Ch.2:ヴァーチャル・ヴィセラ

「繭(コクーン)」の中には、重力も物理的な境界も存在しない。あるのは、シオンが構築した「意思」という名の冷徹な法だけだ。

同期率が60%を超えると、仮想空間の解像度は現実を凌駕し始める。空気に混じる錆びた鉄の匂い、シオンが踏みしめる液状化したデータの床の感触。そして、目の前で拘束されているカイムの、汗ばんだ肌の生々しさ。

「……君の神経系は、本当に優秀だね、カイム」

シオンは指先で空中に光の回路を描き、カイムの「身体データ」を強制的に展開した。
仮想空間の中で、カイムの胸部から腹部にかけてが、まるで硝子細工のように透過していく。拍動する心臓、収縮する肺、そして這い回る蛇のようにのたうつ腸。

「見てごらん。君の脳が描き出している、君自身の内側だ。ネオンの光を反射して、こんなに美しく光っている」

「……は、あ……っ、やめろ……」

シオンは透過したカイムの腹部へ、躊躇なく手を差し入れた。
指先が温かい臓器に触れる。ぬめりとした粘膜の感触と、生きている証である拍動が、同期デバイスを通じてシオンの脳に「快楽」を伴う衝撃として突き抜けた。

「ああ……っ、これだ……」

シオンの瞳が微かに潤み、呼吸が荒くなる。
カイムの内臓を直接握りしめる。その瞬間、実世界のカイムの背が弓なりに反り、拘束具が軋む音を立てた。

「ひ、ぐ……あ、ああああああ……ッ!」

絶叫。
だが、その叫びはシオンにとって、至高の賛美歌だった。
カイムが苦痛に悶えるほど、シオンの脊髄には電流のような痺れが走り、下腹部が熱く疼く。同期している以上、カイムが味わう「損壊の恐怖」は、シオンの脳内では「支配の充足」へと変換され、増幅されていく。

「痛い? でも、心地いいだろう? 自分の存在が、僕という観測者によって、こんなにも激しく肯定されているんだから」

シオンはカイムの心臓をそっと指先で弾いた。
心拍が跳ね上がる。カイムの瞳からこぼれ落ちた涙が、仮想の床に落ちてデジタルノイズとなって弾けた。

しかし、その時。
シオンを包んでいた万能感に、冷たい「澱(おり)」のような違和感が混じった。

カイムの瞳が、激痛に濁りながらも、じっとシオンを見つめ返してきたのだ。
それは、犠牲者の眼差しではなかった。
深淵の底から、獲物を引きずり込もうとする捕食者の目。

「……シオン……お前、今……どんな気分だ……?」

「……何?」

「俺の心臓を……握りつぶしながら……お前の心臓も、同じリズムで、跳ねて……るぞ……」

ドクン、と。
シオンの胸の内で、身に覚えのない鼓動が鳴った。
自分の拍動ではない。カイムの心拍が、同期の糸を逆流し、シオンの循環器系をジャックし始めている。

「……同期のフィードバックが強すぎるだけだ。黙れ」

シオンは動揺を隠すように、さらに深くカイムの内臓へ指を沈めた。
だが、そうすればするほど、シオンの脳内にカイムの「声」が、言葉にならない感情の濁流が流れ込んでくる。

(熱い。もっと壊して。もっと、俺の中に深く。お前が俺を壊すたびに、お前の居場所が俺の中に増えていくんだ——)

「……ッ、これは……僕の思考じゃない……!」

シオンは頭を振ったが、視界が歪む。
ネオンの色彩が混濁し、カイムの開かれた腹部から溢れ出した神経データが、シオンの指先から腕へ、そして心臓へと這い上がり、彼を縛り付け始めた。

「気づけよ……シオン。お前は……俺を拷問してるんじゃない。俺という地獄に、自分を縫い付けてるんだ……」

カイムが笑った。
血の混じった涎を垂らしながら、勝利を確信した、残酷で美しい笑み。

同期率は75%を突破。
シオンの意識の端が、ボロボロと崩れ始める。
彼はまだ気づいていなかった。カイムを廃人にするはずのこの部屋が、今や自分を閉じ込め、変質させるための「繭」へと変わりつつあることに。
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