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世の中には、イーガ団の装束や術をカッコいいと思い、あまつさえ女性陣からモテるんじゃないかと考えるやつがいるらしい。敢えて言おう、バカであると。
なぜ言い切れるかというと、俺の実体験である。イーガの団員としてまともに従事できるようになるためには、確かにツラく厳しい修行をこなし、この不安定な世界を生きるにおいて重要な武力を無理やり身につけなければならない。か弱い女人を守る立場である男ならば、その武力はモテに直結する。
しかし、それなりに強くなったはずの俺には生まれてこの方、彼女がいない。何故か。単純明快イーガに女団員が少ないからである。
イーガを構成するのは、親にイーガの血縁がいる生粋の団員か、何か事情があって、一般社会で生きられなくなった元民間人かのどっちかだ。武力に物を言わせることの多いイーガへの入団を決める女性は少なく、どうしても男団員の方が多くなってしまうのは当然の結果と言えるだろう。
たまにかわいこちゃんが入ってきたとしても、大概既に武勲をたててる先達か、やり過ぎなくらい筋肉を発達させた幹部役ばかりが良い思いをする。
まあ、俺だってイーガの端くれ。団員として鍛錬は欠かしていないし、この鍛え上げた肉体を使えば、ひなびた村の女人を口説くくらいならできるはず。
しかし、存外俺はピュアなところのある男だ。生涯愛すると誓った女性に対し、素性を隠し、職に嘘を吐き、騙しながら家庭を築いていくなんて耐えられない。お天道様に顔向けは出来ずとも、せめて愛する女に対しては顔向けできるような男でありたいじゃないか。ゆえに、俺の恋愛対象は全てを受け入れてくれるイーガの団員だと決めている。
ただ、幹部役でもなく、武勲もなく、大した稼ぎもないチンケな俺が、イーガで彼女を作るのは困難を極めていた。
俺みたいのが恋人を作るのであれば、こりゃもう運命がどうとか、ロマンチックな出会いがどうとか言ってる場合じゃない。先手必勝、勝てば官軍負ければ賊軍、やる後悔よりやらない後悔てなもんで、とにかく声をかけて口説きまくるしかない。
つまりナンパだ。これでしか勝利の道はないのである。
俺がナンパの主戦場としているのは、アジトの食堂だった。
食堂は良い。なんせ普段は仮面の下にひた隠しにされた素顔が、食事を言い訳に照明の元へ晒される。慣れた団員なんかは器用に口元だけを覗かせて飯を食うが、新人は軒並み仮面を横に置いて飯を食う。つまり、食事の場においては新人かどうかも一目瞭然だし、俺好みのかわいこちゃんかどうかも一目瞭然というわけだ。食堂をナンパの主戦場にしている理由がご理解いただけるかと思う。
この日、俺が昼食を取りに行くと、珍しく食堂が人でごった返していた。
なんでも地底で活動をしていた団員たちが、まとめて地上に上がってきたらしい。下では温かいものや手の込んだ料理が食べられないからと、地底に駆り出されている団員たちが食堂に集まるのは、この頃よく目にする光景である。
席を探すのも一苦労だが、こういう日は普段見かけない新人団員を見つけることもあって、存外嫌なことばかりではない。昼飯の乗った盆を受け取って辺りをキョロキョロ見回すだけでも、気になる女性団員が一人、二人、目に飛び込んでくる。
その中でも、お、と気になる女性を見つけた。仮面を完全に取り払い、落ち着かないように瞳を右往左往とさせている。目の前に置かれた食事には一切手を付けていない様子。先達を差し置いて、先に食べて良いのかどうか探っているのだろうか。
間違いない、彼女はきっと新人だ。イーガに似つかわしくない慎ましい雰囲気が、外部入団したばかりの田舎娘を思わせる。
長いことここに居たら、女も男も随分図太くなっていくもんだ。なんせ人様の首を刈ることもあるくらいなんだから図太くないと生きていけやしない。
