ゆき晴らし 春告げの君

 さすがにこれは断られるかもしれない。未だ手の中で跳ねるハイラルバスを見て、菜の花色の髪を濡らした彼はそう思った。
 時はウメタケ台地から覗き始めた太陽が、見えるもの全ての影を長く伸ばす時間帯。凍った大気の粒がキラキラ瞬いて綺麗だが、リトの村で購入した防寒服越しにも、凍てつくような空気が沁みてくる。
 なにもこんな寒い中、魚が泳いでいたからと言って川に飛び込むんじゃなかった。良い土産になるだろうと捕まえた瞬間は気が高ぶったものの、身体の冷えは気を滅入らせる。朝早い時間に予兆もなく押しかけられ、未だ鱗を水気で輝かせる魚を渡されたとして、あの人は喜んでくれるだろうか。
 くしゅっ、とくしゃみをひとつ。その瞬間に毛虫みたいな寒さが背中を走っていって、鼻を擦りながら自らを抱きしめる。
 剣士として旅をしている彼は無茶をすることも多いが、後悔はいつだって先に立たないものなのだ。いつも目の当たりにしてから「もう少しよく考えれば良かった」と自分を戒めることになる。

 元来乾燥地帯であるゲルド地方に川が出来たのは、数か月前に起こった天変地異に原因があった。地殻変動で現れたターフェア高地の大きな洞穴。たっぷりと湛えられていた雪解け水は滝となって滑り落ち、ナボール山の麓まで続く川を作り上げている。
 空から落ちてきた遺跡片の所為で水場に近づくこともままならないが、カラカラに乾いたゲルドキャニオンが滝と川と青草で春めいた景勝地になるなんて、今まで誰が予想しただろう。そしてその川に丸々と太った魚が泳ぎだすなんて、ハイラルの地殻を作り上げたというオルディンでさえ考えなかったに違いない。

 君たちはどこから来たんだ、と朝日に瞬く魚に疑わしい視線を落とす。魚はもちろん何も答えず、素知らぬ顔で口をぱくぱくさせて、呼吸する素振りを見せるだけだ。
 びゅう、と一陣の突風が剣士と魚を襲う。水気を帯びた鱗が砂まみれになったのを見て、彼は慌てて歩きだした。

 暫く歩いて行くと、微かに轟々という音を鼓膜が捉えた。緩やかに傾斜のついた丘から見え始めたのは、遠目にも陽に煌めいて見える件の滝だ。
 ハイラル平原から歩き、漸くここまで来られた。あとはウメタケ高地から繋がる吹き曝しの架け橋を渡れば、目的地に到着する。

 橋を渡る、その前に──。剣士は岩の影に足を向け、息を吐きながら埃まみれの防寒服に手をかけた。
 これから向かう場所・・・・・・もっと言えば、これから会う人のための儀式みたいなものだ。素肌をひとつも晒さない彼の集団の団員は、こぞってこの装束に身を包む。身体にぴたりと纏う薄地の布は赤く、象徴的な目の意匠が際立つ不気味な出で立ち。それは王家に仇なし、国家転覆をひた狙うハイラルの暗部、通称イーガ団の風貌である。
 装束に身を包み、風塵に流していた菜の花色の髪の毛を頭上にまとめた剣士は、最後に彼らのシンボルともいえる仮面を手に取る。涙を逆さに掲げた一つ目は、イーガの民が胸に持つ怒りの象徴だ。その一つ目に、お前の行動を見つめているぞと厳しく睨まれている気がする。
 ひとしきり見つめ合った後、剣士はそれを静かに身に着けた。
 強くなりつつある日差しの下を、改めて歩み出す。容赦なく背中を焼き始めた太陽の熱は、そろそろ力が抜け始めた魚をもしかすると焼くだろう。網の目のついた焼き魚にでもなれば良いが、そんなわけはない。
 急げや急げと自らを心の中で鼓舞しながら、山谷風の吹きすさぶ橋を駆け抜け、ターフェア高地の滝の裏手に滑り込んだ。

