知らない顔
白羊宮の裏手にある石造りのテラスには、午後の柔らかな陽光が降り注いでいた。
切り立った岩肌を縫うように吹き抜ける風は乾いているが、どこか春の気配を含んでいる。下方には聖域の石畳が続き、遥か向こうにはエーゲ海の青が霞んで見えた。
ムウは手元のティーカップを持ち上げ、立ち上る湯気を眺めた。
白羊宮で育てているハーブを少量混ぜた茶葉は、心を落ち着かせるまろやかな香りを放っている。だが、その効能も今日ばかりはあまり役に立っていないようだった。
小さく息を吐く。
その吐息には、本人も気づかぬうちに複雑な感情が滲んでいた。
「私がどうこう言うことではないのですがね……」
独り言のように零れた言葉に、向かいに座るアルデバランが視線を向けた。
牡牛座の黄金聖闘士は、いつものように堂々と椅子に腰を下ろし、手にしたグラスをゆっくり傾けている。果実水の明るい黄色が陽光を受けて揺れた。
「まあ、お前の気持ちも分からんではないぞ」
低く響く声に、ムウは曖昧な笑みを返した。分かられてしまうのも、それはそれで少々居心地が悪い。
ムウにとってシオンは、教皇である以前に師だった。幼い自分を拾い上げ、導き、育ててくれた存在。
時に厳しく、時に驚くほど温かく。遥か高みに立ちながらも、決して見捨てることのない人だった。
幼い頃のムウにとって、その姿はほとんど神話の登場人物に近かった。
人間でありながら、人間を超越した存在。
だからこそ――。
「あの慈愛に満ちた教皇としての顔が、まるで別人のように思えることがあるのです」
ティーカップの縁を指先でなぞりながら、ムウは苦く笑った。
「メリッサさんを前にしたときのシオン様は、まるで……」
「若者そのもの、だろう?」
アルデバランが先回りして言う。ムウは返事の代わりに肩を竦めた。
否定できない。
公的には、シオンは十九歳の青年として登録されている。
ギリシャ政府から与えられた新たな戸籍。
対外的にも『青年教皇』として振る舞い、公務ではその若さと美貌、それに似合わぬ知性と威厳で表の権力者を手玉に取っている。
だがムウを始め、聖域の者たちは知っている。
その肉体がどれほど若々しくとも、その魂には二百五十年近い歳月が積み重なっていることを。
幾度も戦乱を見届け、仲間たちの死を看取り、歴史そのものを背負って歩いてきた人であることを。
「戸籍の上では彼女と同い年です」
ムウは遠くの空へ目を向けた。雲ひとつない青空だった。
「ですが実際には二百年以上の隔たりがあります。その事実を考えると、どうにも落ち着かないのですよ」
眉間を押さえる。
自分でも理屈ではないと思っていた。メリッサに非があるわけではない。むしろ聡明で、優しく、芯の強い娘だ。
シオンが惹かれる理由も理解できる。問題は、理解できてしまうことだった。
メリッサを見つめるときのシオンの眼差し。あの菫色の瞳がふと熱を帯びる瞬間を、ムウは何度も目撃している。
相手の些細な仕草に微笑み、何気ない言葉に耳を傾け。彼女が誰かに褒められれば、さりげなく誇らしげな顔をする。
そんな姿は、これまで知っていた教皇シオンとはあまりにも違っていた。
威厳に満ちた聖域の頂点ではなく、賢者でもなく、伝説の英雄でもない。一人の女性に恋をする、ただの男だった。
「あんな風に誰かを欲する姿を、私は一度も見たことがありませんでした」
ぽつりと漏れた言葉は、風にさらわれて消えた。
アルデバランはしばらく黙っていたが、やがてどこか穏やかな笑みを浮かべた。
「それだけのお方だったということだろう」
「と、言いますと?」
「長い間、自分のことなど後回しにしてきたということだ」
グラスを置く音が静かに響く。
「仲間のため、アテナのため、聖域のため、地上のため。あのお方は何百年もそうやって生きてきた。今になってようやく、一人の男として誰かを愛している。それは悪いことではあるまい」
ムウは答えなかった。
理解はできる。理屈では、確かにそうだ。だが感情は理屈ほど素直ではない。
自分を育ててくれた偉大な師。
常に揺るぎなく、絶対的だった存在。
その人が恋に浮かれ、時に拗ね、時に嫉妬し、時に独占欲を覗かせる。
それは喜ばしいことのはずなのに、どこか落ち着かない。
親の意外な一面を知ってしまった子供のような気持ちだった。
「……私は、まだ慣れないだけなのかもしれませんね」
ようやくそう言うと、アルデバランは大きく頷いた。
「そのうち慣れるさ」
「そうでしょうか」
「保証する」
即答にムウは思わず苦笑する。だが胸の奥のもやは完全には晴れない。
遠くの空を見上げながら、ふと想像する。
今頃シオンは何をしているだろうか。
書類仕事に追われているか。
それとも――。
メリッサと並んで歩きながら、あの穏やかな微笑みを向けているのか。彼女だけに見せる、甘い独占欲を含んだ男の顔で。
そう考えた瞬間、ムウは再びため息をついた。
ティーカップの中の茶はすっかり冷め始めていた。
事の始まりは、教皇宮の最奥――公務では決して使われることのない私室へと続く、薄暗い廊下の帳の向こう側で目撃した光景だった。
ムウがそこへ足を運んだのは、本当にただの偶然だった。緊急の決裁を仰ぐため、急ぎ足で教皇宮へ上ってきたのだ。普段のシオンであれば、どれほどメリッサを寵愛していようとも、聖域内、ましてや教皇宮の中でそのような隙を見せることはない。メリッサ自身が、人前で必要以上に肌を合わせることを好まない初心な気性であることを、シオンは誰よりも理解し、尊重していたからだ。
だからこそ、ムウも油断していた。
微かに開いた扉の隙間から漏れ聞こえる息遣い。そこは、滅多に使用されることのない個室だ。もしや誰かが具合を悪くしているのかと思い、室内をそっと覗いてみた。
その時の行いを、ムウは今でも後悔している。
ムウの目に飛び込んできたのは、到底、信じがたい、そして見てはならない「生」の情景だった。
「……んっ……ぁ、シオン、様……っ」
かすれたメリッサの声。彼女の華奢な身体は、シオンの逞しい腕によって、逃れられぬほど強く、きつく抱きすくめられていた。
二人は、深く貪るような口付けを交わしていた。
ムウの知る教皇シオンは、常に毅然とし、神聖で、近寄りがたいほどの威厳を纏った存在だ。
主神アテナの加護によって瑞々しい肉体を取り戻し、公的には十九歳の青年教皇として扱われている今も、その魂の格調高さは変わらないはずだった。だが、今そこにいるのは聖域を統べる長ではない。