詰めれば二人座れる卓に、彼女は居住まい悪そうに一人で座っていた。そんなところも何かと丁度良い。今日のナンパ相手を絞ったところで、俺はちょこんと席に座る彼女の元へ向かった。
「よお、久しぶり!最近顔見てなかったけど元気してたか?」
「・・・・・・え・・・・・・?え、と・・・・・・」
「俺だよ、俺俺!鍛錬のとき世話になったろう!どうしてるかなって、心配してたんだ!」
もちろん嘘である。イーガの団員は面を付けて過ごすのが常。慣れてきたら面をつけていようがいまいが相手を判別できるもんだが、新人となれば話は別だ。きっと彼女の頭の中では「誰かは分からないけど、会ったことのある先輩なんだ。粗相のないように話を合わせなきゃ」とめぐっているはず。
イーガの習わしを逆手にとった、完璧な作戦である。実際俺はこの手を使って、可愛い女団員と楽しい会話を繰り広げたことが何度もあった。まぁ、残念ながら恋人には至らなかったわけだが。
俺の読み通り、彼女は「お久しぶりです・・・・・・?」と曖昧に話を合わせてきた。
「イーガの生活には慣れたか?最近はどこも忙しそうだからなあ、本当、大変なときに入団したよな」
「そうですね、もうすっかり・・・・・・。でも、ちょっとバタつくことも多いですね、確かに」
「だよな、何かあったら遠慮なく相談してくれよ。出来る限り後輩をサポートするのが、先輩の役目だからさ」
言いながら、辺りをキョロキョロとわざとらしく見回して、俺は頭を掻いた。
「あー、悪いんだけど、隣一緒に良いか?他の席が空いてなくて」
ナンパの必殺、相席食堂である。
ここまで素直に頼まれれば、「いいですよ」と言わざるを得ないはず。イーガの食堂は壁際に座敷の卓が並んでおり、二人掛けで利用するには隣へ座るしかない。大の大人が並ぶには、なかなかに窮屈な座敷の卓だ。しかし、女性との食事を囲むのであれば、これ以上ムフフな距離もない。
絶対に断られない。内心では自信たっぷりに、ただその気配を臆面も出さず恐縮した風を装った。しかし、彼女からは思ってもみない言葉が返ってくる。
「ごめんなさい、人を待っていて・・・・・・。座る予定があるので、ちょっと」
まさか、武力が物を言う集団で、・・・・・・加えて、先達からの頼みを断る新人団員がいるとは思ってもみなかった。
予想と違う答えが返ってきたことに一瞬呆けて、いやいやこれで引いてはナンパ師が廃ると、面下で口元を引き締める。
「その人が来たら退くからさ、飯を食うほんの一瞬で良いんだ。頼むよ」
「ごめんなさい、たぶんそろそろ来ると思うから、他を当たった方が良いと思います」
「そこをなんとか。ちゃっちゃと食べるから。な?」
「いやだって、あの辺りの席も空いてますし、ここにこだわらなくても・・・・・・」
「君とももう少し話がしたいし、いいだろ?またいつ会えるか分からないしさぁ」
ここまではっきりと断られることもない。上手くいくと思っていたものに躓いて、俺としても少々ムキになってしまったのが良くなかった。多少強引に迫っても大丈夫だろ、と思ったのも良くなかった。彼女と問答を続けるうち、背中に影が迫っていることに気付かなかったのだ。
「あ」と漏らした彼女の瞳が、まん丸に見開かれたことで、やっと俺は違和感に気付いた。
とんとん、と軽く肩を叩かれる。「なに?」と振り返った先にあったのは、筋肉の壁。いや、鍛え上げられた大胸筋だった。
俺はそこまで上背の低い方ではない。しかしそれよりも背の高い男──幹部さんが、俺のことを動かないイーガの瞳で見下ろしていた。
この時ほど血の気が下がったことはない。と思ったが、次の彼の発言で、俺は更に心臓を凍らせることになる。
「私の妻が、なにか?」
死んだ、と思った。この時、手に持った盆を落とさなかった自分を褒め千切ってやりたい。
「幹部さん!」と、俺の横を素通りして、卓を越えた彼女が幹部の元へ歩み寄る。
遠くない距離、ただ、決していやらしくない距離。ああ、確かにこれは、単なる幹部と構成員の距離じゃないし、付き合いたての恋人の距離でもない。