 とめどない滝がカーテンのように空間を切り取る崖間は、火照った身体に水の飛沫が飛んできて心地良い。崖を支える石柱からの日差しが随分柔らかく、まるで水中から見上げる水面のように影が踊り続けている。厳しいゲルドの日なたとは別世界だ。
 砂漠の中で見つけたオアシスともいえる陰間。その静けさの中で男が一人、膝をついて座り込んでいる。靴底と岩地の擦れる物音へ吸い寄せられるように顔を上げた先に、一つ目の視線とぶつかった。
 男は、イーガの赤い装束に身を包んでいた。座っていて尚隠せない引き締まった巨躯と、構成員には配給されないフードが彼の地位を雄弁に語っている。中でも確固たる実力を持つ剣客。選りすぐりの精鋭でもあるイーガの幹部役だ。
 先ほど剣士を睨みつけた仮面の瞳とは違い、何か気圧されるような空気がある。冷たい刃先が添えられたように、背中を這いあがってきたのはひやりとした後ろめたさ。装束で隠したつもりの全てを、見られでもしていそうな。
 ゆらりと幹部が立ち上がる。隙ひとつない泰然とした動作に息を呑み、それから呼応するように、剣士も一歩前へ進んだ。

「貴様か!久しぶりじゃないか、元気にしてたか!」
 
 滝の轟音に負けじと張り上げられた低音。仮面の隙間から飛び出たそれは、ぱっと咲き綻んだ野花みたいに無邪気だった。
 隠密の輩とは思えないような喜色に富んだ様子は、いつものことながら拍子抜けする。まるで暫くぶりに帰ってきた同村の村人。いや実際、彼にとっては志を同じにする士なのだから、あながち間違ってはいないのだろうが。
 自然と強張っていた胸の筋肉が、春のにおいにホッと緩む気配がした。

「ん・・・・・・それはなんだ」

 幹部は、右手にひっつかむ土産を「それだ、それ」と指さしてくる。既にくったりと沈黙する魚は疲労の極限なのか、自身が呼ばれてもピクリとも返事しない。
 代わりに剣士が言葉なくそれを目線の高さに持ち上げる。幹部は顎に手を当て、しげしげと興味深そうに、既にかさついた鱗へ前のめりになった。

「見事なハイラルバスだな。もしかしてそこの川で採ったのか?春からが旬だしな、よく肥えてて立派なもんだ」
「・・・・・・」
「なに、もしかして、私にくれるのか?」

 頷きながら魚を突き出すと、幹部の白い面へ春光が射し込む。「いつもすまないな、恩に着る!」といった声は本当に嬉しそうだった。引き取った魚を一度高く掲げて、彼は辛うじて光の残る魚眼を覗き込んだ。
 興味のままに行動するのが、まるで子供みたいだ。しかし、その素直さに脇腹をくすぐられるようでこそばゆい。美味そうだなぁと声を咲かせる幹部の背後へ、剣士は視線を滑らせた。
 無骨な岩崖へ奇妙に生えた木の扉と、それを守るように置かれた二体のカエル像。元はシーカー族にまつわる道祖神だが、その顔は薄汚れた一つ目の布で覆われている。
 イーガ団はこの道祖神をもって他を排斥し、ここは我々の領地だと証しているわけだ。
 幹部は先ほどまで、その石像の前で屈んでいた。魚を支える左手には黒くなった布巾が握られ、膝には泥が付着している。今まさに、同志たる道祖神を磨き上げていたらしい。なんとも律儀な人だといつものことながら感心する。

「そうだ。貴様が良ければ茶を奢ろう。もう少しすれば暑くなるし、ここで準備していくと良い」

 きぃ、と音を軋ませる木の扉の先へ招待される。その先にはぽっかりと口を開けたような暗闇。まるで剣士の腹の内を知っていて、飲み込みもうとでもしているようだ。
 しかし逡巡は無い。元よりそのつもりだったのだ。剣士はこくりと小さく頷き、扉を潜った。
 大人二人が並べるかどうかという狭さの岩肌を眺める。相変わらず窮屈な坑道で、しかし四方八方から染み出すひやりとした空気は、日差しで焼けた肌を冷ましてくれる。
 すぅっ、と冷ややかな空気を肺の奥に満たすと、暫くして扉の締まるカタンという音が、装束の耳飾りを揺らしていった。