メリッサの唇から、顎のライン、そして白い首筋へと、飢えたように唇を這わせるシオン。その菫色の瞳は、見たことがないほど熱く潤み、完全に「発情した雄」のそれだった。
大きな掌がメリッサのフェミニンなデザインのブラウスに潜り込み、その背を、腰の曲線を、なぞるように愛撫している。単なる愛おしさの表現ではない。もっと剥き出しの、独占欲と情欲に突き動かされた容赦のない手の動き。
「も……シオン様、だめ、誰か、来たら……っ」
メリッサがしどろもどろに、瑞々しく初心な様子で必死に彼を押し止めようとする。しかし、その弱々しい抵抗は、シオンの熱をさらに煽るだけだった。
「誰も来ぬ。……そなたのすべてを、私に委ねよ」
低く掠れた声音。二百年以上の歳月を生きてきた智者が、一人の男として、目の前の女性を強引に貪り尽くそうとしている。その強烈な本能と、圧倒的な男のにおい。
ムウは息をすることさえ忘れていた。胸の奥を激しく掻き乱すような、形容しがたいざわつきが押し寄せる。
あれは、自分が幼い頃から見上げてきた、あの厳格で、慈愛深き「師」の姿なのか。二百三十年もの歳の差を消し去り、ただの若き獣のように一人の女性を組み敷こうとする男。それが、自分の育ての親であり、聖域の頂点に立つ男の真実の顔。
見てはいけない。これ以上は、決して。
ムウは音も立てず、数歩、後ろへと下がった。手に持った書類を握りしめる指が微かに震えている。
頭の芯が熱くなるような衝撃を抱えたまま、ムウは深い闇が降りる廊下を、逃げるように立ち去るしかなかった。
「……まあ、あのお方も一人の男ということだ。それだけメリッサ嬢が魅力的だということだろう」
アルデバランは果実水を喉に流し込み、そう言って笑った。
「ええ、それは……分かっています」
ムウは力なく微笑み、紅茶に視線を落とした。さすがに、あの個室で目撃してしまった、息が詰まるほどの生々しい情景を口にすることはできない。あんな「発情した雄」の顔をしたシオンの姿など、他人に語れるはずもなかった。
ムウとて、シオンに完全無欠の清廉潔白さを求めているわけではない。彼を過剰に神格化し、一切の欲を持たない聖人君子だと思っているわけでもないのだ。それに、シオンの情熱は決して不実なものではなかった。シオンの視線はいつだってメリッサ一筋であり、他の誰にも向かない。そして何より、メリッサ自身がシオンの本当の年齢を知った上で、それでも彼を深く愛している。
ムウから見ても、メリッサは実に美しく、健気で好感の持てる娘だ。打算でシオンの側にいるわけではないことなど、見ていれば分かる。
当人同士が想い合い、絆を深めているのだ。外野である自分が口を挟む筋合いなど、どこにもない。頭では、祝福すべきだと分かっている。
(なのに、なぜ私はこれほど割り切れないのか……)
素直に二人を受け入れられない自分が、どうしようもなく燻っている。それは、幼い頃から自分だけのものだった「師」を、新参の女性に奪われたという子供じみた嫉妬なのだろうか。あるいは、目の前の、肉体は二十歳に見えようとも、実際には二百三十年もの歳の差がある二人の関係に、自分の持つ倫理観を揺さぶられることが不快なのだろうか。
「ムウ? どうした、急に黙り込んで。そんなに心配なら、一度シオン様に直接、釘でも刺しに行ってみるか?」
アルデバランの冗談めかした言葉に、ムウはハッと我に返り、慌てて首を振った。
「滅相もない。私がそんな大それたことをできるわけがないでしょう。……ただ、少し考えごとをしていただけです」
自分でも、この複雑な感情の正体が分からない。ただ、あの情熱に突き動かされていたシオンの瞳と、それを受け入れていたメリッサの姿が、今も鮮明に脳裏に焼き付いて離れなかった。
「あまり思い詰めるな。祝福するのも弟子の務めだぞ」
アルデバランは肩を竦めるように言った。
「ええ、それは……分かっています」
ムウは微かに笑い、手元の紅茶へ視線を落とした。風が吹き抜けるたび、水面のように揺れた紅茶が陽光を散らし、その光が白いティーカップの縁を淡く照らしていた。
理解はしている。
シオンがメリッサを愛していることも、メリッサがシオンを慕っていることも。
それが一時の気の迷いでも、軽薄な感情でもないことも。
誰より近くで見てきたからこそ分かる。
シオンの眼差しは、常に彼女へ向いていた。それは若者特有の移ろいやすい恋情ではない。長い孤独を知る男が、ようやく辿り着いた安らぎにも似た感情だった。そしてメリッサもまた、その想いを真摯に受け止めている。シオンの肩書きや権威に惹かれたのではない。彼が背負ってきた歳月ごと受け入れ、その上で一人の人間として愛している。
ムウにはそれが分かっていた。だからこそ、余計に自分自身が分からなかった。
当人同士が望み、互いを大切にしている。ならば周囲が口を挟む余地などない。
頭では十分すぎるほど理解しているのだ。
それなのに。
胸の奥に引っ掛かった小さな棘だけが、どうしても抜けない。
(なぜ私は、素直に喜べないのだろう……)
ムウは静かに目を伏せた。
幼い頃から見上げ続けてきた師。導き手であり、保護者であり、ときには父親にも似た存在だった人。自分の人生の中心に、いつも自然にいた人。
その人が今、自分ではない誰かを最も大切にしている。
考えてみれば当然のことだった。
ムウ自身も大人であり、シオンが誰かを愛する権利を否定するつもりなど欠片もない。それでも胸のどこかに、説明のつかない寂しさが残っている。まるで長年慣れ親しんだ景色が、知らぬ間に少しだけ変わってしまったような感覚だった。
あるいは――。
肉体は若々しくとも、二百年以上を生きた男と十九歳の女子大学生。
その途方もない時間の隔たりに、自分の価値観が追いついていないだけなのかもしれない。
どちらなのか、あるいは両方なのか。
ムウ自身にも答えは見つからなかった。
アルデバランはそれ以上追及しなかった。親友なりに、ムウの心境を察したのかもしれない。
二人の間に静寂が訪れる。
遠くで風が岩肌を撫でる音が聞こえた。ムウは冷めかけた紅茶をひと口飲む。爽やかな香りが鼻の奥に広がるが、胸の内の靄は晴れない。
師が幸福であることを、自分は心から願っている。それは紛れもない本心だ。それでもなお、簡単には整理できない感情がある。
