその『次』を逃してしまった。一度目は難なく逃げ切れたが、結局は愛しい者を守ることが出来なかった。
もう――贖罪は必要ない、か? 己の手だけで報いることが出来るのか?
それはまだ男にはわからなかった。だからこそ、男は歩くのだ。この先≪未来≫に『夢』が叶う己の姿を求めて。
「料理は、俺が作るよ」
いつか答えた、後悔ばかりのその言葉を、男は一人、風に告げる。
男の周りを戯れのように吹いた風が、その時ばかりはふわりと極上の香りを運んだように、男は感じていた。
END