 ターフェア高地から流れる滝の裏。古代ゲルドの遺跡を掘り当てたイーガ団は、ひとつの支点としてこの洞穴を占拠している。そこでは、イーガの幹部を輩出するための昇格試験が執り行われていた。
 偶然に発見された地底を開拓するため、イーガは飛躍的に団員数を伸ばしている。上に立つ幹部役を実力者の中から選出するために、最近になって始まった制度だということだった。

 剣士が魚を渡した男は、試験の監督を一人で担っている幹部役。粗忽ものの多い武闘派集団の中で、そうは思えないまろやかさを感じさせる男だ。会う度に久しぶりの邂逅を喜んでくれるのも、別の本懐を抱く剣士にとってはどこか面映ゆい。
 幹部は幹部で、剣士の実力とひたむきな姿勢を気に入っているらしい。訪れる度に喜ぶ素振りを見せ、茶を振る舞う代わりに旅の話を聞きたがる。
 砂漠へ抜けるためには、街道沿いのここを通るしか他にない。
 過酷な旅路のついでに、どこかホッと和むような彼の元へ寄る。そして差し入れを渡し、旅の話をするのが剣士の定番となっていた。

「・・・・・・なるほど、ウオトリー村は、そんなことになっていたのか」

 ボスボコブリン率いる海賊一派が、リゾート地として名高いウオトリー村を襲撃した事件。その騒動に巻き込まれて海賊を払う手助けをしたのだと、剣士は淡々と幹部に報告した。
 村が解放された話は新聞にも掲載され、ハイラル国民の多くが知るところとなっている。諜報に長けたイーガであれば当然知っているかと思ったが、とはいえ目の前の幹部は「なるほどなぁ」と神妙に繰り返すのだから初耳であったらしい。幹部役なのに?と、耳を疑ってしまった。
 彼は新聞も読んでいなければ、定期連絡のみでしか外の情報を知ることができないのだという。それで隠密集団の幹部が務まるのだろうか。他人事ながら呆れてしまう。

 とはいえ、彼の浮世離れした反応は、環境を考えれば仕方ないとも思えた。試験の監督を一人で請け負っている分、休みも勝手に取れないほど不自由な身なのだとか。いつ何時団員がやってくるか分からないために詰所へ常駐せねばならない。何日も人が来ないことがザラであるため、毎日退屈で暇を持て余しているのだと、剣士は度々彼から愚痴を聞かされて知っていた。
 
「貴様の実力あってこそのことだろうが、何体ものマモノをほとんど一人でとは・・・・・・。いやはや恐れ入る。あの村にはバナナが自生しているしな、村を救ったのはイーガにとっても大きな益になろうよ。さすが試験を突破した幹部なだけある。大したものだ」

 とろとろと揺れる蝋の灯りの中、イーガの仮面が誇らしげにうんうんと頷く。大きな一つ目でしっかりと見据えながらあまりにはっきり褒めてくるものだから、淡泊な剣士もさすがに首筋を掻いた。
 素顔は決して見せないくせに、なぜこんなにも屈託なく心根を零すのか。きっと彼は暇を持て余し過ぎているのだ。流星の如く現れ、最短で幹部になっただけの剣士に思い入れを抱きすぎている。
 同志の素性が分からないからこそ、彼らは相手の裏の顔に気を付けるべきだろう。そんな余計な心配をしてしまうほど、目の前の男は朗らかすぎた。

 和やかな空気の折を見て、飲む機会を失っていた茶を啜る。手の平で包む間にすっかり冷めてしまったが、舌に残る苦味の後、鼻から抜けていく爽やかな草萌の香りは生きていた。
 お茶なんて久しぶりだ。ほぉ、と吐息を吐いた拍子に、思わず背中がだらりと溶けてしまう。
 剣士につられたように湯呑を傾けた幹部が、やはりふーと息吐くと同時に背中を丸めて、「ふふ」と笑った。

「このお茶、美味いだろ。カカリコの茶なんだ。ウオトリー村に行ったなら知ってるだろうか。ハテール西部の谷間にある村なんだが」

 もちろん、その村はよく知っている。剣士が言葉なく頷いて見せると、幹部は両手で包んだ湯呑をもったいぶるように撫でた。

「ここの茶が好きでなぁ。渋さの中にもコクと甘みがあるだろう?今回のはちょっと古くて申し訳なかったが・・・・・・カカリコ村に行ったら新茶を飲むと良い。全然違うから」
「・・・・・・」
「それで、その・・・もしカカリコ村に寄って茶を飲んだら、できればうちにも一つ用立ててくれると助かる。頼めるか?」