尊敬。
安堵。
戸惑い。
そして、名付けようのない寂しさ。
それらが複雑に絡み合い、胸の奥で静かに燻っていた。
遥か彼方へ視線を向けながら、ムウは小さく息を吐く。
どうやら、自分がこの感情に折り合いをつけるには、もう少し時間が必要らしかった。
アルデバランはサンドイッチを一切れ摘むと、大きな口の中に放り込んだ。一般的なサイズの食パンで作られたそれをアルデバランが手にすると、さながらミニチュア玩具のようだった。彼は顎をさすりながら言った。
「ムウよ、お前は恋をしたことはないのか?」
「恋、ですか? 私はシオン様を亡くした七つの頃からジャミールで引きこもり生活をしていたんですよ」
ムウは呆れたように肩をすくめ、手元のカップを傾ける。そんな浮いた話など、己のこれまでの半生にあるはずもない。
「お前たちの一族の中にだって、女性はいるだろう?」
「いましたけど、私は他人との接触を極力絶っていましたから、誰かに恋するということはありませんでしたよ」
あの荒涼とした岩山で、ただひたすらに聖衣の修復技術を磨き、己の小宇宙を高めることだけに没頭していた日々。そこに、誰かを想って胸を焦がすような瑞々しい感情が入り込む余地などなかった。
「お前、もったいないな」
「もったいない? 何がですか」
「そんなにキレイな顔をしているのに」
アルデバランの直球な物言いに、ムウは微かに眉をひそめ、すぐに冷ややかな苦笑を浮かべた。
「外見だけで寄ってくる女性はお断りです」
「まあ、そう言うな」
アルデバランは愉快そうに笑った。
「入口として見た目は大事だ。俺なんてこんな見た目だから、女性からは敬遠されがちだぞ」
自嘲気味に笑う巨漢の男を見上げ、ムウは心底からの本音を口にする。
「あなたの立派な体躯は羨ましいです」
聖闘士として、また一人の男として、アルデバランの持つその圧倒的な頑強さは、細身のムウにとって純粋な憧れでもあった。
「それは男同士、聖闘士同士だからそう思うだけだ。女性はそうは思わんものだ」
アルデバランはがははと笑い、大きな手で自分の胸板を叩いた。
男二人の気の置けない会話は、聖域の乾いた風に溶けていく。恋を知らぬまま育った己と、二百五十年の時を経て、なお燃え上がるような恋をしている師。
アルデバランの暢気な言葉に付き合いながらも、ムウの心の片隅には、やはりあの個室で見たシオンの、生々しいまでの「男」の顔が、消えぬ残像のように居座り続けていた。
「ちなみに、あなたは恋をしたことがあるのですか?」
何気ない問いだった。恋愛談義を続ける流れの中で口にしただけで、深い意味はなかった。
だからこそ――。
「今、まさにな」
アルデバランの返答に、ムウは一瞬言葉の意味を理解できなかった。
「そうなんですか?」
反射的に聞き返す。
「それは……初耳です」
「付き合っているぞ」
さらりと言われたその一言に、飲みかけていた紅茶が気管に入り、激しく咳き込む。
「ごほっ……!げほっ、げほっ!」
慌ててティーカップをソーサーへ戻したものの、危うく取り落とすところだった。
「お、おい、大丈夫か」
「げほっ……!」
目尻に滲んだ涙を拭いながら、ムウは何とか呼吸を整える。
あまりにも予想外だった。シオンとメリッサの件で散々心を掻き乱された直後に、今度はアルデバランの恋人発覚である。
今日は一体どうなっているのだろう。
「……すみません」
ようやく息を整え、ハンカチで口元を押さえる。
「少々取り乱しました」
「ははは!」
アルデバランは腹を抱えて笑った。
「お前がそこまで驚くとは思わなかったぞ」
そう言って遠慮なく背中を叩いてくる。その大きな掌から繰り出される一撃は、慰めというより攻撃に近い。
「ぐっ……」
「すまんすまん」
全く反省していない顔だった。
ムウは深く息を吐き、改めて目の前の親友を見つめる。
見慣れた巨体。
堂々たる体格。
豪放磊落な笑顔。
だが今は、その姿がどこか新鮮に見えた。
「……本当なのですか?」
「何がだ」
「恋人がいるという話です」
「嘘をついてどうする」
あっさり返される。確かにその通りだった。アルデバランはこういう冗談を言う男ではない。つまり事実なのだ。事実なのだが。
「あなたが、ですか……」
つい本音が漏れる。
「なんだその顔は」
アルデバランが眉をひそめた。
「俺だって男だぞ」
「それは理解しています」
ムウは真顔で答える。
「ですが、あなたはそういうことに興味がないものだと」
「勝手に決めるな」
「すみません」
素直に謝罪する。実際、聖域の多くの者が似たような認識を持っているはずだ。
アルデバランは仲間思いで義理堅い。だが恋愛となると、どうにも想像がつかなかった。少なくともムウには。
「ちなみに」
少し身を乗り出す。今度は純粋な興味だった。
「お相手はどなたですか?」
アルデバランは果実水をひと口飲む。その顔に、普段の豪快さとは少し違う表情が浮かんだ。
どこか照れくさそうで、それでいて誇らしげな。
ムウは思わず目を細める。
なるほど。恋をしている男というのは、こういう顔をするのか。シオンの変化ばかりに気を取られていたが、目の前にも分かりやすい実例がいたらしい。
「聖域の方ですか?」
「いや、外の子だ」
「外の女性……ですか」
ムウは驚きを通り越し、少しだけ正気を取り戻して尋ねた。
「身分は明かしたんですか?」
「いや、もっと打ち解けてから話すつもりだ」
アルデバランは少し照れくさそうに、太い指先で頬をかいた。
黄金聖闘士という己の立場や、この「聖域」の特殊性を思えば、一般の女性にいきなり真実を打ち明けるのが難しいのは当然だった。ましてや、ギリシャ政府が裏で動いて戸籍を整えるような、教皇シオンのケースとはわけが違う。
「……それは、賢明な判断かもしれませんね。私たちが黄金聖闘士であるなどと急に話せば、大抵の人間は混乱するか、おとぎ話だと笑うかのどちらかでしょうから」
ムウは小さく息を吐き、ようやく落ち着いて紅茶を一口啜った。
シオンとメリッサ。そして、アルデバランと外の女性。
自分の周りの男たちが、それぞれの形で「男」として生き、誰かを愛している。その事実に、ムウは時代の流れを感じずにはいられなかった。
「しかし、アルデバラン。隠し続けるのは、お相手にとっても誠実とは言えません。話すタイミングは、見極めなくてはなりませんよ」
