ゆき晴らし 春告げの君
「・・・・・・まいったな」
幹部詰所に居を移し、早くも十数日が経つ。
私は、イーガの装束を目の前にして、途方に暮れていた。
部屋に渡されたロープから垂れるそれらは、よくアジトでも見られた洗濯ものの光景だ。しかし私が困っているのは、それらが干されてから既に二日は経っており、にもかかわらず、びしょびしょのままだからだった。
改めて布地を摩ると、手套に水気が沁みてきてひやりとした。乾く気配は一切見られない。なぜ濡れたままなのか見当もつかず、勝手にため息が漏れてしまう。
・・・・・・このような面倒な事態に発展したきっかけは、二日前の朝にまで遡る。
その日も、芳春と呼ぶに相応しい、柔らかい陽射しの空だった。
朝の身支度、食料の調達に食事、玄関先の掃き掃除、鍛錬・・・・・・詰所に来てから出来上がった一日の日課をこなした私は、部屋の一か所に固められた仕事へ遂に向き合うことにした。
イーガマークの刻まれた木箱にごちゃりと詰め込まれた装束──所謂、洗濯ものだ。ずっと見ないふりを続けていたそれらは数着分。事前に運び込まれていた装束を着つくした私は、「装束の洗濯」という面倒な仕事に差し迫られていた。
そもそも乾燥地帯であるゲルド地方での汚れと言ったら、埃や砂ばかり。イーガを含め、ここいらに住まう民族は一日の終わりに衣服をバサバサと叩くだけで、毎日の水洗いという慣例がない。
今でこそ滝が流れて簡単に水が得られるが、この当時は数時間かかる水場まで歩かなければ、洗濯などまともに出来なかった。そもそも詰所には干し場だってまともにない。面倒事から避けるため、今まで騙し騙し装束の交換をおこなって日々を過ごしていたわけだ。
しかし、そろそろそうも言っていられない。ふと身体を動かした瞬間に、体臭のにおいが鼻腔を掠めた。そして、比較的綺麗な装束に着替えようとして、既に全て汚れ切っていることに気付いたのだ。
「ああ、遂にか・・・・・・」このとき、鉛がズンと伸し掛かってきたように、身体が重くなったのを覚えている。
男なら誰だって分かるだろうが、いい歳をした男の体臭というのは、女性のそれとは酷く違うもんだ。嗅覚は人間の感覚器官の中でももっとも慣れやすいと言うが、自分でさえ感知できるほどだということは、今の私はよっぽどのニオイを周囲に振り撒いているということになる。
神聖な昇格試験の場。荒れた生活を送る私の所為で、団員を詰所から遠ざけるようなことがあってはならない。
私は、いつか来たる団員のためにも、漸く面倒な洗濯作業へ取り掛かることにしたのだ。
溜まりに溜まった洗濯物を風呂敷に詰め込み、詰所を出発する。
飲み水を調達する場合、当時はゲルドキャニオン馬宿の井戸で世話になっていた。今は閉業してしまっているが、あすこは砂漠の手前ということもあって、常に人で賑わう人気の馬宿だった。
しかし、イーガの目立つ装束を、民間人の前で堂々と洗うわけにもいかないだろう。仕様がないので、往復で半日かかるゲルドキャニオン入口、ヒメガミ川の水を引く井戸で洗濯をすることにした。
溜めに溜めた汚れものを洗うのは、私が想像していた以上に重労働だった。石鹸を泡立て、揉み洗いをして水ですすぐ。アジトに居た頃は専用の桶やら板やらがあるのを見たことがあるが、如何せん手元にはそういった道具類が一切無い。慣れない作業にモタつきながら、どうにかこうにか全て洗い切る頃には、昇り始めたばかりだった太陽は既に頭の真上に達していた。
濡れた装束を風呂敷に包み、じりじりとした直射日光に炙られながら帰途に着く。滲んだ汗を拭いながら、井戸で汲んでいた水を飲んだ。
美味かった。冷たい水が筋になって身体を通っていく感覚に、ああ、これが生きるってことだよなと、なぜかこの時強く思ったものだ。
干す場所は少し迷ったが、幹部詰所の最奥に決まった。
本当ならば太陽の元、風に靡かれた方が気持ち良く乾いてくれるだろうとは分かっている。しかし、装束はイーガの誇りであると同時に、団員の証である最たるものだ。誰からも見える場所へ堂々と掲げては、せっかく人目につかない場所を選って陣取っているというのに、元も子もないだろう。