 小さく首を傾げる。うちにも?と剣士がオウム返しにすると、きまり悪そうに幹部が肩を竦めた。

「実は今回淹れたのでお茶っぱが終わってしまってな・・・・・・。こういう嗜好品は、受験しにきた団員になかなか頼めなくて・・・・・・。あ、もしくはしのび草でも良いぞ。こっちで茶に加工するから」

 ひとたび声を掛ければ下っ端を萎縮させる上役のくせをして、なんともいじらしいことを言う。そういうことならと、剣士は湯呑をその場に置いて懐を探った。
 ハイラルの各地を走り回る剣士は、沸かした湯を用い、陶で蒸らしてから頂く茶の習慣はない。なので茶っぱは持ち歩いていないのだが、薬草なら別だ。怪我はしょっちゅうなので、薬になりそうなものはなるべく採取するよう心がけている。
 取り出したのは、幹部が今しがた口にしたシノビ草。産地と言われるハテールで採ったものかどうかはもはや覚えていないが、自分が彼の茶を飲み切ってしまったのだ。もう茎や葉に水分は感じられずにカサつくばかりだが、これでもないよりマシだろう。
 幹部に差し出すと「なんと・・・・・・」と言葉を無くし、僅かにそわついて見せた。

「いいのか?私が貰っても・・・・・・。貴様が使うからこそ持っていたものではないのか?」

 言葉なくこくこくと首を縦に振れば、暫く動かなくなって、それから「恩に着る」と小さい声が返ってきた。かさついたシノビ草を引き取っていく指先が、壊れ物を扱うみたいに丁寧だった。

 ちょっとした沈黙があって、間を持たせるように湯呑に口を付け、ちびちびともったいぶって茶を舐めた。幹部といえば、傍に置いたシノビ草をじっと眺め、時折繊細な指使いで茶色くなった葉を撫でるだけだ。
 普段は饒舌に土産話を促す彼が珍しい。何か思うところがあるのだろうか、と灯りに揺れる横顔を見て頭に上る。
 本来であれば、イーガの団員と茶を囲み、談笑にふけるなんてありえない。入団したのだって、剣士にとっては偶然の産物だ。にもかかわらず自分の旅の話を聞かせ、彼からも何でもない日々の話を聞いている。
 この不思議な空気は、暗闇でのひとときは、一体なんなのだろう。彼との間に出来上がっている奇妙ななにかの名を、剣士は未だはっきりさせられないでいる。

「懐かしいな・・・・・・。過去にも貴様のような団員が居たんだ。通りかかる度に顔を出して、痒いところに手の届くような差し入れをしてくれる団員が、ずっと前に」

 だから、彼の言葉を聞き逃せなかった。警戒心もなく、更に胸の観音扉を開けようとする彼の、ぼやくような一言を。
 ずっと前に?と尋ねたのはほとんど反射的だった。彼の低い声が、遠くで聞こえる滝の音よりも耳の奥を揺らしていった。湯呑を撫でる指先が、いつになく繊細で切ない色を宿していた。彼のそんな面の表情を見るのは初めてだった。
 ふっ、と面を上げて「いや、すまない、こんな話」と取り繕う幹部に、剣士はただまっすぐに彼へ向かう。興味があります、と一言静かに促すと、幹部は一瞬返事に惑ってから、小さく「まいったな」と頭を掻いた。

「別に、面白い話じゃないぞ。それにどこにでもある話だ。それでも良いなら、まぁ・・・・・・そうだな。いつもの土産話の礼に、少し聞かせようか」

 じじ、と淡い蝋燭の灯が揺れた。橙色のそれが、幹部の大きな体躯を穏やかに包み込んでいた。
 何か遠くのものを思い出すみたいに、幹部が天井を仰ぐ。

「あれは確か、幹部昇格試験が実施されて、間もない頃の話だ」










 数年前の今頃、朝晩の厳しい寒気が漸く和らぎ始めた春先のことだった。
 地底を発見し、開拓を進めることになったイーガは過渡期を迎えていた。増えつつある団員を上手くまとめるためには、実力のある者が自らの意思で幹部を志願できる環境があった方が都合が良い。
 そこで決まったのが、幹部昇格試験だった。その初代監督として、長歴の私が、この詰所への赴任を命じられた。