「分かっているさ。ただ、いまは……その、普通の男として彼女と過ごす時間が、悪くないんだ」
巨漢に似合わぬ素直な言葉を聞きながら、ムウはまた、あの人気のない部屋の中でメリッサを貪るように抱いていた師の姿を思い出していた。
(シオン様も、アルデバランも……)
聖域の重責を担う彼らが、ひとたび戦いから離れたときに見せる、一人の男としての顔。
頑なに他者との関わりを断ち、ジャミールの地でただ聖衣とだけ向き合ってきたムウには、やはりまだ、その領域の感情を本当の意味で理解することはできなかった。
「ちなみに、その女性はあなたのどういうところを? 先ほど見た目がどうとか言っていましたけど?」
ムウは興味を惹かれたように、首を少し傾げて尋ねた。これほどの大柄な体躯だ。一般の女性からすれば、最初は威圧感を覚えても無理はない。
「もちろんはじめは怖がられたぞ」
アルデバランは苦笑いしながら、大きな手で頭をがしがしと掻いた。
「そもそも、どういう経緯で知り合ったんです?」
「たまたま非番で外に出ていた日なんだが、公園で彼女が飼い犬を散歩させていたんだよ。そうしたら、他の犬が彼女の犬に噛みついてしまったんだよ」
「犬が犬に?」
およそ聖域の日常からはかけ離れた単語の連続に、ムウは思わずオウム返しに聞き返した。荒涼とした岩山と神殿が連なるこの場所に、犬の散歩をするようなのどかな光景は存在しない。
「彼女の犬はチワワなのだが、大型の狩猟犬には、小型犬というのが獲物に見えるみたいなんだ。それで、襲われたようだ」
「そんなことがあるんですか……」
ムウは眉を寄せ、心底不思議そうに呟いた。チワワという犬種の小ささは知識として知ってはいるが、それが同じ犬に襲われるという状況が、ジャミール育ちの彼にはいまいちピンとこない。
「ああ、俺も驚いたさ」
アルデバランは腕を組み、その時の光景を思い出すように頷いた。
魔物や冥闘士との死闘には慣れきっている二人だが、「犬が犬を襲う」という街の小競り合いのトラブルには、どうにも勝手が違って新鮮な響きしかない。
「……なるほど。それで、大怪我をしそうだったその小さな犬を、あなたがその立派な体躯で助けに入った、というわけですか?」
ムウの問いかけに、アルデバランは少し得意げに胸を張った。戦場ではなく、街の片隅で発揮されたその圧倒的な力強さと優しさ。それが、彼女の心を動かしたに違いないと、ムウは容易に想像がついたのだった。
「実際、彼女の犬は結構な怪我をしたよ。彼女は泣きじゃくるし、狩猟犬の飼い主もパニックになってしまって、現場は大混乱だよ」
「でしょうね」
ムウは苦笑した。
目の前にいる男は巨大な岩のような体格をしている。そんな男が突然飛び出してきて大型犬を制止したのだとしたら、周囲の混乱も相当なものだっただろう。
「で、あなたはどうしたんです?」
「とりあえず犬を引き離して、近くの動物病院まで付き添った」
「あなたらしいですね」
「放っておけなかったんだ」
アルデバランは肩を竦める。その声音に気負いはない。英雄的な行為をしたという自覚もなさそうだった。ただ困っている者がいたから手を貸した。
それだけなのだろう。それでもムウには納得できた。
彼女がアルデバランに惹かれた理由が。
大抵の人間は、まず彼の巨体や厳つい顔立ちに目を奪われる。しかし実際に接してみれば分かる。
この男は誰よりも情に厚く、弱い者を見捨てられない。黄金聖闘士の中でも指折りの優しさを持っていることを。
「それで、その後も動物病院へ行ったりとか?」
「ああ。犬の経過が気になってな」
「なるほど」
ムウは小さく笑った。
「それは彼女も勘違いしますね」
「勘違い?」
「自分を心配してくれていると思ったのではありませんか?」
アルデバランは数秒沈黙した。そして、珍しく言葉に詰まる。その反応だけで答えは十分だった。
ムウは思わず吹き出した。
「どうやら図星のようですね」
「……お前、意外と鋭いな」
「長い付き合いですから」
白羊宮のテラスに、穏やかな笑い声が響く。先ほどまでシオンとメリッサのことで重かったムウの心も、この時ばかりは少し軽くなっていた。
親友の恋路を聞くのは、案外悪くない。
そう思いながら、彼は冷めかけた紅茶をゆっくりと口に運んだ。
午後の日差しは少し傾き始め、白羊宮の石壁に長い影を落としている。風も先ほどより穏やかになり、二人の間にはどこかのんびりとした空気が流れていた。
「何と言うか……彼女と俺も、そのチワワと狩猟犬みたいな感じだからな。小柄な子なんだよ」
アルデバランは己の大きな拳を見つめながら、どこか目を細めて愛おしそうに呟いた。その様子がいかにも微笑ましく、ムウは小さく息を漏らす。
「あなたから見れば、世界中のすべての女性は小柄でしょう」
「ははは! 言ってくれるな。しかし、本当に小柄なのだ。分かりやすく言うと、そうだな……メリッサ嬢よりも小さいぞ」
「それは、確かに……」
メリッサも決して背の高い女性ではない。むしろ女性としては平均的な部類だろう。何しろ、シオンの逞しい腕にすっぽりと収まってしまうほど、瑞々しくも華奢な娘だ。
そのメリッサよりも、さらに小さい。
(アルデバランと、その小柄な女性……)
頭の中でその体格差を想像してみる。あの巨漢の腕の中に、それほど小さな女性が収まっている光景。それはそれで、凄まじい絵面になるのではないだろうか。
それと同時に、ムウの胸の奥にまた別の重みがじわりと蘇ってくる。
シオンがその大きな掌で、壊れ物を扱うように、それでいて容赦のない情欲を込めてメリッサを愛撫していた、あの個室の記憶。
男が己より遥かに小さな、庇護すべき存在を激しく欲するとき、そこに宿る剥き出しの独占欲。
アルデバランも、シオンと同じように、その小さな恋人を前にしたときは「男の顔」になるのだろうか。
「……大切にして差し上げてくださいね」
ムウは心のざわつきを隠すように、静かにティーカップを傾けた。
男たちの熱い情愛の波が、すぐ近くまで押し寄せている。それをただ眩しく、そして少しの戸惑いを持って見つめることしか、今のムウにはできなかった。
だが、今はそれでいいのだろう。
そう思いながら、ムウは冷めた紅茶を飲み干した。いつか、この味がもう少し違って感じられる日が来るのかもしれない。その時はきっと、アルデバランに聞いてもらうに違いない。
一陣の風が、ムウの金髪を撫でながら通り過ぎていった。
―――了
