季節物短編
私はその日、階段を上がれなくなった。
心の中ではその段差を軽快に乗り越えていけるのに、まるでおかしな魔術にでもかかったかのように、私の身体は元の位置に戻っているのだった。
何かがおかしい。それは頭の中では思っていた。だけど、私の心は、その状況への明確な答えは導き出せていなかった。
「ユミー! 何してるの? 早く教室行こうよ」
階段の上から友人であるアイの声が聞こえる。顔を上げるとこちらを訝しげに見るアイの視線とぶつかる。
その瞳に言葉以上の感情を感じて、私の顔に笑みが張り付く。弾かれたように視線を逸らし、一向に踏み出せない足元に目を向ける。
「ま、待って……」
口ではそう言いながら、動けないでいる自分の身体に、自分自身が一番腹が立っていた。上からの視線が突き刺さる。
「いち、に……さん、し……」
気持ちだけでは動けないのならば声に出してしまえば良い。私は小さな声でそう呟きながら、それでも足は動かない。
「もー! 何してるの!? 置いてくよ!?」
降り注ぐようなその大声に、周囲が微かに――確かにざわめく。ほんの小さなその声達も、私の耳には突き刺さるように侵入してくる。なんの遠慮もなしに、ズカズカと鼓膜に響き渡るのだ。
『なにあれ?』『怒られてダッサ』『足震えてるとか、かわいそー』『イジメ?』『つか、膝でも壊してんじゃね?』『真ん丸過ぎだろ』『馬鹿、それは言っちゃダメだって』
嘲笑と共に囁かれる声達に、膝が笑い、視界が滲む。喉が渇いて声が出ない。心臓の鼓動がかつてないほどに煩い。身体が熱くなり、じんわりと手に汗が滲む感触が不快だ。
『デブは暑がりだな』『息遣いうるせぇ』『顔赤くしてるー』『太り過ぎると階段上がれなくなるんだねー』
周りの人達は口々に自分の言いたいことを言い、私を追い越し階段を上っていく。私はその声に、両手で自分の耳を塞いだ。人の群れがみんな階段を過ぎると、私とアイだけが残された。
アイは静かに、階段の上から私を見下ろしている。にこりともせずに、その瞳を私に向けている。
「ほんと、何してるの? さっさと来なって。置いてくよ?」
冷徹なアイの言葉に、思わず涙が零れ出る。我慢出来ないこの雫は、何も出来ない自分自身への憤りだ。
「さ、先に……行ってて……」
自分が惨めで可哀想で。小さく小さくそう言った。彼女にその声は届いたのか。階段の上で彼女が溜め息をつく。
「先に行っても良いけどさ……あんた、今でも上がって来れないのに、一人きりになって上がって来れる自信あるわけ?」
彼女の指摘に顔を上げた。彼女は相も変わらずこちらを見下ろしている。
「私はあんたの友達だからさ、今は待ってやれるんだよ。正直学校の授業なんて、一限聞かなかったくらいで死ぬわけでもないし」
アイが一段、一段と階段を下りてくる。二人きりの空間に、彼女の足音は大袈裟なくらいに響き渡る。
「私がどれだけ言ったところで、動き出すのはあんたなの。私はあんたと教室に行きたいから『一緒に教室に行こう』って言うけど、あんたが行きたくないなら行かなければ良い。それが友達なの」
あと数段というところで、アイの足が止まった。ぞくりとする視線に捕まり、目を逸らすことが出来ない。
「でもね、いつか必ず自分で一歩を踏み出さないといけない時がくる。その時の練習をしておかないと、きっと……」
彼女の細い手が私に触れた。私の手首には彼女の手が細すぎて。それでも想像以上の力強さで、前に――一歩を引っ張られた。
「踏み出したい時に踏み出せないよ!」
ぐっと引かれたその手に、鉛のようだった足が動き出す。一歩。一歩。まるでリハビリみたいにぎこちなく、それでいて確実に、ゆっくりと、だらしない私が歩き出す。
「もう! 次からはアシスト無しで動けるようになりなさいよ! 動きもせずに耳を塞ぐなんて、腕を動かす力があるなら足を動かしなさいよ!」
「ごめん、ね……」
「謝るんじゃないわよ。どうせならありがとうの方がマシだわ。笑うだけ笑って助けもしないような外野なんて放っておきな、練習の邪魔だからさ」
そう言いながら彼女は階段を上がる。私もそれにゆっくりとついていく。
「そこに立ち止まって、時間が解決してくれるならそれでも私は良いのよ。友達だもの。でもユミは、足を動かそうとしてたから。だからキツく言っちゃった。これじゃ、私はただの『怖い人』だ」
彼女の言葉に私は笑った。
「それを言うなら、私は男子から『丸い人』って言われているよ」
「それ笑って言うことじゃないから。ま、私も『キツい人』とも言われてたしなー」
二人して笑う。教室は目の前だ。開けられた窓からは、こちらになど目も向けないクラスメイト達の横顔が見える。
「ね? これから来る『いつか』の時、周りの声に邪魔されるなんてバカみたいでしょ」
その言葉に私がくすりと笑みを返すと、彼女は呆れたように小さく笑った。
「確かにユミって『丸い』のかもね。それって大事な長所だわ」
END