 ここへ訪れたときのことは未だによく覚えている。
 あれは人目を避けた暮夜だった。崖を支える石柱から差し込む煙月のぼんやりとした光。日中の春荒れが連れてきた埃っぽさと、詰所の扉を覆う砂塵の層。被っていた頭巾でパタパタと散らすと辺りに遠慮なく広がり、ざらついた空気に喉をくすぐられて盛大に咳込んだ。
 蝋燭に火を灯して、扉の先に広がる濃い闇を照らす。たったそれだけでは奥なんて到底見えず、どこまで続くか分からない坑道が、まるで常世の入り口みたいに思えた。今までとは全く違う生活の始まり、という意味では、同じようなものだったのかもしれないが。

 洞穴の奥には既に物資が運び込まれていた。水や食べ物、着替えの装束なんかが数日分。アジトでの生活だったら炊事番や洗濯番がいるものだが、詰所では全て自分一人でしなければならない。人である以上当然の責任だが、こういうのは生活様式を整えるまでが大変だ。

 今日からここで一人。ここが、自らの居場所になる。
 何の音もない空間でじっとしていると、漸くじわじわと実感が伴ってきて胸がそわついた。

 コーガ様に従事し始めてから何十年が経つ。今でももちろんのこと、心はコーガ様にあるし、いくらでも最前線に立つ気持ちは持っている。
 しかし、最前線を担う若手幹部と相対しているとき、最近はどうも彼らの刀についていけない瞬間が増えてきていた。次の一手を振る腕が、踏み込みへの第一歩が、なぜか思う通りに動けない。
 私も歳取ったな、と感じたのは、その時が初めてだ。
 なんの武芸の嗜みもない人間が相手ならともかく、噂に聞く姫付きの剣士はおろか、ライネルなんかと対峙しても今の私では歯がたたないに違いない。隠密として肉体の粋を求められるイーガは前線からの引退が早く、本当であれば私なぞ、さっさと村に引っ込むのが筋だったろう。
 ただ、伴侶もいなければ親族ももう皆旅立ってしまった私に、イーガの隠遁村で一人過ごす選択肢は選べなかった。他の団員もそうだと思うが、綿の詰まった布団の上ではなく、できれば現場に骨を埋めたい。
 だから、コーガ様から「試験監督をやるか?」と声を掛けられた時、本当に嬉しかった。と同時に、心底ほっとした。私にもまだやれることがあると、コーガ様に背中を押されたような気がしてならなかったのだ。

 明日には試験の実施が全団員に通達される。
 今まで幹部役へ至るためには、まず現幹部からの推薦を受けなければ、コーガ様へ相談の機会が得られなかった。やる気は十分だったとしても、幹部という一枚壁がコーガ様までの道を阻む場合もあったわけだ。
 それを自らの意思で試験を受け、実力があれば誰でも直接的に彼の方を支えることができる。これがどれほど画期的なシステムで、団員に激震を走らせることか、想像しただけでも笑みが出る。
 つい思い出してしまうのは、がむしゃらに業務をこなしていた当時の自分自身だ。
 これからは、イーガを支える幹部誕生の立会人として、監督に勤しむ。なんと贅沢な境遇であろうか。それはきっと、このまま老いさばらえるしかない私ができる、精一杯の腐心に違いない。
 明日から始まるだろう詰所での業務。私は確かにこのときまで、希望を持って燃えていたのだ。




 それから、数日が経った。詰所内はもちろん玄関先の埃も掃き、奥の部屋を整理した私は、いつやってきても良いように準備万端で団員達を待っていた。
 しかし、私の期待は打ち砕かれる寸前だった。待てど暮らせど団員は誰一人としてやってこない。幹部昇格試験が始ったという通達は既に各為されているはずなのに、何かおかしい。
 責任感の強い幹部役が、まさか伝達業務を忘れているとは思えない。諜報に長けた団員たちが、詰所の場所を見つけられないわけもない。となれば、考えられることはただひとつだ。
 団員たちは昇格試験の存在を知った上で、来る気が無い。即ち幹部になる気がない、ということだった。