切り立った岩肌を縫うように吹き抜ける風は乾いているが、どこか春の気配を含んでいる。下方には聖域の石畳が続き、遥か向こうにはエーゲ海の青が霞んで見えた。
ムウは手元のティーカップを持ち上げ、立ち上る湯気を眺めた。
白羊宮で育てているハーブを少量混ぜた茶葉は、心を落ち着かせるまろやかな香りを放っている。だが、その効能も今日ばかりはあまり役に立っていないようだった。
小さく息を吐く。
その吐息には、本人も気づかぬうちに複雑な感情が滲んでいた。
「私がどうこう言うことではないのですがね……」
独り言のように零れた言葉に、向かいに座るアルデバランが視線を向けた。
牡牛座の黄金聖闘士は、いつものように堂々と椅子に腰を下ろし、手にしたグラスをゆっくり傾けている。果実水の明るい黄色が陽光を受けて揺れた。
「まあ、お前の気持ちも分からんではないぞ」
低く響く声に、ムウは曖昧な笑みを返した。分かられてしまうのも、それはそれで少々居心地が悪い。
ムウにとってシオンは、教皇である以前に師だった。幼い自分を拾い上げ、導き、育ててくれた存在。
時に厳しく、時に驚くほど温かく。遥か高みに立ちながらも、決して見捨てることのない人だった。
幼い頃のムウにとって、その姿はほとんど神話の登場人物に近かった。
人間でありながら、人間を超越した存在。
だからこそ――。
「あの慈愛に満ちた教皇としての顔が、まるで別人のように思えることがあるのです」
ティーカップの縁を指先でなぞりながら、ムウは苦く笑った。
「メリッサさんを前にしたときのシオン様は、まるで……」
「若者そのもの、だろう?」
アルデバランが先回りして言う。ムウは返事の代わりに肩を竦めた。
否定できない。
公的には、シオンは十九歳の青年として登録されている。
ギリシャ政府から与えられた新たな戸籍。
対外的にも『青年教皇』として振る舞い、公務ではその若さと美貌、それに似合わぬ知性と威厳で表の権力者を手玉に取っている。
だがムウを始め、聖域の者たちは知っている。
その肉体がどれほど若々しくとも、その魂には二百五十年近い歳月が積み重なっていることを。
幾度も戦乱を見届け、仲間たちの死を看取り、歴史そのものを背負って歩いてきた人であることを。
「戸籍の上では彼女と同い年です」
ムウは遠くの空へ目を向けた。雲ひとつない青空だった。
「ですが実際には二百年以上の隔たりがあります。その事実を考えると、どうにも落ち着かないのですよ」
眉間を押さえる。
自分でも理屈ではないと思っていた。メリッサに非があるわけではない。むしろ聡明で、優しく、芯の強い娘だ。
シオンが惹かれる理由も理解できる。問題は、理解できてしまうことだった。
メリッサを見つめるときのシオンの眼差し。あの菫色の瞳がふと熱を帯びる瞬間を、ムウは何度も目撃している。
相手の些細な仕草に微笑み、何気ない言葉に耳を傾け。彼女が誰かに褒められれば、さりげなく誇らしげな顔をする。
そんな姿は、これまで知っていた教皇シオンとはあまりにも違っていた。
威厳に満ちた聖域の頂点ではなく、賢者でもなく、伝説の英雄でもない。一人の女性に恋をする、ただの男だった。
「あんな風に誰かを欲する姿を、私は一度も見たことがありませんでした」
ぽつりと漏れた言葉は、風にさらわれて消えた。
アルデバランはしばらく黙っていたが、やがてどこか穏やかな笑みを浮かべた。
「それだけのお方だったということだろう」
「と、言いますと?」
「長い間、自分のことなど後回しにしてきたということだ」
グラスを置く音が静かに響く。
「仲間のため、アテナのため、聖域のため、地上のため。あのお方は何百年もそうやって生きてきた。今になってようやく、一人の男として誰かを愛している。それは悪いことではあるまい」
ムウは答えなかった。
理解はできる。理屈では、確かにそうだ。だが感情は理屈ほど素直ではない。
自分を育ててくれた偉大な師。
常に揺るぎなく、絶対的だった存在。
その人が恋に浮かれ、時に拗ね、時に嫉妬し、時に独占欲を覗かせる。
それは喜ばしいことのはずなのに、どこか落ち着かない。
親の意外な一面を知ってしまった子供のような気持ちだった。
「……私は、まだ慣れないだけなのかもしれませんね」
ようやくそう言うと、アルデバランは大きく頷いた。
「そのうち慣れるさ」
「そうでしょうか」
「保証する」
即答にムウは思わず苦笑する。だが胸の奥のもやは完全には晴れない。
遠くの空を見上げながら、ふと想像する。
今頃シオンは何をしているだろうか。
書類仕事に追われているか。
それとも――。
メリッサと並んで歩きながら、あの穏やかな微笑みを向けているのか。彼女だけに見せる、甘い独占欲を含んだ男の顔で。
そう考えた瞬間、ムウは再びため息をついた。
ティーカップの中の茶はすっかり冷め始めていた。
事の始まりは、教皇宮の最奥――公務では決して使われることのない私室へと続く、薄暗い廊下の帳の向こう側で目撃した光景だった。
ムウがそこへ足を運んだのは、本当にただの偶然だった。緊急の決裁を仰ぐため、急ぎ足で教皇宮へ上ってきたのだ。普段のシオンであれば、どれほどメリッサを寵愛していようとも、聖域内、ましてや教皇宮の中でそのような隙を見せることはない。メリッサ自身が、人前で必要以上に肌を合わせることを好まない初心な気性であることを、シオンは誰よりも理解し、尊重していたからだ。
だからこそ、ムウも油断していた。
微かに開いた扉の隙間から漏れ聞こえる息遣い。そこは、滅多に使用されることのない個室だ。もしや誰かが具合を悪くしているのかと思い、室内をそっと覗いてみた。
その時の行いを、ムウは今でも後悔している。
ムウの目に飛び込んできたのは、到底、信じがたい、そして見てはならない「生」の情景だった。
「……んっ……ぁ、シオン、様……っ」
かすれたメリッサの声。彼女の華奢な身体は、シオンの逞しい腕によって、逃れられぬほど強く、きつく抱きすくめられていた。
二人は、深く貪るような口付けを交わしていた。
ムウの知る教皇シオンは、常に毅然とし、神聖で、近寄りがたいほどの威厳を纏った存在だ。
主神アテナの加護によって瑞々しい肉体を取り戻し、公的には十九歳の青年教皇として扱われている今も、その魂の格調高さは変わらないはずだった。だが、今そこにいるのは聖域を統べる長ではない。
