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季節物短編





 ボクにはふたつの国の血が流れている。ひとつは生まれ育ったこの国の血。これは父さんの血だ。そしてもうひとつは母さんの血。遠い異国の、違う種類の血。だからボクはイジンなんだって。








 がやがやと喧騒の響く廊下をボクは歩く。集団登校の輪にすら馴染めないボクに、教室に馴染めなんて無茶苦茶言われても困る。明るい日差しを浴びた廊下はことさらに明るく、これから午前の授業の始まりを告げるベルが鳴り響く。授業開始はもうすぐだ。どの教室内にも目を輝かせた同級生の顔が並び、そのきめ細かい肌に思わず唇を噛んだ。

 教室の後ろの扉を開けて、出来る限り息を殺して自分の席に向かう。まだかろうじて休憩時間だ。それなりにうるさかった教室内の話し声がピタリと止まる。

「イジンさんが来たぜ」

 クラスの中心的なボス気取りが嘲笑を込めてそう言った。昔は違う国の人のことをそう言ったりしたらしい。よく知らないけど、多分こいつもよくは知らないはず。

「おいガイジン! おはよーございますって言葉まだわかんねーのか?」

「お前の母ちゃん言葉全然わかんねーんだろ? この前スーパーで訳わかんねー言葉で騒いでたってうちの母ちゃんが言ってたぞ」

「もうやめときなってぇ。親がそれならこいつもわかんないっしょ」

 言葉はちゃんと理解してる。この学校に入るまでに死ぬ気で勉強したんだから。ボクには半分、違う血が入っているかもしれない。でも、ボクの生まれ育った故郷はこの国しかない。違う国なんて知りもしない。だから母国の勉強をしているのに、なんで――

 始業のベルが鳴り、先生が教室に入ってきた。ここでお利口なこの教室の面々は、仲良しのお面を被る。授業の間の短い休み時間は気が楽だ。とくに何かされるには、時間が足りないから。問題は昼休み。

 今日は午後から図工の授業がある。給食を片付け終わり、先生がいなくなった瞬間にボクはまわりを取り囲まれた。

「みんな、絵の具ちゃんと持ってきたか?」

 ボス気取りが取り巻き達に声を掛けると、みんなが示し合わせたように一色の絵の具を取り出した。

――肌色、か。

 肌の色が違う。眼の色が違う。髪質も、きっと体臭だって。半分しか流れていないはずのその血からは、たくさんの異が表れていた。すらりとキレイなモデルさんには皆キャーキャー言っているのに、なんでボクは。ボクにはこんな血なんだ。そんなことを考えながら、身体にべたべたと塗られていく“肌色”を眺めていた。








 学校が終わればボクはまっすぐ家に帰る。昼間の“水浴び”がいけなかったのか、少し熱っぽい気がする。小さなくしゃみを何回かしながら、ようやく我が家に到着する。貧相な、という言葉しか浮かばない我が家。ネームプレートには名字のみ記載されているが、母さんはこの文字が自分達を示していることを知らない。

 恋愛結婚――ではなかったらしい。なんだか“難しい”結婚だったようで、子供のボクには詳しいことを父さんは教えてくれなかった。とにかくボクにもわかったことは――ふたりの間に愛はないということだ。

「ただいま。母さん」

 ボクがそうリビングに声をかけると、母さんが「おかえり」と言って――くれたような気がした。母さんは床にそのまま座り込んでいた。ボクは母さんの視界の前に敢えて写るように移動して、それから腕を優しく掴んでベッドまで案内する。

 母さんはボクの話す言葉がわからない。ボクが小さいうちはまだ、周囲とコミュニケーションを取ろうと頑張っていたらしい。覚えたての拙い言葉でそれでも気持ちを伝え、分かち合おうと努力をしたらしい。ボクもそれを成長するにつれて聞いたから、今だって頑張っているんだ。だって、そうしないと――母さんみたいになっちゃうから。母さんはあの日――父さんが帰ってこなくなった日――から、諦めてしまったんだ。

 ボクの知らない母国の言葉でしか話をしなくなった。それはつまり、ボクとも話すことがなくなったということで。毎晩ボクを抱いて眠る母さんは、遠い異国の言葉をずっと繰り返し、それこそ呪詛のように唱え続けていた。まるでその言葉に、自身の全てを刷り込むように。自身の境遇を全て捩じ込むようにただ、繰り返す“子守唄”。その言葉の冷たさは、言葉の意味がわからないボクでも、その言葉がとんでもない負の意味合いを持つことは安易に想像できた。







 もう何度目かの“絵の具遊び”に付き合った帰り、ぶるりと冷える身体を自分自身で抱き締めながら歩いていると、丁度道路工事の通行止めにぶち当たった。この道が工事なんて珍しい。多分迂回路なのだろう、字は難しくて読めなかったが矢印を追う形で脇道に逸れる。この国の言葉はなかなかおもしろくて、小学校で習う字だけしかわからなくても、組み合わせで考えればなんとか意味合いが掴めることも多い。