「・・・・・・」

 幹部試験、という新たな試みに浮ついていたのは、実のところ私だけだったのかもしれない。今さらながらに、その事実に勘づいてしまった。
 そう考えると、ここへ来た初日に感じたあの高揚感が恥ずかしくて堪らない。
 アジトでの生活は毎日が忙しかった。新人の動向を注視しながらも、自らハイラルの前線に赴く日々。詰所に異動となっただけでこんなに時間を持て余すとは思っておらず、今も忙しなく動いているだろうアジトの団員にも申し訳ない。
 幹部詰所は、イーガの将来を担う若者を輩出する場所であるはず。こんな、先の見えない獄中のような生活が始まろうとは、誰が思っていただろうか。

 じじ、と燭台の蝋燭が燃え尽きようとしている。新しいのに替えようかと灯りに視線をやるが、ゆらゆら揺れる影を見ていたら自然と瞼が落ちてきた。もう炎が消えたら消えたで、そのまま放っておけば良いような気がしてくる。
 どうせ私しか居ないのだ。イーガは物資に困っていることだし、蝋燭の節約をして貢献した方が良いのではないか。それに蝋燭ひとつくらい消えた暗がりの方が、少し眠るのにもちょうど良い。

 瞳の帳を降ろしきる直前のことだった。炎の滲む音に紛れ、こんこん、という何かを叩く音が耳の奥を揺らしていった。
 パッと頭が覚醒したついでに顔を上げる。なんだ、今の音。視線だけを左右に振りながら耳を澄ますと、またこんこん、という微かな音。
 聞き間違いじゃない。それは確かに、意思を持って中の人間を呼ぶ、扉のノック音だった。
 微睡みはたったそれだけの音で完全に潰えた。代わりに騒ぎ始めたのは、はっきりとした心臓の鼓動だった。ついに待望の新人がやってきた──いや、団員だと決まったわけではない。街道を歩く最中で崖に生えた扉が気になっただけの民間人、はたまたこの辺りに住まうボコブリンが、という可能性も0じゃない。まずは落ち着くべきだ。

 そわつく胸の内をなんとか深呼吸で鎮め、気配を殺しながら慎重に扉へ近づく。覗き穴から差し込む一条の光。木板越しにでも物音ひとつ聞かさないように、その穴をこそりと覗き込んだ。

 そこからまず見えたのは、一つ目の白い面。赤い装束に、黒い曲げ。どこからどう見ても団員だ。気配を伺うように耳をそばだてていたから全体像は見えなかったが、確かにイーガの団員だった。
 すぐさま扉に手をかけて、いや待てと思い直す。
 衝動のままに飛び出してしまっては、目の前の団員を怖がらせかねない。衣食住を宛がわれ、幹部にならずともまともな生活が適う中、始まったばかりで得体の知れない試験を受けようなんて相当の覚悟が要ったはず。私自身の振る舞いが、幹部候補生の萎縮を促すようなことがあってはならない。
 二度三度と息を吸ったり吐いたりを繰り返し、じわじわ染み出してきた汗を指先で擦り合わせた。慎重に、まずは団員が平常心になれるように。そして私の高揚を、相手へ押し付けないように。

 すっかり心身の浮つきをコントロールできたと確信をもってから、息を吸ったと同時に扉を引いた。
 筋となった光が大きくなり、人型の影を浮き上がらせる。隙間から外の風が吸い込まれてきて、それまで枝垂れていた団員の黒髪を酷く乱した。手傘をするように髪の毛を押さえた逆光の人は、私よりも随分背の低い、華奢な体躯の団員だった。
 ばち、と仮面越しに視線が重なった瞬間、団員はぴしりと背筋を伸ばしてみせる。「お疲れ様です」と呟いた声は小さかったが、音は朝露のように澄んでいた。間違いなく、やってきた団員は女性だ。

