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貴方に捧げる、ふたつの心


 遥か彼方の平原から、黒い軍勢が迫ってきている。ゼトアが言っていたように大軍というわけではない規模ではあるが、それでも戦というものを初めて経験するウィアスには、その人影の多さは驚異的に感じられた。
「今お前の目の前に迫ってきているのが人間達の軍勢だ。ほとんどが歩兵で主装備は長剣。防具には対魔の類はないと思われる。この街の陸戦隊の敵ではない」
 ウィアスとゼトアは二人で、街の中心にある高台――『エリマの高台』と呼ばれるこの街の観光スポットらしい――にて水神の召喚の準備を整えていた。
 街を一望出来るこの高台は、普段は人で溢れる広場のようになっている。今は人影がないせいか寂れた空気に支配されているようだった。催し物の名残か、色とりどりの紙製の輪っかの飾りが、転落防止の鉄製の柵に取り付けられていた。
 あれから数時間後にゼトアはすっと目を開けて、まるで今まで睡眠を取っていたのは嘘だったかのように、はっきりした声で「召喚の準備に向かうぞ」と告げた。ゼトアの寝顔を見ながらウトウトしていたウィアスだったが、武人の表情になる彼の顔を見てしっかりと頷いたのだ。
「後方で固まっている軍団が見えるか?」
「……はい。微かにですが」
「魔力を辿った方がわかりやすいが、あれがセーピアの術者達だ。魔族達の傭兵集団。他の地でも被害が出ている。このタイミングで潰しておきたい」
 ゼトアの言葉にウィアスは瞳を閉じて、その方角の魔力を探る。確かに敵の右手の後方に、膨れ上がった水流系の魔力の塊を感じることが出来た。
『ウィアス、あいつらは同じ魔族とは思うんじゃねえぞ』
 突然そう言ったヘルガに驚いたのはウィアスだけだった。ゼトアは特に反応を見せない。
「ヘルガ? どうしたのですか?」
『あいつらは、俺の先祖にガーゴイルの呪いを掛けた一族の末裔だ。奴等を遥かに上回る水の魔力で押し流せるなんて、本当にイカしてるぜ』
「……そうでしたか」
 敵についたといっても同じ魔族の同胞と戦うことに、ゼトアもヘルガも嫌悪感はないようだった。霊獣という希少な種族であるウィアスには、そこのところの細かい心の揺れはわからなかった。
 ただウィアスの心には守るべきものが既にいた。それは目の前のゼトアであり、自身と共存するヘルガの心、そしてこの街の住人達である。『全ての者達が仲良く、争いのない世界』にするには、目先の流血が避けられないことであることはわかっている。ウィアスはそこまで子供でも、ましてや理想論者でもなかった。
 牢獄で親切にしてくれた男のためにも、彼の家族を守るとウィアスは心に誓っていた。水神の魔力を具現化するために魔王アレスより持たされた“小道具”達に手をやって、ウィアスは恐れを振り切るように強く頷いた。
「この街を守るためにも、セーピアの魔族達を水流により殲滅します」
 ウィアスは腰に巻き付けたベルトにぶら下げていた『宝剣リキュアール』を掲げる。ベルトに金属の鎖で固定しているウィアスの装備は、その手に持つ宝剣と、腰にぶら下げたままの聖典である。
 宝剣リキュアールは魔王アレスが自身に仕える魚人族に造らせた魔剣である。細身のどこか女性を思わせるシルエットが特徴で、その身は流れる水のように清らかな青に染められている。小柄なウィアスが掲げても決して大袈裟過ぎることのない、まるでウィアスのために用意されたような魔剣であった。
 水流系の魔力を更に増幅させるこの剣は、切るという用途よりは儀式用に近い運用になるだろう。この高台に敵が現れた際は、天使はゼトアに任せ、その他の敵にはヘルガに対応を任せようとウィアスは決めていた。二足歩行にようやく慣れたウィアスでは、満足に立ち回りが出来るはずもない。
 腰からぶら下げたままの聖典も、聖なる魔術の発動用の補助なので、ただでさえ魔力を消耗し続ける召喚中での使用は得策ではなかった。