壁際に木の棒をたてかけ、装束の袖にロープを通し、簡易的な干し場を作ることに成功した。
狭い岩戸の中が、一度に湿気た空間に変わる。石鹸のニオイと、雨が上がった後の地面みたいなにおいが混ざり合っている。
ただ、そんなじっとりとした空気とは裏腹に、私の胸は一仕事やり切った達成感に満ちていた。ロープからぶらさがる濡れた装束が、しゃんと背を伸ばし、誇らし気に胸を張っているようにも見えた。
しかし、そんな心地よい疲労感に包まれていたのも刹那のことだ。私は、この後すぐに、自らの見通しの甘さを突きつけられることになる。
その日も幹部候補生はやってこず、手持無沙汰にトレーニングへ励んでいた私は、日が落ちてから洗濯ものを取り込むことにした。
アジトではいつも、朝方に深穴の間へ洗濯ものを干し、コーガ様が休息なさる昼過ぎに合わせて取り入れていた。この慣例に倣ってみたのだ。気持ち良さそうにハタハタと揺らめく赤い衣類を頭の中に思い浮かべながら、当然乾いているだろうと期待を込めて。
奥の部屋は、相変わらず雨上がりのにおいと湿気に満ちていた。構わずに洗濯ものへ近づく。と、私はそこで違和感を覚えた。
干された装束の真下に、水滴が弾けたような水染みがある。
え、と思って洗濯ものをひっつかむと、その拍子に水が滴って私の太ももを冷たく濡らした。おわ、と思わず避けたがなんとも情けない。
他のものにもひとつずつ触れていくが、そのどれもが、ロープにかけたときと同じくらいに濡れたままだった。
干しているのになぜ? 頭にそればかりが巡った。
時間が足りなかったのか、暖かさが足りなかったのか。確かに昼過ぎに干してから日の入りまでたったの数時間。これで乾ききっていると判断したのは、些か時期尚早だったのかもしれない。
とりあえず様子を見るつもりで、その日は湿気た部屋の中で寝ることにした。
しかし、知っているだろうか?濡れたものは、風も日光もない場所では乾かないものなのだそうだ。
お察しの事だとは思うが、起きがけに触れた装束は、きっちりびしょびしょのままだった。
どうやらこのままでは乾かないらしい、と想定外の事実に薄々気付き始めたのはこの時だ。
目算が外れた。洗濯したばかりの装束と、今着ている分を交換するつもりだったのに。
それに他の問題もある。今この瞬間、カビでも生えそうなほど湿度が高い。敷布団にさえ湿気が移ったのか、今朝方はじっとりとした布の感触に寝苦しさを覚えるほどだった。空気の入れ替えが容易でない詰所の構造上、寝泊りに使っている部屋でカビだけは避けたい。
おそらく、ゲルドの赫々とした太陽の下に晒しておけば、ものの一時間ほどで薄い生地の装束は乾くだろう。しかしひらひらと風に靡く赤は、まるで旗のような目印となって人目を集めるに違いない。
団員たちにすら詳細な場所を伝えてないというのに、まさか「ここはイーガの陣地です」とアピールの真似事をするなぞ論外だ。
「・・・・・・まいったな」
良い案も浮かばず、濡れたままロープにしがみつく数着の装束を見上げていると、自然と独り言が口からついて出た。
このまま阿呆のように惚けていても仕方ないので、一旦洗濯ものは頭の隅に置いておく。
せめて風が通ることを願って扉を開け放ち、日課の作業を先に終わらせることにした。
玄関に降り積もった砂塵の掃き掃除、朝餉のツルギバナナ、風斬り刀での素振り。とはいえどうしても、チラつくのは装束のことだ。一段落がつく度に触れてみるが、濡れ具合は変わらない。
つきあたりの部屋にまで風を通すのは、さすがに無理があるのだろうか。せめて広間に干した方が、まだ乾く余地があるのだろうか。
何をしていても湿った赤と灰色が頭に居座っているが、妙案は浮かばない。まさかこんなくだらないことで悩むことになろうとは。
誰も来ない洞穴の中、ロープに吊られる洗濯物を眺めながら、昼餉の乾燥肉を齧った。
ぼんやりと考えたのは、数十年を過ごしたアジトでの生活だ。
飯時や床入り前、休みの日に同輩と親睦を深め合う日々。集団生活として飯にも洗濯にも困ることはなく、あすこでの生活は驚くほど完成されたものだったのだと痛み入る。