 武力や筋力が物を言う集団で、女人が幹部役を目指すなぞなかなかに珍しい。認められていないわけではなく、イーガは個人の特性を尊重する傾向がある。どうしても男と比べて筋力が劣るので、今まであまり幹部役に抜擢された例がなかったのだ。
 幹部昇格試験の実施が思わぬ果報を連れてきた。なんと殊勝な人なんだ、と感心したのも束の間、彼女が手に抱えているものが目に留まる。
 赤い布を被せた、籐の籠・・・・・・試験を受けに来た候補生にしては妙な持ち物だ。一瞬だけ心にひっかかりはしたものの、そういうこともあるだろう。彼女が来てくれた高揚感の方が勝った。

「昇格試験を受けに来た団員だな?この忙しい時期によく来た。歓迎するぞ」
「あ、えっと、・・・・・・私は」
「陽射しも強いし、試験内容は中で説明しよう。さ、入ってくれ」
「いえ、その、私・・・・・・」
「どうした、ここで説明していては誰ぞに見られる。早く中へ」
「違うんです。私っ、差し入れを持ってきたんです!」

 張り上げた声と共に、さっと差し出されたのは、大事そうに抱えていた籐の籠。「これ、良かったら・・・・・・!」と語尾の震える声で下から見上げられて、思わず目を丸くした。

「さ、差し入れ?試験を受けに来たわけじゃ・・・・・・」

 俯きがちに揺れる黒い髪の毛と、中身を砂塵から守る赤い布を交互に見やる。取っ手を持つ手はきつく握られ、支えのない腕は震えていた。
 彼女は本当に、試験を受けに来たわけではなく、差し入れを渡しにきただけだというのか。その事実がすっと針のように胸に突き刺さってきて、それから奥の方で暴れ出したように不快感が広がっていく。

 たった一人で詰所に勤務する私にとって、彼女の気持ちは嬉しく思うべきなのだろう。なにせ食料のひとつも自由に調達へ行けず、ただの話し相手も一人もいない。幹部昇格試験が始まってから数日たっても誰一人として受験者が来ない事実を考えれば、きっと彼女の思いやりを朗らかに受け取るべきだった。
しかし、そのいじらしさが、成果を上げたいと考えるくだらない期待を粉々に砕いてしまった。

「貴様、どこ所属だ」

 自分で考えていたよりよっぽど鋭い声が出た。
 小さく面を上げ、え、と聞き返す彼女の声が荒々しい山風に掻き消される。

「今はイーガにとって有事の時。どの部署も他人にかまけていられるほど暇ではないはずだろう。私だってそうだ。この場を見つけ出したのは感心するが、用事のない人間がうろうろするものじゃない。帰りなさい」
「す、すみませんっ、私・・・・・・」
「良かれと思ってやったことだろうから今回は不問にするが、そもそも業務中の団員に、むやみに声をかけるのも感心しない」
「・・・・・・」
「他の者に見られても困る。早く行きなさい。もうここへは訪れないように」

 私だって上に立つ幹部役として、言わねばならないときもある。たったひとりの浅はかな行動が、イーガという集団を危険にさらすこともあるのだ。そして彼女の振る舞いはどう考えても突拍子がなかった。説教の理由には充分だったかと思うが、ただ、それ以上に冷淡な声が出てしまったのは、きっと私自身の未熟さだった。
 行き場のなくなった籠が微かに沈む。彼女は心細そうにそれを抱きしめながら小さく俯き、「申し訳ありませんでした」と掠れた声で呟いた。
 深く頭を下げた折、さらさら零れる髪の毛が彼女の面を隠す。それから静かに踵を返して、彼女がやけに灰色がかった影を背負いながら、とぼとぼと遠ざかっていく。

 ・・・・・・言い過ぎたかもしれない。俯き加減に揺れる髪の毛が、今口にしたばかりの言葉を反復させた。
 これじゃあ八つ当たりみたいなものだ。彼女は厚意でやってきただけだというのに。
 それに、イーガのルールをあまり知らない新人だった可能性もある。そんな新人が私に差し入れを持ってくる理由は分からないが・・・・・・ともかく彼女の言い分を聞かず、上役の立場からただただ厳しく叱責したのは悪手だったのでは。
 とはいえ、志のない団員が詰所へ押しかけてくるのも避けたい。差し入れと言ったって、団員から補給された食料がまだ倉庫に残っているし──。