メリッサの唇から、顎のライン、そして白い首筋へと、飢えたように唇を這わせるシオン。その菫色の瞳は、見たことがないほど熱く潤み、完全に「発情した雄」のそれだった。
大きな掌がメリッサのフェミニンなデザインのブラウスに潜り込み、その背を、腰の曲線を、なぞるように愛撫している。単なる愛おしさの表現ではない。もっと剥き出しの、独占欲と情欲に突き動かされた容赦のない手の動き。
「も……シオン様、だめ、誰か、来たら……っ」
メリッサがしどろもどろに、瑞々しく初心な様子で必死に彼を押し止めようとする。しかし、その弱々しい抵抗は、シオンの熱をさらに煽るだけだった。
「誰も来ぬ。……そなたのすべてを、私に委ねよ」
低く掠れた声音。二百年以上の歳月を生きてきた智者が、一人の男として、目の前の女性を強引に貪り尽くそうとしている。その強烈な本能と、圧倒的な男のにおい。
ムウは息をすることさえ忘れていた。胸の奥を激しく掻き乱すような、形容しがたいざわつきが押し寄せる。
あれは、自分が幼い頃から見上げてきた、あの厳格で、慈愛深き「師」の姿なのか。二百三十年もの歳の差を消し去り、ただの若き獣のように一人の女性を組み敷こうとする男。それが、自分の育ての親であり、聖域の頂点に立つ男の真実の顔。
見てはいけない。これ以上は、決して。
ムウは音も立てず、数歩、後ろへと下がった。手に持った書類を握りしめる指が微かに震えている。
頭の芯が熱くなるような衝撃を抱えたまま、ムウは深い闇が降りる廊下を、逃げるように立ち去るしかなかった。
「……まあ、あのお方も一人の男ということだ。それだけメリッサ嬢が魅力的だということだろう」
アルデバランは果実水を喉に流し込み、そう言って笑った。
「ええ、それは……分かっています」
ムウは力なく微笑み、紅茶に視線を落とした。さすがに、あの個室で目撃してしまった、息が詰まるほどの生々しい情景を口にすることはできない。あんな「発情した雄」の顔をしたシオンの姿など、他人に語れるはずもなかった。
ムウとて、シオンに完全無欠の清廉潔白さを求めているわけではない。彼を過剰に神格化し、一切の欲を持たない聖人君子だと思っているわけでもないのだ。それに、シオンの情熱は決して不実なものではなかった。シオンの視線はいつだってメリッサ一筋であり、他の誰にも向かない。そして何より、メリッサ自身がシオンの本当の年齢を知った上で、それでも彼を深く愛している。
ムウから見ても、メリッサは実に美しく、健気で好感の持てる娘だ。打算でシオンの側にいるわけではないことなど、見ていれば分かる。
当人同士が想い合い、絆を深めているのだ。外野である自分が口を挟む筋合いなど、どこにもない。頭では、祝福すべきだと分かっている。
(なのに、なぜ私はこれほど割り切れないのか……)
素直に二人を受け入れられない自分が、どうしようもなく燻っている。それは、幼い頃から自分だけのものだった「師」を、新参の女性に奪われたという子供じみた嫉妬なのだろうか。あるいは、目の前の、肉体は二十歳に見えようとも、実際には二百三十年もの歳の差がある二人の関係に、自分の持つ倫理観を揺さぶられることが不快なのだろうか。
「ムウ? どうした、急に黙り込んで。そんなに心配なら、一度シオン様に直接、釘でも刺しに行ってみるか?」
アルデバランの冗談めかした言葉に、ムウはハッと我に返り、慌てて首を振った。
「滅相もない。私がそんな大それたことをできるわけがないでしょう。……ただ、少し考えごとをしていただけです」
自分でも、この複雑な感情の正体が分からない。ただ、あの情熱に突き動かされていたシオンの瞳と、それを受け入れていたメリッサの姿が、今も鮮明に脳裏に焼き付いて離れなかった。
「あまり思い詰めるな。祝福するのも弟子の務めだぞ」
アルデバランは肩を竦めるように言った。
「ええ、それは……分かっています」
ムウは微かに笑い、手元の紅茶へ視線を落とした。風が吹き抜けるたび、水面のように揺れた紅茶が陽光を散らし、その光が白いティーカップの縁を淡く照らしていた。
理解はしている。
シオンがメリッサを愛していることも、メリッサがシオンを慕っていることも。
それが一時の気の迷いでも、軽薄な感情でもないことも。
誰より近くで見てきたからこそ分かる。
シオンの眼差しは、常に彼女へ向いていた。それは若者特有の移ろいやすい恋情ではない。長い孤独を知る男が、ようやく辿り着いた安らぎにも似た感情だった。そしてメリッサもまた、その想いを真摯に受け止めている。シオンの肩書きや権威に惹かれたのではない。彼が背負ってきた歳月ごと受け入れ、その上で一人の人間として愛している。
ムウにはそれが分かっていた。だからこそ、余計に自分自身が分からなかった。
当人同士が望み、互いを大切にしている。ならば周囲が口を挟む余地などない。
頭では十分すぎるほど理解しているのだ。
それなのに。
胸の奥に引っ掛かった小さな棘だけが、どうしても抜けない。
(なぜ私は、素直に喜べないのだろう……)
ムウは静かに目を伏せた。
幼い頃から見上げ続けてきた師。導き手であり、保護者であり、ときには父親にも似た存在だった人。自分の人生の中心に、いつも自然にいた人。
その人が今、自分ではない誰かを最も大切にしている。
考えてみれば当然のことだった。
ムウ自身も大人であり、シオンが誰かを愛する権利を否定するつもりなど欠片もない。それでも胸のどこかに、説明のつかない寂しさが残っている。まるで長年慣れ親しんだ景色が、知らぬ間に少しだけ変わってしまったような感覚だった。
あるいは――。
肉体は若々しくとも、二百年以上を生きた男と十九歳の女子大学生。
その途方もない時間の隔たりに、自分の価値観が追いついていないだけなのかもしれない。
どちらなのか、あるいは両方なのか。
ムウ自身にも答えは見つからなかった。
アルデバランはそれ以上追及しなかった。親友なりに、ムウの心境を察したのかもしれない。
二人の間に静寂が訪れる。
遠くで風が岩肌を撫でる音が聞こえた。ムウは冷めかけた紅茶をひと口飲む。爽やかな香りが鼻の奥に広がるが、胸の内の靄は晴れない。
師が幸福であることを、自分は心から願っている。それは紛れもない本心だ。それでもなお、簡単には整理できない感情がある。
尊敬。
安堵。
戸惑い。
そして、名付けようのない寂しさ。
それらが複雑に絡み合い、胸の奥で静かに燻っていた。