諜報の部署にいた頃は、外回り任務で孤独に過ごすことが多かった。野のものを腹に入れ、川での水浴びで汚れを落とす。数週間であればそれも全く問題がなく、つまるところ、詰所での勤務はそれと大差がないものだと考えていた。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。全くの別物じゃないか。
地に根を生やしてそこで生きるというのが、どれほど体力が必要なのか。そして整えねばならないことなのか。自分はあの谷間にしっかりと根ざしていた一人なのだと今更ながらに痛感する。
しかし、今となってはアジトでなく、ここが生活の基盤だ。誰にも頼らずに土壌を整え、根を生やし、幹部試験という花を咲かし、実を為さねばならない。
相変わらず、幹部詰所の扉はシンと黙ったままだった。候補生の来訪は0。詰所に異動となってから顔を合わせた人物と言えば、酔狂にも差し入れを持ってきたあの女団員ただ一人だけだ。
それも数日前の話なのだから、ここでの人の会わなさときたら、僻地と名高いアッカレを訪れたときのことを思い出す。
コーガ様より拝命されたこの幹部昇格試験という業務、私はなんとしてもイーガ内にて確立させねばならないのに。
・・・・・・ただ、今は洗濯ものだ。目の前に立ちはだかるこの壁を、まずはどうにか越えねばなるまい。
はぁ。思わずため息が漏れた。
じと、と肌に纏わりつく湿気のせいで、心の中にまでカビが生えたみたいだ。一旦自分自身に風を通した方が良いのかもしれない。
私は咀嚼を続けていた固い肉を、水で無理やりに飲み下す。
少し、外に出よう。狩り用に使っている残心の小刀を片手に、広間へ抜けた。
その瞬間、私は、自分が如何に惚けていたかを自覚することになった。
ざり、ざり、ざり────砂地を、足裏で擦る音。気のせいではなく、確かに聞こえる。
坑道の奥からだった。微かな気配と共に、確かに何者かがこちらへ近づいてくる。
ぴっと緊張感が身体を強張らせる。私はすかさず壁際に寄り、小刀に手をかけた。
団員・・・・・・ではない?団員ならば、隠密の輩として気配や足音を悟らせるような行動はしないはず。
暗がりの奥に陰るそれは、むしろわざとらしく足音を立ててこちらに近づいてくる。まるで洞穴の奥に潜む私の動きを試しでもしているかのように。
面倒な事になった。さすがに扉を開け放したまま部屋の奥に引っ込むべきではなかった。自らの采配が失敗だったと脳裏をよぎり、じわりと手汗が滲む。
ざり、ざり。極間近まで気配が近づいてきて、比例するように自らの拍動も大きく感じられた。
こうまで身体の制御を強いられるのは久しぶりだ。息を殺し、刀の柄を逆手に握りしめる。できれば打ち合いになるようなことは避けたい、が。
ぬっ、と坑道の暗がりから、つま先が現れた瞬間。先手必勝とばかり、私は低く屈んだ状態から「止まれ」と、小刀の峰を振り上げた。
首筋に添えたのは、これ以上の侵入を拒む一つのラインだ。「ひ」と息を飲む音。利口にもぴたりと立ち止まった侵入者が、部屋を満たす薄ぼんやりとした灯りに浮かび上がる。
赤い足袋。布帯で巻かれた鉄の荊の足。トレードマークでもある一つ目の面・・・・・・。私は指先に込めた力を緩めた。なんのことはない、私自身の同輩だ。張りつめていた背筋が、一気に抜け落ちるようだった。しかも、見間違いでなければこいつは。
「・・・・・・貴様は、あのときの」
以前、差し入れを持ってきた団員だった。頭の先から枝垂れる艶やかな長髪に、確かに見覚えがあった。
「えっと、お疲れ様です、幹部さん」と控えめに紡ぐ彼女の喉元から、刀の峰をゆっくりと引き下げる。
それから、額に手を当ててわざとらしくため息を吐いた。一度は遠ざけた彼女と、再び相まみえることになった理由が分からない。
「以前にもここへ来た団員だな?もう来るなと伝えたはずだが」
「えっと・・・・・・今回は用事があって」
「用事だったとして、何故勝手に入ってくるんだ。戸の前で呼ぶとか、いくらでもやりようがあっただろう」