 そこまで考えてハッとなった。いや、ここへきてから数日が経ち、備蓄が尽きかけていたんだった。そろそろ狩りや採取にでも行くかと考えていたのを、今思い出した。
 考えるより先に「ちょっと待ってくれ」と、彼女を引き留める声が自然と出ていた。

「やはりその差し入れ、受け取りたい。・・・・・・良いだろうか?」

 恥も外聞もなく手を突き出せたのは、色なき風に吹かれる髪の毛がやけに光を失って見えたからだ。
 ただ、その未熟さをさらけ出せたからこそ、艶やかな黒髪を振り乱しながら彼女が振り返った。石柱の合間、陽射しを浴びる彼女の白い面が、ひらりと眩く光を取り戻す。

「う、受け取っていただけるんですかっ?」
「そういえば備蓄が無くなっていることを思い出して・・・・・・。すまない、一度は良いと言ったのに」
「いえっ、嬉しいです、ありがとうございます!」

 あれだけ冷たいことを言ったのに、面下で彼女は笑顔を浮かべているに違いなかった。そういう声だった。その屈託なさに、はっきりと救われた気になった。
 籠の底を両手で支え、改めて彼女から差し出されたそれを手に取る。意外と重い。何が入っているのか見当もつかずに布をじっと見つめていたら、彼女の方こそ私の事をまじまじと見つめていることに気付いた。
 こほんと咳払いして身体を戸の方へ傾ける。

「・・・・・・しかし、差し入れは今回ばかりで良いから。こちらも扱いに困るのでな」

 立ち去る直前に彼女から返ってきた、分かりました、と頷く声は明るい。それまで同様に口端が持ち上がった時の音で、内心少し、ほっとした。
 背後でまた深々と頭を下げる彼女をその場に残し、私は静かに穴倉へと戻った。
 扉越しに気配が遠退いていくのを確認し、全くなくなってから扉をほんの少し開ける。誰も居ない。本当に彼女は行ったようだった。

 薄暗闇の坑道を抜け、定位置ともいえる石段に腰かけて深く息を吐く。幹部候補生ではなかったが、何日かぶりに人と話した。退屈でどうしようもない毎日の中、ほんの少しだけ違う一日になったのは、老いるしかない私にとって良いことだったのかもしれない。
 籠を膝に乗せる。砂除けの赤い布を取り払うと、上に乗っかった一枚のメモが目に入った。

『お疲れ様です。詰所勤務では食事に困っておられるかと思い、おにぎりを作ってみました。お口に合えば幸いです。幹部試験監督のお仕事、頑張ってくださいね。』

 その下に鎮座する巻かれた葉を開けば、蝋燭の灯りを艶々と跳ね返す真っ白なおにぎりが三つ顔を出した。きれいに並ぶそれらは慎ましく、さっきの団員が見せた遠慮がちな振る舞いと、なぜだか重なった。
 米なんて久しぶりに食べる。詰所に移動してからは、配給されたツルギバナナと肉、それに外に生えている適当なキノコを丸焼きにして食べるばかりの生活だった。アジトで振る舞われる食事の主食は米だから、やはり米抜きは少し寂しいなと思っていたところだった。

 身体は正直なもので、おにぎりの白い照りに目を奪われただけでもグゥと腹が鳴り、口の中にじわじわ唾液が染み出してくる。早く食べろと身体が求めているのだ。私は両手を合わせてから葉ごと持ち上げて、早速一口齧った。続けて、もう一口。中身は、刻んだマックスラディッシュの漬物だった。
 一粒一粒を噛み締めるように咀嚼をすると、酸味と塩気を包み込むようにじんわりと甘みが染み出してきた。美味い。面倒くさがって素材の味だけで数日を過ごしていたものだから、調味料の妙に思わずしみじみとしてしまう。

 差し入れ。・・・・・・差し入れかぁ。一口ずつ噛み締めるたび、仄かに胸の奥が温かくなってくる。
 それに、渡すだけ渡してすぐに去って行ってしまった団員の姿。陽光を受けた髪の毛の艶めきが、いつまでも頭の隅に残っていて眩かった。


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