『安心しろ。もし襲われたら、俺がお前の身体を守ってやる。体術は得意だからな』
 この高台に着いた段階で、ヘルガの感覚を確かめる意味も込めて、ゼトアとヘルガは軽い打ち合いを行っていた。感覚をヘルガに明け渡したウィアスは、頭の隅からその感覚を意識的に追っていた。
 武器の使用はせずに素手で打ち合う。それでもヘルガの実力はかなりのものだった。得物を持たずともゼトアは魔族の軍人である。そんな彼にヘルガの獣のような動きからの連撃は、勝るとも劣らない見事な立ち回りだったと思う。
 ゼトアも「なかなか良い動きだ」と褒めていた。彼は息すら上がっていなかったが、それでもそう褒められたヘルガは得意そうにしていた。そんな二人の様子が、ウィアスもなんだか嬉しかった。
 召喚中は精神の集中が必要だ。突然の乱入者にヘルガが反応してくれれば、ウィアスはその集中を乱されることもない。二人は、二人で一人で、その力の合計は単純な足し算では済まないのだった。
 その時、遥か彼方の前方で、地響きのような音が聞こえた。轟音にウィアスがその方角に目を向けると、「始まったな。セーピアの方角から魔力が溢れ出ているのがわかる。水神を召喚して、防御壁を頼む」とゼトアが開戦を告げ、その瞳が鋭くなる。ウィアスはそんな彼の横を通り過ぎて、高台の中央に移動する。
 自然を残すように調整された高台の足元は、灰色のレンガで舗装されている。中心を彩るレンガはまるで魔法陣のような文様が刻まれており、有事の際には魔術的な儀式の場になるように建設されていたことが窺える。
 こつりと、足元のレンガに軍用ブーツの音が響く。女性用の流れるようなデザインの軍用ブーツには、魔王から送られた深緑の小ぶりな宝石が、装飾として魔力によって焼き込まれていた。
 魔法陣の中心で、ウィアスは瞳を閉じ、その両腕を振り上げる。右手に持つ魔剣を天高く掲げ、空の向こうの――幻想の深海へとその声を届ける。
「猛々しき蒼海の王よ……」
 ウィアスの呟きに、空間が震える。ウィアスの身体を中心に蒼の魔力に染められた風が渦を巻く。一気に大気が冷えて、その中空に幾多のダイアモンドダストが煌めく。
 魔力の渦は勢いを増し、広場に残ったままの飾りやゴミを吹き飛ばしていく。そんな風の勢いなど感じさせずに、ゼトアの視線が背に注がれているのがウィアスにはわかった。
――私は、貴女の力になりたいのです。
 胸の内を魔力に込めて、ウィアスは召喚の詠唱を続ける。歌うような彼女の声が、魔力の流れに乗って天空高く昇っていく。
「このアリア聴こえしは、この地へと具現せよ」
 ウィアスが言葉と共に瞳を開くと同時に、ウィアス達の頭上――高台の真上に巨大な水の塊が出現した。激しい蒼に輝くその水流は、どぷりと一回大きく波打つと、その脈動を一気に活発化させる。
 まるで巨大な湖の水面に大きな岩でも落とされたような、そんな大きな脈動だった。深く沈みこんだ水面が、一気に高波に変わって溢れ始める。
 その水流は幻想の水流だった。自然の猛威を振るう破壊の意思ではなく、命を守るための母なる力だった。
 流れ出る水流が、頭上から街を包み込むように覆う。水のカーテンに全てを閉ざされるその刹那――天から一筋の光が差した。
「どうにもお前は、大人しく出来ないようだな」
 ウィアスの目の前に割って入ったゼトアの愛槍――地竜の槍と呼ばれる魔槍らしい――に、あの時の天使が両手に持つ剣で応戦している。一筋の光に見えたのは、高速でこちらに飛来した天使の姿だったのだ。人間業ではない所業に、天使の顔には何の感情も浮かんでいない。恐ろしいまでの整った顔が、召喚で冷えた大気以上にウィアスの心を冷たくさせる。
「魔将ゼトアよ。よもやこのような小娘にビスマルクを召喚させるとはな」