慈愛の瞳を浮かべる彼女を見ていれば分かる。これはまごうことなく、夫婦の距離間だ。
「すまない、遅れてしまって。えっと、こちらは・・・・・・」
「新人の頃、私に鍛錬をつけてくださった方で・・・・・・久しぶりにお会いしたんです」
「そうか、妻が世話になったようで感謝する。また私にも当時の話を聞かせて欲しいなぁ」
「あッ、ハイ!また、ぜひ!そのときはオネガイシマスネ!」
「私は幹部詰所にいるから、昇格試験のときにでも」
幹部詰所の幹部さん、といえば、幹部役の中でも歴の長い人間が就く部署じゃないか。俺はこの先の人生において、自分が幹部役になれないことを悟った。
俺が将来の憂いに苛まれていることなど露知らず、目の前の幹部が手を差し出してくる。反射的に応じると、そのまま力強く握られた。
おそらく彼にとっては単なる握手。しかし俺にとっては違う。目の前の人の力量と、俺の力量の差がはっきり分かってしまった。まるでライネルみたいな強敵に睨まれた、矮小なボコブリンになった気分だ。
いや、彼はきっとそんな獰猛な気質を持った人ではない。ただ、はっきりと俺は萎縮した。
手を離し、「では、失礼するよ」と彼の愛想良い言葉に、「ハイ、シツレイシマス!」と片言に返す。すぐさま逃げ出そうかとも思ったが、食堂は人がごった返している状態だ。盆を持ったままでは外にも出られない。どうする。
氷にでもなったかのように堅い動きで足を踏み出そうとした折、またあの丸みのある低い声に「なあ」と呼び止められた。
「何度もすまない。君、席を探してるんだろう?」
「ハイ。今混んでるんで、確かに、ハイ」
「私たちは外で食べることにしたから、この卓を使うと良い。せっかくだから」
「え、いいんですか。ここで、二人で食べる予定だったんじゃ・・・・・・」
「そのつもりだったんだが、騒々しいのは苦手でね」
小さく声を潜ませて頬を掻く姿は、まるで幹部役とは思えない様相だった。幹部といったら、地位と武力を翳したり、どことなく威圧的でぶっきらぼうな人も多いというのに、この腰の低さはなんだ?
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・・・・」と顎を引くと、幹部さんは面の奥で朗らかに笑ったようだった。
「最初から詰所に集まれば良かったな、まさかアジトの食堂がこんなに混んでるとは思わなかった」
「でも、食堂のご飯食べたいと言っていたでしょう?丁度良い機会だったと思いましょ」
「そうだな、今日は外も良い天気だったし、のんびりできる」
「ピクニックみたいですね、わくわくします」
「ああ、そうだな。たまにはこういう日もいいな・・・・・・」
喧騒に紛れて徐々に掻き消えていく夫婦の会話を、俺はいつまでも耳で追った。
他愛ない会話だ。恋人が見せる燃え盛った炎という風でもなく、見せつけてくるようないやらしさもない。彼らはただそこに居て、当たり前のようにお互いの存在が酸素になっている。刺激感もなく、紆余曲折も無い、つまらなささえ感じる安穏たる夫婦の会話だった。
手に持ったままだった料理の盆を卓へ置き、俺はどっかりと座敷へ座り込んだ。
料理はすっかり乾いている。きっと彼女が食べようとしていた料理だって、乾いているだろう。でもあの人だったら、自分が貰った料理を彼女に渡し、乾いた料理を率先して食べるに違いない。彼女に対するそんな慈愛を、ひしひし感じる人だった。
幹部という地位があり、発達したムキムキの筋肉があり、それらが保証する、確かな武力がある。
加えて、彼女を慮るあの優しさ、妻にちょっかいかける男に見せた情け、穏やかで品のある言葉遣い。
ずる過ぎるだろ・・・・・・。ああいう人がいるから俺みたいな下っ端に女性が回ってこないんだ。むかつく。悔しい。でも結婚する理由が分かる。理由しか存在しない。
でもじゃあ、敢えて言わせてほしい。叫ばせてほしい。幹部さんと奥さんの姿を見て、心の底から感じたことを今ここで。