「すみません、呼んだのですが、お返事がなくて・・・・・・。戸が開いたままだったので、何かあったかと思って、それで」
「・・・・・・」
確かに、ここが何の施設かを知っている人間で、閉められているべき扉が開け放たれているとあらば、気にかかって当然かもしれない。そして声をかけても反応がなければ、様子を伺おうという考えに及んでもおかしいことじゃない。
つまり、この事態を引き起こしたのは、私自身の所為。・・・・・・なのかもしれない。
いやだとしてもだ。どうにも素直に彼女の言葉を認める気になれなかった。「あまり何度も来られても困るんだが」と意図して冷たく突き放すと、彼女は「すみません・・・・・・」と小さく俯く。さらりと零れる髪の毛が影となり、眩いほどの白面を後悔で包み込む。
既視感のある光景に、前回の轍が蘇る。この態度は良くない。これではまた、彼女に八つ当たりをしているだけだ。
「ん、んん」と咳ばらいをしてから、彼女の影った仮面を横目で見下ろした。
「それで・・・・・・用事、というのは」
「あ、はい、えっと・・・・・・前回お渡しした籠を、返していただこうと思って」
「・・・・・・籠?」
「おにぎりを入れてあった、籐の籠です。捨ててなかったら、の話なのですが」
彼女の言葉を反芻し、そこでハッとなった。握り飯がそっと詰め込まれていた籐の籠だ。いつか受験者が来た時にでも持って帰ってもらえば良いと、奥の部屋にしまいこんである。
もしや、彼女の私物だったのか? 今の今まで、イーガで使っている資材の一部だと思い込んでいた。
「あ、あぁ、あれか」と歯切れ悪くぼやく。一心に向けられるイーガの瞳に後ろめたさを覗かれてる気になって、私は逃げるように「暫し待ってなさい、持ってくるから」と踵を返した。深くお辞儀する彼女を残し、大股で奥の扉を開けた。
大した物資があるわけでも無いが、洗濯部屋と化した物置部屋は随分とごちゃついている。バナナの箱に、装束の入っていた箱、食料を詰め込んでいる箱・・・・・・その上に、例の籠がそっと置いてあった。
繊細に編まれた籐の籠は、持ち手が一つついたピクニックバスケットだ。イーガにしては妙に洒落てるなぁと思ったものだが、まさか彼女本人のものだとは。
ここ数日はすっかり視界に入っていなかったが、どうやら壊れたり汚れたりということはなさそうだ。押し付けられた差し入れだったとしても、さすがに他人様の持ち物をぞんざいにしては申し訳がたたない。
ギィ、と木の扉を開けて広間に戻ると、彼女は先ほどと同様、直立不動のまま待っていた。
よくよく考えてみれば、この詰所に私以外の人間が存在する初めての瞬間だ。だだっ広い空間に立ち尽くす、イーガの構成員。ほの明るい蝋燭に照らされる白面と、誇りともいえる我らが血の装束、そして足下から背中に伸びていく確かな影。
その所在なさげな立ち姿といい、受験者が来たらこんな感じなのか。はたと立ち止まって瞼裏に焼きつけ、それから彼女の元へとずんずん歩み戻った。
微かに首を傾げ「なにか・・・・・・」と口を開こうとした彼女。それを半ば遮るように、私は籐の籠を突き出してみせる。
「これだな? あの時はちょうど備蓄がなくなっていたので助かった。礼を言う」
「良かったです。押し付けてしまったから、大丈夫だったかなと心配で・・・・・・。でもお役に立てたなら何よりです」
「しかし、もうこれっきりにしてくれ。始まったばかりの部署でまだ整っていない。そう何度も来られるとリズムが崩れる」
「あ、えっと、じゃあ・・・・・・せめて今回だけでも、これを・・・・・・」
渡した傍から似たような籠を差し出してきて辟易した。それも前回より随分大きい。
面下ではっきりと眉間に皺を寄せて「差し入れはもうよしてくれと言ったろう」と鋭く言えば、負けじと彼女の白い面が、強い光をはねっ返してくる。
「でも、先ほど備蓄がなかったから助かったと仰いました。あって困るものでは、ないのではないでしょうか?」
「屁理屈を言うんじゃない。結果論だ、それは」
「あと、今回は食べ物だけじゃなくて、違うものも持ってきていて・・・・・・」