遥か彼方へ視線を向けながら、ムウは小さく息を吐く。
どうやら、自分がこの感情に折り合いをつけるには、もう少し時間が必要らしかった。
アルデバランはサンドイッチを一切れ摘むと、大きな口の中に放り込んだ。一般的なサイズの食パンで作られたそれをアルデバランが手にすると、さながらミニチュア玩具のようだった。彼は顎をさすりながら言った。
「ムウよ、お前は恋をしたことはないのか?」
「恋、ですか? 私はシオン様を亡くした七つの頃からジャミールで引きこもり生活をしていたんですよ」
ムウは呆れたように肩をすくめ、手元のカップを傾ける。そんな浮いた話など、己のこれまでの半生にあるはずもない。
「お前たちの一族の中にだって、女性はいるだろう?」
「いましたけど、私は他人との接触を極力絶っていましたから、誰かに恋するということはありませんでしたよ」
あの荒涼とした岩山で、ただひたすらに聖衣の修復技術を磨き、己の小宇宙を高めることだけに没頭していた日々。そこに、誰かを想って胸を焦がすような瑞々しい感情が入り込む余地などなかった。
「お前、もったいないな」
「もったいない? 何がですか」
「そんなにキレイな顔をしているのに」
アルデバランの直球な物言いに、ムウは微かに眉をひそめ、すぐに冷ややかな苦笑を浮かべた。
「外見だけで寄ってくる女性はお断りです」
「まあ、そう言うな」
アルデバランは愉快そうに笑った。
「入口として見た目は大事だ。俺なんてこんな見た目だから、女性からは敬遠されがちだぞ」
自嘲気味に笑う巨漢の男を見上げ、ムウは心底からの本音を口にする。
「あなたの立派な体躯は羨ましいです」
聖闘士として、また一人の男として、アルデバランの持つその圧倒的な頑強さは、細身のムウにとって純粋な憧れでもあった。
「それは男同士、聖闘士同士だからそう思うだけだ。女性はそうは思わんものだ」
アルデバランはがははと笑い、大きな手で自分の胸板を叩いた。
男二人の気の置けない会話は、聖域の乾いた風に溶けていく。恋を知らぬまま育った己と、二百五十年の時を経て、なお燃え上がるような恋をしている師。
アルデバランの暢気な言葉に付き合いながらも、ムウの心の片隅には、やはりあの個室で見たシオンの、生々しいまでの「男」の顔が、消えぬ残像のように居座り続けていた。
「ちなみに、あなたは恋をしたことがあるのですか?」
何気ない問いだった。恋愛談義を続ける流れの中で口にしただけで、深い意味はなかった。
だからこそ――。
「今、まさにな」
アルデバランの返答に、ムウは一瞬言葉の意味を理解できなかった。
「そうなんですか?」
反射的に聞き返す。
「それは……初耳です」
「付き合っているぞ」
さらりと言われたその一言に、飲みかけていた紅茶が気管に入り、激しく咳き込む。
「ごほっ……!げほっ、げほっ!」
慌ててティーカップをソーサーへ戻したものの、危うく取り落とすところだった。
「お、おい、大丈夫か」
「げほっ……!」
目尻に滲んだ涙を拭いながら、ムウは何とか呼吸を整える。
あまりにも予想外だった。シオンとメリッサの件で散々心を掻き乱された直後に、今度はアルデバランの恋人発覚である。
今日は一体どうなっているのだろう。
「……すみません」
ようやく息を整え、ハンカチで口元を押さえる。
「少々取り乱しました」
「ははは!」
アルデバランは腹を抱えて笑った。
「お前がそこまで驚くとは思わなかったぞ」
そう言って遠慮なく背中を叩いてくる。その大きな掌から繰り出される一撃は、慰めというより攻撃に近い。
「ぐっ……」
「すまんすまん」
全く反省していない顔だった。
ムウは深く息を吐き、改めて目の前の親友を見つめる。
見慣れた巨体。
堂々たる体格。
豪放磊落な笑顔。
だが今は、その姿がどこか新鮮に見えた。
「……本当なのですか?」
「何がだ」
「恋人がいるという話です」
「嘘をついてどうする」
あっさり返される。確かにその通りだった。アルデバランはこういう冗談を言う男ではない。つまり事実なのだ。事実なのだが。
「あなたが、ですか……」
つい本音が漏れる。
「なんだその顔は」
アルデバランが眉をひそめた。
「俺だって男だぞ」
「それは理解しています」
ムウは真顔で答える。
「ですが、あなたはそういうことに興味がないものだと」
「勝手に決めるな」
「すみません」
素直に謝罪する。実際、聖域の多くの者が似たような認識を持っているはずだ。
アルデバランは仲間思いで義理堅い。だが恋愛となると、どうにも想像がつかなかった。少なくともムウには。
「ちなみに」
少し身を乗り出す。今度は純粋な興味だった。
「お相手はどなたですか?」
アルデバランは果実水をひと口飲む。その顔に、普段の豪快さとは少し違う表情が浮かんだ。
どこか照れくさそうで、それでいて誇らしげな。
ムウは思わず目を細める。
なるほど。恋をしている男というのは、こういう顔をするのか。シオンの変化ばかりに気を取られていたが、目の前にも分かりやすい実例がいたらしい。
「聖域の方ですか?」
「いや、外の子だ」
「外の女性……ですか」
ムウは驚きを通り越し、少しだけ正気を取り戻して尋ねた。
「身分は明かしたんですか?」
「いや、もっと打ち解けてから話すつもりだ」
アルデバランは少し照れくさそうに、太い指先で頬をかいた。
黄金聖闘士という己の立場や、この「聖域」の特殊性を思えば、一般の女性にいきなり真実を打ち明けるのが難しいのは当然だった。ましてや、ギリシャ政府が裏で動いて戸籍を整えるような、教皇シオンのケースとはわけが違う。
「……それは、賢明な判断かもしれませんね。私たちが黄金聖闘士であるなどと急に話せば、大抵の人間は混乱するか、おとぎ話だと笑うかのどちらかでしょうから」
ムウは小さく息を吐き、ようやく落ち着いて紅茶を一口啜った。
シオンとメリッサ。そして、アルデバランと外の女性。
自分の周りの男たちが、それぞれの形で「男」として生き、誰かを愛している。その事実に、ムウは時代の流れを感じずにはいられなかった。
「しかし、アルデバラン。隠し続けるのは、お相手にとっても誠実とは言えません。話すタイミングは、見極めなくてはなりませんよ」
「分かっているさ。ただ、いまは……その、普通の男として彼女と過ごす時間が、悪くないんだ」