 機械的に天使がそう言って、ウィアスにその無機質な瞳を向けた。精密機械のような動きのそれに、ウィアスは召喚のために魔力を集中しながら、いつでもヘルガに頼めるように心の集中度合いを彼にずらしていく。
「お前の相手はこの俺だ。水神がその矛を見せるまで、二人で楽しもうじゃないか!」
 初めて見るゼトアの戦いに歓喜する姿に、彼が根っからの武人であることを理解する。永すぎる時を生きる魔族の男は、それでもその感情を乱される瞬間が必ずあるのだった。それは強敵との戦闘然り、愛する者との情事然り。
 どくりと滾った自身の心臓が、どうかヘルガにはバレていないことを祈る。
 視界の隅で二人の男が凄まじい攻防を繰り広げる。愛槍を失った天使だが、代わりに持っている二振りの剣の実力もかなりのものだった。あのゼトアが押されはしないにしても、攻めあぐねている。
 ここは援護にまわるためにも水神による一撃を早々にセーピアに叩き込むべきだろう。ウィアスはそう結論付けると、激しく響く戦闘音をその意識から除外する。
 ウィアスの祈りが通じ、街を包み込んだ水のカーテンから特大の弾丸が撃ち出された。その攻撃に呼応するように、目標地点――セーピアの術者達から反撃がくる。
 大地を割るような巨大な水の刃が、ウィアスの放った水弾を打ち消し、そのままの勢いで街に牙を剝く。水のカーテンを突き破ることこそなかったが、その衝撃に魔力が削られ、ウィアスの頭が割れるように痛む。
 守りを強固にするためにウィアスが更に集中しようとしていると、背後に複数の気配を感じて、咄嗟に反対側に飛び退く。
「さすがに気付かれたか! 見た目は娘でも魔族は魔族だな!」
「穢れた血め! 水神の力を愚弄しおって……この場で切り殺してくれる!」
 背後に忍び寄っていたのは、二人の人間の男だった。装備を見る限り前線の騎士というよりは、斥候部隊のようにも見える。大振りな剣等の装備ではなく、扱いやすそうなブレード状の刃を主装備としていたからだ。
 ウィアスはゆっくり振り向きながら、その手に持った魔剣を腰からぶら下げた鞘に戻す。“彼”が戦いやすいように、その両手を空けてやる。
「っ……ヘルガ!」
『おうよ。任せろ』
 突然目の前の女の口から響いた男の声に、人間の男達は驚いたようだった。その隙をついてヘルガは、ウィアスの身体で両手両足を地面につけて、まるで獣のような姿勢を取り、そのまま素手で男の一人に飛び掛かった。
 ヘルガの体術は、軍人が考えつくような動きではない。四肢を獣のように扱うその動きは素早く、そして的確に急所を狙う。獰猛なる野生動物がそうするように、首や腹、太ももといった『柔らかく、そして致命傷を与える』場所を狙ってその爪を振るう。
 ウィアスの身体は魔族の女の身体だ。その身体に強く逞しい『ガーゴイルのような』爪等はない。しかし彼の魔力によってコーティングされた四肢の先は、鋭い切れ味を持って相手の身体に突き刺さる。
 太ももと首を一気に貫かれた男は悲鳴すら上げられずに倒れ込む。ようやく事態を飲み込めたもう一人が慌ててブレードを構えるも、既に間合いは詰まっている。
『なんだよ、人間なんて大したことねーな』
 べっとりと濡れた左腕を誇らしげに見詰め、ヘルガがぼやいた。ウィアスは彼が主導権を握って戦っている間も魔力の集中を続けているので、敢えてその声には答えないでいた。
 水のカーテンの色合いが濃くなる。ウィアスは防御壁を強固にし、更に反撃のための水弾を複数作り出し、放つ。狙い違わず目標に着弾した命を奪う恵みの水流に飲み込まれ、その地に湧き出るようだった魔力の勢いが一気に消滅していった。
 敵の術者達の沈黙を悟り、ウィアスは精神の集中はそのままに、その瞳をゼトアに向けた。
 彼は天使と交戦中だった。お互いに消耗しながらも、決め手に欠けている状態だった。天使の顔がぐるりと機械的にこちらを向く。
「っ! ウィアス! 離れろ!!」
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