「違うもの?」
「はい、これです」
砂塵除けの赤布を取り払うと、その下から出てきたのは前回と同じような葉っぱの包みが3つほど。
それに、きれいに畳まれた赤い布と灰色の布。
何十年とイーガに従事する私が見間違うはずもなく、それは最近悩みの種となっていた、イーガの装束だった。
「その、洞窟の中ではお洗濯とか、大変なのではないかなと思いまして。良かったら・・・・・・」
持ち手を握る彼女の指先に、ぎゅっと力が込められたのが分かる。言葉が尻すぼみで消えていって、このたった二回会う間に強情さが見え隠れしていた人間と、別人にでもなってしまったかのようだった。
いやしかし、今は彼女の不可思議さにかまけている場合ではない。正直、この装束の存在に、目を剥いてしまった。
二日に渡って私を苛んでいた洗濯・・・・・・もといイーガの装束。まさかここまで痒いところに手の届くことがあるだろうか?タイミングが良すぎないか?もしや見られでもしていたのでは・・・・・・。などとバカげた発想を一瞬でも頭を掠めるほど、彼女の手に収まるそれは、頭の中に巣食っていた靄を掻き消していく。
差し入れはいらない、と言った手前、そう易々と受け取るのは憚られた。しかし、このまま突き返すのこそ、この状況においてはおかしな話だ。
結局、彼女が差し出すそれに、黙って手を伸ばした。受け取って、前回よりずっしりとした重さを感じ、「恩に着る」と呟く。
なんとまぁ、滑稽だろう。彼女も構成員という立場に憚らず、「ふふ」と口元に手を当てた。
「洞窟の中って全く乾かないから、大丈夫かなって気になってたんです。いつまでも濡れたままじゃ、変なにおいもしてくるし」
「そ・・・・・・そうなのか」
「はい。私、ちょっと前まで洗濯番で・・・・・・。一度怒られたことがあります。こんなに臭くて隠密ができるかーって。外干ししたくても詰所は街道沿いだし、気になってて・・・・・・」
「・・・・・・」
「なので、お洗濯ものがあればこのまま受け取りますよ。アジトに持って帰って、向こうで洗いますから」
正直、願ってもない申し出で、二つ返事を返しそうになったのは事実だ。すぐそこまで出掛かった言葉を寸でのところで飲み込めたのは、私が矜持ある幹部役だった、と言うだけの話で。
今の今まで彼女からの差し入れを渋っていた男が、直面していた悩みを解決できるというだけで手の平返しをして良いものだろうか。彼女にも失礼だし、私自身の沽券にもかかわる。
頭の中でその二つを天秤にかけ、ぐらぐら揺れた。うーんと唸りながら腕を組むと、彼女が微かに俯いてみせる。
「・・・・・・すみません、余計なお世話でしたよね・・・・・・。そうかなって、思っただけで、えっと・・・・・・私のことはあまり気になさらないでください」
「いやっ、そうじゃない。その申し出は正直・・・・・・助かる、というか、なんというか」
「そう・・・・・・なのですか?」
「あー、うむ。なんだ・・・・・・」
後頭部を掻きながら、奥の扉にチラリと視線をやった。その向こう側に広がる空間では、今も湿った装束がプラプラとロープに掴まって揺れているのだ。
洞窟の中ではいくら干しても乾かないと分かった以上、あれらをそのままにしておく意味はない。そして干す場所もない。・・・・・・とくれば、私ができるのは、幹部という矜持を守ることじゃない。
ひとつ咳ばらいをして、彼女に向き合った。
あー・・・・・・と言い淀む。彼女はそれでも、綺麗な立ち姿で、私を一心に見つめてくれている。
純真だからこその強情っぱりは若さだなぁ。そんな眩さを直視していられなくて、最後にちらりと視線を背けた。
「・・・・・・頼んでも良いだろうか、乾かずに困っていたところだったんだ」
ぱっと白い面が持ち上がる。「喜んで!」と言葉通りに喜色を滲ませた彼女を、まるで花が綻ぶような空気が取り巻いていた。
その場に彼女を待たせ、改めて湿気に満ちた奥の部屋へ戻った。
連なって揺れる装束。それらを見上げていると、もはや首のない亡霊か何かに見えてくる。人型のぼやけた影が天井にへばりついているのも、増してこの部屋に憑りつく地縛霊か何かのように思えた。私が洗濯に苛まれているだけの話だが。