「彼女欲しいッ」
卓に突っ伏した拍子のガチャンッという音と共に、俺は今生最大の悩みと願望を吐きだした。
なぜ言い切れるかというと、俺の実体験である。イーガの団員としてまともに従事できるようになるためには、確かにツラく厳しい修行をこなし、この不安定な世界を生きるにおいて重要な武力を無理やり身につけなければならない。か弱い女人を守る立場である男ならば、その武力はモテに直結する。
しかし、それなりに強くなったはずの俺には生まれてこの方、彼女がいない。何故か。単純明快イーガに女団員が少ないからである。
イーガを構成するのは、親にイーガの血縁がいる生粋の団員か、何か事情があって、一般社会で生きられなくなった元民間人かのどっちかだ。武力に物を言わせることの多いイーガへの入団を決める女性は少なく、どうしても男団員の方が多くなってしまうのは当然の結果と言えるだろう。
たまにかわいこちゃんが入ってきたとしても、大概既に武勲をたててる先達か、やり過ぎなくらい筋肉を発達させた幹部役ばかりが良い思いをする。
まあ、俺だってイーガの端くれ。団員として鍛錬は欠かしていないし、この鍛え上げた肉体を使えば、ひなびた村の女人を口説くくらいならできるはず。
しかし、存外俺はピュアなところのある男だ。生涯愛すると誓った女性に対し、素性を隠し、職に嘘を吐き、騙しながら家庭を築いていくなんて耐えられない。お天道様に顔向けは出来ずとも、せめて愛する女に対しては顔向けできるような男でありたいじゃないか。ゆえに、俺の恋愛対象は全てを受け入れてくれるイーガの団員だと決めている。
ただ、幹部役でもなく、武勲もなく、大した稼ぎもないチンケな俺が、イーガで彼女を作るのは困難を極めていた。
俺みたいのが恋人を作るのであれば、こりゃもう運命がどうとか、ロマンチックな出会いがどうとか言ってる場合じゃない。先手必勝、勝てば官軍負ければ賊軍、やる後悔よりやらない後悔てなもんで、とにかく声をかけて口説きまくるしかない。
つまりナンパだ。これでしか勝利の道はないのである。
俺がナンパの主戦場としているのは、アジトの食堂だった。
食堂は良い。なんせ普段は仮面の下にひた隠しにされた素顔が、食事を言い訳に照明の元へ晒される。慣れた団員なんかは器用に口元だけを覗かせて飯を食うが、新人は軒並み仮面を横に置いて飯を食う。つまり、食事の場においては新人かどうかも一目瞭然だし、俺好みのかわいこちゃんかどうかも一目瞭然というわけだ。食堂をナンパの主戦場にしている理由がご理解いただけるかと思う。
この日、俺が昼食を取りに行くと、珍しく食堂が人でごった返していた。
なんでも地底で活動をしていた団員たちが、まとめて地上に上がってきたらしい。下では温かいものや手の込んだ料理が食べられないからと、地底に駆り出されている団員たちが食堂に集まるのは、この頃よく目にする光景である。
席を探すのも一苦労だが、こういう日は普段見かけない新人団員を見つけることもあって、存外嫌なことばかりではない。昼飯の乗った盆を受け取って辺りをキョロキョロ見回すだけでも、気になる女性団員が一人、二人、目に飛び込んでくる。
その中でも、お、と気になる女性を見つけた。仮面を完全に取り払い、落ち着かないように瞳を右往左往とさせている。目の前に置かれた食事には一切手を付けていない様子。先達を差し置いて、先に食べて良いのかどうか探っているのだろうか。
間違いない、彼女はきっと新人だ。イーガに似つかわしくない慎ましい雰囲気が、外部入団したばかりの田舎娘を思わせる。
長いことここに居たら、女も男も随分図太くなっていくもんだ。なんせ人様の首を刈ることもあるくらいなんだから図太くないと生きていけやしない。
詰めれば二人座れる卓に、彼女は居住まい悪そうに一人で座っていた。そんなところも何かと丁度良い。今日のナンパ相手を絞ったところで、俺はちょこんと席に座る彼女の元へ向かった。
