Ch.6:ネオン・レゾナンス
夢の残響は、覚醒してもなおシオンの四肢に重くまとわりついていた。
それから数日、彼は一度も「繭(コクーン)」に潜っていない。仕事は滞り、クライアントからの催促は通知のまま放置されている。ただ、無機質なアパートの一室で、雨音を聞きながら過ごす時間だけが過ぎていった。
だが、どれだけ距離を置こうとしても、五感は裏切りを続けていた。
不意に、鼻腔をくすぐる。現実には存在しない、あの消毒液とオゾン、そしてカイムの肌が放っていた熱い匂い。
コーヒーを口に含めば、それがカイムの血のような鉄の味に変換され、シオンの舌を痺れさせる。
「……くそ、っ」
シオンは流し台にコーヒーをぶちまけた。震える手で蛇口をひねり、冷水で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔は、数日前よりもさらに削げ、瞳の奥には拭い去れない熱病のような光が宿っていた。
その時、閉め切った部屋の静寂を、一通の通知音が切り裂いた。
プライベート・ライン。限られた者しか知らないはずの、暗号化された回線。
画面に浮かび上がったのは、差出人不明のメッセージ。
そこには、テキストではなく、一枚の画像データだけが添付されていた。
シオンがそれを開いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
映し出されていたのは、九龍街の雑踏。ネオンの光に溶け込むように立つ、一人の男の背中。
傷一つない、あの清潔な、しかし内側が完全に壊れた男——カイムの後ろ姿だった。
「……あ、ああ……」
指先が勝手に動いた。画像を拡大する。
カイムは、かつて二人がいたアパートを、正確にはシオンがいま立っている窓の方を、振り返る直前のような絶妙な角度で写っている。
メッセージのフッターに、一行だけ文字列が浮かび上がった。
『同期率、まだ下がっていないだろう?』
その瞬間、シオンの脳内で「回路」が繋がった。
あの悪夢。あの快楽。
あれは単なる自分の深層心理が作り出した幻覚ではなかったのだ。
カイムは、解放される直前、シオンのシステムに……いや、シオンの「脳」そのものに、休眠状態のプログラムを埋め込んでいったのだ。それは同期の残響を利用し、特定の周波数を受け取ることで、遠隔地からシオンの感覚をジャックし、増幅させる「精神のウイルス」。
「……ハ、ハハ……ッ」
シオンは膝から崩れ落ち、自嘲気味に笑った。
拷問官である自分が、獲物によって「改造」されていた。
今やカイムは、この街のどこかにいながら、シオンが見る夢を、シオンが感じる肉体の疼きを、自由自在に操作している。
窓の外では、雷鳴と共にネオンが激しく明滅した。
その光を浴びながら、シオンは自分の胸を強くかきむしる。
恐怖しているはずなのに、カイムから「繋がれている」という事実を知った瞬間、彼の内側にあった言いようのない孤独と空白が、どろりとした黒い歓喜で満たされていくのを感じていた。
「カイム……君は、どこまで、僕を……」
シオンは震える指で、自らデバイスを起動させた。
カイムを追うためではない。
自分の中に植え付けられた「彼」を、もっと深く、精神の最奥まで呼び込むために。
九龍街の雨は、今日もすべてを飲み込んでいく。
二人の精神を繋ぐ見えない糸は、今や現実の境界を越え、後戻りできない破滅へと向かって、より太く、より強固に締め上げられていた。
それから数日、彼は一度も「繭(コクーン)」に潜っていない。仕事は滞り、クライアントからの催促は通知のまま放置されている。ただ、無機質なアパートの一室で、雨音を聞きながら過ごす時間だけが過ぎていった。
だが、どれだけ距離を置こうとしても、五感は裏切りを続けていた。
不意に、鼻腔をくすぐる。現実には存在しない、あの消毒液とオゾン、そしてカイムの肌が放っていた熱い匂い。
コーヒーを口に含めば、それがカイムの血のような鉄の味に変換され、シオンの舌を痺れさせる。
「……くそ、っ」
シオンは流し台にコーヒーをぶちまけた。震える手で蛇口をひねり、冷水で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔は、数日前よりもさらに削げ、瞳の奥には拭い去れない熱病のような光が宿っていた。
その時、閉め切った部屋の静寂を、一通の通知音が切り裂いた。
プライベート・ライン。限られた者しか知らないはずの、暗号化された回線。
画面に浮かび上がったのは、差出人不明のメッセージ。
そこには、テキストではなく、一枚の画像データだけが添付されていた。
シオンがそれを開いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
映し出されていたのは、九龍街の雑踏。ネオンの光に溶け込むように立つ、一人の男の背中。
傷一つない、あの清潔な、しかし内側が完全に壊れた男——カイムの後ろ姿だった。
「……あ、ああ……」
指先が勝手に動いた。画像を拡大する。
カイムは、かつて二人がいたアパートを、正確にはシオンがいま立っている窓の方を、振り返る直前のような絶妙な角度で写っている。
メッセージのフッターに、一行だけ文字列が浮かび上がった。
『同期率、まだ下がっていないだろう?』
その瞬間、シオンの脳内で「回路」が繋がった。
あの悪夢。あの快楽。
あれは単なる自分の深層心理が作り出した幻覚ではなかったのだ。
カイムは、解放される直前、シオンのシステムに……いや、シオンの「脳」そのものに、休眠状態のプログラムを埋め込んでいったのだ。それは同期の残響を利用し、特定の周波数を受け取ることで、遠隔地からシオンの感覚をジャックし、増幅させる「精神のウイルス」。
「……ハ、ハハ……ッ」
シオンは膝から崩れ落ち、自嘲気味に笑った。
拷問官である自分が、獲物によって「改造」されていた。
今やカイムは、この街のどこかにいながら、シオンが見る夢を、シオンが感じる肉体の疼きを、自由自在に操作している。
窓の外では、雷鳴と共にネオンが激しく明滅した。
その光を浴びながら、シオンは自分の胸を強くかきむしる。
恐怖しているはずなのに、カイムから「繋がれている」という事実を知った瞬間、彼の内側にあった言いようのない孤独と空白が、どろりとした黒い歓喜で満たされていくのを感じていた。
「カイム……君は、どこまで、僕を……」
シオンは震える指で、自らデバイスを起動させた。
カイムを追うためではない。
自分の中に植え付けられた「彼」を、もっと深く、精神の最奥まで呼び込むために。
九龍街の雨は、今日もすべてを飲み込んでいく。
二人の精神を繋ぐ見えない糸は、今や現実の境界を越え、後戻りできない破滅へと向かって、より太く、より強固に締め上げられていた。