触ってみると、やはりしっとりと濡れたままだ。ついでに、クン、とにおいを嗅ぐと、なるほど・・・・・・鍛錬で掻いた汗を煮詰めたような悪臭があった。確かにこれでは、気配を消すことこそが基礎である隠密業務など、まともにおこなえないに違いない。
数時間かけて洗濯をしにいった結果がこれとはなんとも。この虚しさをなにに例えれば良いのか分からず、ただ大きく息が漏れた。
それから洗濯ものを手早く取り込み、簡単に畳んで風呂敷にまとめた。さきほど彼女から受け取った籠の中身と入れ替えて、扉を抜ける。
「すまない、待たせてしまって」と恐縮すると、彼女からは「いいえ!全然!」と朗らかな声が返ってきた。
「未だ湿気たままで、少し重いかもしれない。すまないが、・・・・・・これを頼む」
「はい!お任せください!薄い服ですから重さは気になりません!」
「それと・・・・・・本当にもうこれ以上は良いから。ここでの生活を整えることも私の業務のひとつだ。衣食住で、あまり他人を頼るわけにいかない」
「でも、そうしたら洗濯ものは」
「・・・・・・ここいらは日も強いし、一時間もあれば乾くはずだ。ある程度割り切って、今度から外に干すようにする」
砂塵の凪ぐ朝一で洗濯し、干している間に玄関掃除と鍛錬をおこなう。もし民間人に見られそうであれば、その瞬間に洗濯物を取り込む・・・・・・。苦し紛れだが、おそらくそれが最善の策なのだろう。
「それよりもだ、少し聞きたいことがある。良いだろうか」
彼女はまだ何か言いたげだったが、欠陥をつつかれる前に言葉を重ねる。せっかく人が来たのだ。すぐさま追い返そうとしたことは申し訳ないが、外の様子をもう少し聞きたかった。
彼女は素直にも「はい!なんなりと!」と背筋を伸ばした。私の指示には従わないくせに、なぜかこういうときは健気に従順な様子を見せるのだからおかしな娘だ。仮面の奥で思わず漏れた笑みに、彼女は気付かなかったと願いたい。
「まずは、そうだな・・・・・・以前も聞いたが、貴様のことを訊ねておきたい。先ほど以前は洗濯番だったと言ったが、今はどこの班の所属だ?」
「今は諜報所属です。諜報の幹部さんから指示された場所へ赴き、団員が得た情報をアジトへ持ち帰る伝令役に従事しています」
「なるほど、諜報か・・・・・・。以前も伝えた通り、ここは幹部昇格試験を実施する受付の場だ。新たに始まった制度だが、諜報の幹部からはどのように聞いている?」
そうですね・・・・・・と言いながら、彼女は暫し思い出すように顎に手を当てた。
「私が諜報の幹部殿から伺ったのは、実力がある者は自ら志願して試験を受けに行っても良いことと、会場はゲルドキャニオンのどこかにあるということ・・・・・・それくらい、でしょうか?」
事前に聞いていた通りの内容だ。伝え漏れているわけでもなく、やはり試験の実施は、団員にしっかりと通達されているらしい。
他の団員の様子がどうなのか、団員同士で話題に出るかなども聞きたかったが、それは握り拳の中で諫めることにした。
あまり縋るように構成員へ聞きただしては、この制度の不具合を悟られることになる。いくら私を微かに困らせる相手だったとして、そこまでの不安を感じさせて良いわけでもないだろう。
そうか、と顎に手を当ててから、ふと「そういえば」と頭に上ったことを口にする。
「・・・・・・貴様は、よくこの場所が分かったな。誰ぞから聞いたのか」
この当時、幹部詰所は雄大なゲルドキャニオンと完全に同化し、分かりやすい目印などは一切置かれていなかった。
扉の前にはイーガのカエル像が鎮座してはいたものの、街道が整備されていたわけでもない。黄土の砂塵に紛れる木の扉は、遠目であれば判別も不可能なほどだったかと思う。
彼女は、その途端に微かに俯いた。
「・・・・・・この辺りはよく通るものですから。私は試験を受けるような実力には遠く及ばないのですが、その・・・・・・せめて然るべき時のために、何か出来ないかなと思って」