「よお、久しぶり!最近顔見てなかったけど元気してたか?」
「・・・・・・え・・・・・・?え、と・・・・・・」
「俺だよ、俺俺!鍛錬のとき世話になったろう!どうしてるかなって、心配してたんだ!」
もちろん嘘である。イーガの団員は面を付けて過ごすのが常。慣れてきたら面をつけていようがいまいが相手を判別できるもんだが、新人となれば話は別だ。きっと彼女の頭の中では「誰かは分からないけど、会ったことのある先輩なんだ。粗相のないように話を合わせなきゃ」とめぐっているはず。
イーガの習わしを逆手にとった、完璧な作戦である。実際俺はこの手を使って、可愛い女団員と楽しい会話を繰り広げたことが何度もあった。まぁ、残念ながら恋人には至らなかったわけだが。
俺の読み通り、彼女は「お久しぶりです・・・・・・?」と曖昧に話を合わせてきた。
「イーガの生活には慣れたか?最近はどこも忙しそうだからなあ、本当、大変なときに入団したよな」
「そうですね、もうすっかり・・・・・・。でも、ちょっとバタつくことも多いですね、確かに」
「だよな、何かあったら遠慮なく相談してくれよ。出来る限り後輩をサポートするのが、先輩の役目だからさ」
言いながら、辺りをキョロキョロとわざとらしく見回して、俺は頭を掻いた。
「あー、悪いんだけど、隣一緒に良いか?他の席が空いてなくて」
ナンパの必殺、相席食堂である。
ここまで素直に頼まれれば、「いいですよ」と言わざるを得ないはず。イーガの食堂は壁際に座敷の卓が並んでおり、二人掛けで利用するには隣へ座るしかない。大の大人が並ぶには、なかなかに窮屈な座敷の卓だ。しかし、女性との食事を囲むのであれば、これ以上ムフフな距離もない。
絶対に断られない。内心では自信たっぷりに、ただその気配を臆面も出さず恐縮した風を装った。しかし、彼女からは思ってもみない言葉が返ってくる。
「ごめんなさい、人を待っていて・・・・・・。座る予定があるので、ちょっと」
まさか、武力が物を言う集団で、・・・・・・加えて、先達からの頼みを断る新人団員がいるとは思ってもみなかった。
予想と違う答えが返ってきたことに一瞬呆けて、いやいやこれで引いてはナンパ師が廃ると、面下で口元を引き締める。
「その人が来たら退くからさ、飯を食うほんの一瞬で良いんだ。頼むよ」
「ごめんなさい、たぶんそろそろ来ると思うから、他を当たった方が良いと思います」
「そこをなんとか。ちゃっちゃと食べるから。な?」
「いやだって、あの辺りの席も空いてますし、ここにこだわらなくても・・・・・・」
「君とももう少し話がしたいし、いいだろ?またいつ会えるか分からないしさぁ」
ここまではっきりと断られることもない。上手くいくと思っていたものに躓いて、俺としても少々ムキになってしまったのが良くなかった。多少強引に迫っても大丈夫だろ、と思ったのも良くなかった。彼女と問答を続けるうち、背中に影が迫っていることに気付かなかったのだ。
「あ」と漏らした彼女の瞳が、まん丸に見開かれたことで、やっと俺は違和感に気付いた。
とんとん、と軽く肩を叩かれる。「なに?」と振り返った先にあったのは、筋肉の壁。いや、鍛え上げられた大胸筋だった。
俺はそこまで上背の低い方ではない。しかしそれよりも背の高い男──幹部さんが、俺のことを動かないイーガの瞳で見下ろしていた。
この時ほど血の気が下がったことはない。と思ったが、次の彼の発言で、俺は更に心臓を凍らせることになる。
「私の妻が、なにか?」
死んだ、と思った。この時、手に持った盆を落とさなかった自分を褒め千切ってやりたい。
「幹部さん!」と、俺の横を素通りして、卓を越えた彼女が幹部の元へ歩み寄る。
遠くない距離、ただ、決していやらしくない距離。ああ、確かにこれは、単なる幹部と構成員の距離じゃないし、付き合いたての恋人の距離でもない。
慈愛の瞳を浮かべる彼女を見ていれば分かる。これはまごうことなく、夫婦の距離間だ。