 いつもの道から一本逸れただけなのに、まるで別世界に紛れ込んだような錯覚を覚えた。迂回路はすぐに正規ルートへの矢印を指し示したが、方向的にこのまま進んでも知っている道に出る。多分あそこの大通り。せっかくなので新しい冒険のために、この道を大通りまで進んでみることにした。

 静かな道だった。住宅街ではあるのだけれど、住居の数が少ない。空き地ばかりだ。開け気味の視界が逆に新鮮で、普段から俯きがちだった視線も、今は少し浮き上がっている。

 視界に異様な建物が飛び込んできた。白い木造の建物で、屋根のところに鐘がある。そして壁にかかる十字架。教会だった。アニメで見た風景そのままの教会。その教会の扉が開き、中からひとりの女性が出てくる。

 穏やかそうな見た目の美人さんだ。腰まである長い髪にシスター服。それに――“肌色”じゃない。

 母親以外に初めてみたその色合いに、ボクは動悸が乱れるのを感じた。荒くなる呼吸にうるさくなる心臓。汗が止まらなくて、それでも視線はその人から外せない。異様な様態のボクに女性も気付いた。一瞬目を丸くして、それからその表情が訝しげに歪む。そしてすぐに目を見開いてボクの元へ駆け寄ってくるのが見えた。








 ボクは気を失っていたらしい。数日前から続く絵の具遊びのせいで、少し熱っぽい日々が続いていたからかもしれない。教会のなかの居住スペースのベッドで寝かされていたボクは、起き上がって腰かけた。それを見て女性が温かいココアを出してくれた。

「……ありがとう」

 少し悩んで、この国の言葉でお礼を伝えた。ボクにはこの人が、どこの血を引いている人かはわからないから。肌色じゃないだけで、多分同じ血ではない。

「もう大丈夫みたいね。熱も下がったみたいでよかったわ」

 すらすらとした返しが返って来てほっとする。マグカップから伝わる温かみが心地よい。

「少し身体が濡れていたけど、雨でも降ってた?」

 女性がふわりと微笑みながら聞いてくる。

「と、友達と水で遊んでいて……」

「そう……そのオトモダチって――酷いのね」

 微笑みは崩さないまま、女性は核心を突いてきた。おそらく熱の他にも症状がないか確かめる時に、洗い残した絵の具を見つけたのだろう。微笑みの形で固まった瞳が、悲しげに揺れている。それに全てを見透かされた気がして、ボクはもう涙を止めることは出来なかった。









 小さく揺れる電灯が、夜の帳に飲み込まれまいと懸命に光を灯す。すっかり日の暮れた窓の外を認め、ボクは慌てて立ち上がった。

「話を聞いてくれてありがとうございました」

「いいのよ。ここは教会だから、辛くなったらいつでもいらっしゃい。貴方も、お母様もね」

「はい!」

 自分にもこんな元気な返事が出せるのか。新たな発見にまた涙が出そうになるが我慢だ。早く帰らないと母さんが心配する。

「もう暗いから気をつけて帰ってね。お母様にもよろしく」

 見送りに出てくれた女性はそう言いながら、綺麗に包まれた紙袋をボクに渡してくれた。ボクは笑顔でそれを受け取ると、日の光の落ちきった道を歩き出す。

『人間はね、みんな違うのよ』

 泣きじゃくるボクに、女性は優しい声でそう告げた。

『だから……同級生の、たった五十人の人間だけの、そんな少ない悪意には負けないで。これから貴方はどんどん世界を広げていって、知り合う人数も増えていく。最初は五十人しかいないからゼロだった本当のお友達も、分母が百人、千人と増えていけば、一人、二人と増えていくのよ。だから……』

 女性はそう言いながら泣いていた。多分同じ思いをしたのだろうか。俯かずに、彼女は歩いていたのだろうか。いや、違う。多分たくさん俯いて、それでも諦めなかったんだ。

『だから、どうか……この場所を嫌いにならないで。本当に辛かったら逃げたら良い。それでも、この場所は貴方の場所よ』

 ボクにはその言葉が違って聞こえた。<この場所>に居て良いという赦しに聞こえた。

『貴方には必要ないかもだけれど、これをお母さんに』

 そう言いながら渡された紙袋。中身は――手書きのノート。翻訳辞典ですら怪しい母さんのために、女性は自分が勉強のために使っていたノートを譲ってくれた。わかりやすくまとめられたそのノートには、おそらく母国語が丁寧に書き込まれている。いくつの言葉が話せるんだろうあの人。

『言葉はね、相手を受け入れる土台なのよ。その土台は今は使えないかもしれない。でも、いつか本当のお友達が出来た時のために、それを支える土台を用意しておかないと、その人のこと大事に出来ないじゃない』

 他人を受け入れる、そのための言葉。今はまだ、刃としかならない言葉。でも、いつか――いつかきっと、友達がボクにも出来るかもしれない。その時に、その彼の彼女の言葉がわからないなんて、そんな悲しいことはない。ボクだけじゃなく、母さんもだ。それを放棄した母さんに、今夜はこのノートを渡そう。そして母さんに歌を教えてあげよう。とびきり明るい、言葉遊びの歌。

 これから毎晩聞くであろうその子守唄を夢想して、ボクは足早に家路を急いだ。





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