唐突に居住まい悪そうに肩を縮ませ、籠を掴む指先を弄ばせる。もごもごと急に怪しくなった呂律に、私は内心で「なるほどなぁ」と小さな納得を得ていた。
幹部役に興味はあれど、自らの力が足りないという自覚がある。その時が来る日のために現状で出来ることとして、監督である私に近づいた、と。偵察が主要業務である諜報の人間らしいやり方だ。なかなかに筋の通った、やる気のある団員じゃないか。
この世を上手くわたっていくためには、一にも二にもまず情報だ。彼女はイーガの理が身に付いている。そのターゲットとなったのが私という一点においてはやや思うところはあるものの、目的のための行動であれば、一人の幹部役としてしっかりと評価してやらねばならない、かもしれない。
「食事のことといい、装束のことといい、貴様はよく観察し、見ているんだな」
装束のことなぞ、私の勤務状況と詰所の自然環境をつぶさに観察せねば、想起できないことだったろう。その観察眼は、素直に見事だと褒めざるを得ない。
しかし、彼女からの反応は思ったより鈍かった。それは・・・・・・と、一段と彼女が声を潜ませる。素直な褒め言葉に返ってくる言葉としては、いささか弱弱しい声──と思った瞬間、陰った仮面がパッと持ち上がる。
彼女は坑道の方を勢いよく振り返り、「いけない!」と慌てたような鋭い声を上げた。
「すみません幹部殿!私そろそろ行かないと・・・・・・!
「え?あ、あぁ、こちらこそすまない、引き留めてしまって」
「いえっ、私の方こそ急に押しかけて、すみませんでした・・・・・・!」
深々と髪を振りながら頭を下げ、そのままぱたぱたと洞穴の坂を上がっていく。来た時より随分荷物を増やし、それらを肩から持ち上げてえっちらおっちら歩く彼女。
胸の内から罪悪感が立ち昇り、思わず「そこまで見送っていこう」と彼女の後を追っていく。
玄関扉を開くと、真上にあったはずの太陽はすっかり崖の奥へと姿を消していた。辺りは陰間が広がっているものの、それでもじわじわとした熱気を感じるのは、ゲルドの飛輪がそうさせるのか。
籠へ無理に詰めた風呂敷・・・・・・例の濡れた装束を持つ彼女に「なあ」と声を掛けると、黒髪がくるりと振り返る。
「なんと言えば良いか・・・・・・装束のこと、本当に助かった。礼を言う」
「良いんです。幹部殿のお手伝いが出来て、とっても嬉しいです」
「しかし、再三言うが、もうこれっきりで良いから。何度も来られると、業務に差支えが出る。貴様は貴様の業務に集中してくれ。・・・・・・大変なのは、お互い様なのだから」
「・・・・・・お気遣い、ありがとうございます」
気遣い、というつもりじゃなかったが、そう受け取られても仕方ないことを言った。どういえば彼女に伝わるかもう一度考え直したが、徒労に終わりそうな気がしてそこでやめた。
黒髪を枝垂れさせるように、彼女がまた深々と頭を下げる。景風に靡くそれは、相変わらず艶やかだった。
「では」と彼女が踵を返すまで視線を残し、それから私も、穴倉の中へと戻った。
暗い坑道を降りる間、反芻していたのは彼女と交わした言葉の数々だ。
諜報の任に就く娘。いつか幹部に、と望む若者が、自らの最善を尽くすのは良いことだ。監督役に差し入れをしてまで内情を知ろうとするのも、情報の取り扱いが上手い諜報班らしくて悪くない。
最後の最後まで、鋭い言葉でつきっ返してしまったな。小さな後ろめたさがあるのは何故だろう。とはいえ彼女は、またここへやって来るような気がした。そういう強情さのある人間だった。そして私は、その強情さが存外、嫌いではないなと思ってしまっていた。
また一人になったがらんどうの詰所。ここに、団員が試験を受けにやってくるのはいつになるだろう。彼女が広間に立っていた残像が、未だ見えない候補生の来訪と重なる。そんなところを想像するだけで、なんだか胸が膨らむようだった。
いつまでもじめじめしていられない。コーガ様のため、しっかりと自らができることを為していかねば。
・・・・・・などと感傷に浸ってもいられない。気持ちを新たにした私は、汚れた服を着替えるために、いそいそ奥の部屋へと引っ込んでいった。