「すまない、遅れてしまって。えっと、こちらは・・・・・・」
「新人の頃、私に鍛錬をつけてくださった方で・・・・・・久しぶりにお会いしたんです」
「そうか、妻が世話になったようで感謝する。また私にも当時の話を聞かせて欲しいなぁ」
「あッ、ハイ!また、ぜひ!そのときはオネガイシマスネ!」
「私は幹部詰所にいるから、昇格試験のときにでも」
幹部詰所の幹部さん、といえば、幹部役の中でも歴の長い人間が就く部署じゃないか。俺はこの先の人生において、自分が幹部役になれないことを悟った。
俺が将来の憂いに苛まれていることなど露知らず、目の前の幹部が手を差し出してくる。反射的に応じると、そのまま力強く握られた。
おそらく彼にとっては単なる握手。しかし俺にとっては違う。目の前の人の力量と、俺の力量の差がはっきり分かってしまった。まるでライネルみたいな強敵に睨まれた、矮小なボコブリンになった気分だ。
いや、彼はきっとそんな獰猛な気質を持った人ではない。ただ、はっきりと俺は萎縮した。
手を離し、「では、失礼するよ」と彼の愛想良い言葉に、「ハイ、シツレイシマス!」と片言に返す。すぐさま逃げ出そうかとも思ったが、食堂は人がごった返している状態だ。盆を持ったままでは外にも出られない。どうする。
氷にでもなったかのように堅い動きで足を踏み出そうとした折、またあの丸みのある低い声に「なあ」と呼び止められた。
「何度もすまない。君、席を探してるんだろう?」
「ハイ。今混んでるんで、確かに、ハイ」
「私たちは外で食べることにしたから、この卓を使うと良い。せっかくだから」
「え、いいんですか。ここで、二人で食べる予定だったんじゃ・・・・・・」
「そのつもりだったんだが、騒々しいのは苦手でね」
小さく声を潜ませて頬を掻く姿は、まるで幹部役とは思えない様相だった。幹部といったら、地位と武力を翳したり、どことなく威圧的でぶっきらぼうな人も多いというのに、この腰の低さはなんだ?
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・・・・」と顎を引くと、幹部さんは面の奥で朗らかに笑ったようだった。
「最初から詰所に集まれば良かったな、まさかアジトの食堂がこんなに混んでるとは思わなかった」
「でも、食堂のご飯食べたいと言っていたでしょう?丁度良い機会だったと思いましょ」
「そうだな、今日は外も良い天気だったし、のんびりできる」
「ピクニックみたいですね、わくわくします」
「ああ、そうだな。たまにはこういう日もいいな・・・・・・」
喧騒に紛れて徐々に掻き消えていく夫婦の会話を、俺はいつまでも耳で追った。
他愛ない会話だ。恋人が見せる燃え盛った炎という風でもなく、見せつけてくるようないやらしさもない。彼らはただそこに居て、当たり前のようにお互いの存在が酸素になっている。刺激感もなく、紆余曲折も無い、つまらなささえ感じる安穏たる夫婦の会話だった。
手に持ったままだった料理の盆を卓へ置き、俺はどっかりと座敷へ座り込んだ。
料理はすっかり乾いている。きっと彼女が食べようとしていた料理だって、乾いているだろう。でもあの人だったら、自分が貰った料理を彼女に渡し、乾いた料理を率先して食べるに違いない。彼女に対するそんな慈愛を、ひしひし感じる人だった。
幹部という地位があり、発達したムキムキの筋肉があり、それらが保証する、確かな武力がある。
加えて、彼女を慮るあの優しさ、妻にちょっかいかける男に見せた情け、穏やかで品のある言葉遣い。
ずる過ぎるだろ・・・・・・。ああいう人がいるから俺みたいな下っ端に女性が回ってこないんだ。むかつく。悔しい。でも結婚する理由が分かる。理由しか存在しない。
でもじゃあ、敢えて言わせてほしい。叫ばせてほしい。幹部さんと奥さんの姿を見て、心の底から感じたことを今ここで。
「彼女欲しいッ」
卓に突っ伏した拍子のガチャンッという音と共に、俺は今生最大の悩みと願望を吐きだした。