巨漢に似合わぬ素直な言葉を聞きながら、ムウはまた、あの人気のない部屋の中でメリッサを貪るように抱いていた師の姿を思い出していた。
(シオン様も、アルデバランも……)
聖域の重責を担う彼らが、ひとたび戦いから離れたときに見せる、一人の男としての顔。
頑なに他者との関わりを断ち、ジャミールの地でただ聖衣とだけ向き合ってきたムウには、やはりまだ、その領域の感情を本当の意味で理解することはできなかった。
「ちなみに、その女性はあなたのどういうところを? 先ほど見た目がどうとか言っていましたけど?」
ムウは興味を惹かれたように、首を少し傾げて尋ねた。これほどの大柄な体躯だ。一般の女性からすれば、最初は威圧感を覚えても無理はない。
「もちろんはじめは怖がられたぞ」
アルデバランは苦笑いしながら、大きな手で頭をがしがしと掻いた。
「そもそも、どういう経緯で知り合ったんです?」
「たまたま非番で外に出ていた日なんだが、公園で彼女が飼い犬を散歩させていたんだよ。そうしたら、他の犬が彼女の犬に噛みついてしまったんだよ」
「犬が犬に?」
およそ聖域の日常からはかけ離れた単語の連続に、ムウは思わずオウム返しに聞き返した。荒涼とした岩山と神殿が連なるこの場所に、犬の散歩をするようなのどかな光景は存在しない。
「彼女の犬はチワワなのだが、大型の狩猟犬には、小型犬というのが獲物に見えるみたいなんだ。それで、襲われたようだ」
「そんなことがあるんですか……」
ムウは眉を寄せ、心底不思議そうに呟いた。チワワという犬種の小ささは知識として知ってはいるが、それが同じ犬に襲われるという状況が、ジャミール育ちの彼にはいまいちピンとこない。
「ああ、俺も驚いたさ」
アルデバランは腕を組み、その時の光景を思い出すように頷いた。
魔物や冥闘士との死闘には慣れきっている二人だが、「犬が犬を襲う」という街の小競り合いのトラブルには、どうにも勝手が違って新鮮な響きしかない。
「……なるほど。それで、大怪我をしそうだったその小さな犬を、あなたがその立派な体躯で助けに入った、というわけですか?」
ムウの問いかけに、アルデバランは少し得意げに胸を張った。戦場ではなく、街の片隅で発揮されたその圧倒的な力強さと優しさ。それが、彼女の心を動かしたに違いないと、ムウは容易に想像がついたのだった。
「実際、彼女の犬は結構な怪我をしたよ。彼女は泣きじゃくるし、狩猟犬の飼い主もパニックになってしまって、現場は大混乱だよ」
「でしょうね」
ムウは苦笑した。
目の前にいる男は巨大な岩のような体格をしている。そんな男が突然飛び出してきて大型犬を制止したのだとしたら、周囲の混乱も相当なものだっただろう。
「で、あなたはどうしたんです?」
「とりあえず犬を引き離して、近くの動物病院まで付き添った」
「あなたらしいですね」
「放っておけなかったんだ」
アルデバランは肩を竦める。その声音に気負いはない。英雄的な行為をしたという自覚もなさそうだった。ただ困っている者がいたから手を貸した。
それだけなのだろう。それでもムウには納得できた。
彼女がアルデバランに惹かれた理由が。
大抵の人間は、まず彼の巨体や厳つい顔立ちに目を奪われる。しかし実際に接してみれば分かる。
この男は誰よりも情に厚く、弱い者を見捨てられない。黄金聖闘士の中でも指折りの優しさを持っていることを。
「それで、その後も動物病院へ行ったりとか?」
「ああ。犬の経過が気になってな」
「なるほど」
ムウは小さく笑った。
「それは彼女も勘違いしますね」
「勘違い?」
「自分を心配してくれていると思ったのではありませんか?」
アルデバランは数秒沈黙した。そして、珍しく言葉に詰まる。その反応だけで答えは十分だった。
ムウは思わず吹き出した。
「どうやら図星のようですね」
「……お前、意外と鋭いな」
「長い付き合いですから」
白羊宮のテラスに、穏やかな笑い声が響く。先ほどまでシオンとメリッサのことで重かったムウの心も、この時ばかりは少し軽くなっていた。
親友の恋路を聞くのは、案外悪くない。
そう思いながら、彼は冷めかけた紅茶をゆっくりと口に運んだ。
午後の日差しは少し傾き始め、白羊宮の石壁に長い影を落としている。風も先ほどより穏やかになり、二人の間にはどこかのんびりとした空気が流れていた。
「何と言うか……彼女と俺も、そのチワワと狩猟犬みたいな感じだからな。小柄な子なんだよ」
アルデバランは己の大きな拳を見つめながら、どこか目を細めて愛おしそうに呟いた。その様子がいかにも微笑ましく、ムウは小さく息を漏らす。
「あなたから見れば、世界中のすべての女性は小柄でしょう」
「ははは! 言ってくれるな。しかし、本当に小柄なのだ。分かりやすく言うと、そうだな……メリッサ嬢よりも小さいぞ」
「それは、確かに……」
メリッサも決して背の高い女性ではない。むしろ女性としては平均的な部類だろう。何しろ、シオンの逞しい腕にすっぽりと収まってしまうほど、瑞々しくも華奢な娘だ。
そのメリッサよりも、さらに小さい。
(アルデバランと、その小柄な女性……)
頭の中でその体格差を想像してみる。あの巨漢の腕の中に、それほど小さな女性が収まっている光景。それはそれで、凄まじい絵面になるのではないだろうか。
それと同時に、ムウの胸の奥にまた別の重みがじわりと蘇ってくる。
シオンがその大きな掌で、壊れ物を扱うように、それでいて容赦のない情欲を込めてメリッサを愛撫していた、あの個室の記憶。
男が己より遥かに小さな、庇護すべき存在を激しく欲するとき、そこに宿る剥き出しの独占欲。
アルデバランも、シオンと同じように、その小さな恋人を前にしたときは「男の顔」になるのだろうか。
「……大切にして差し上げてくださいね」
ムウは心のざわつきを隠すように、静かにティーカップを傾けた。
男たちの熱い情愛の波が、すぐ近くまで押し寄せている。それをただ眩しく、そして少しの戸惑いを持って見つめることしか、今のムウにはできなかった。
だが、今はそれでいいのだろう。
そう思いながら、ムウは冷めた紅茶を飲み干した。いつか、この味がもう少し違って感じられる日が来るのかもしれない。その時はきっと、アルデバランに聞いてもらうに違いない。
一陣の風が、ムウの金髪を撫でながら通り過ぎていった。
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