Ch.1:ニューロ・リンク

空を覆う多層構造の鉄屑が、太陽の光を永遠に遮断してからどのくらい経つのだろうか。降り止まない酸性雨はスラムの腐った匂いを洗い流すこともできず、ただネオンの光を毒々しく乱反射させるだけだ。

九龍街の最下層。そこは、肉体の痛みよりも精神の欠乏が恐れられる場所。シオンは、カビ臭いアパートの一室で、古いコンソールの前に座っていた。モニターの淡い光が、彼の青白い肌を冷たく照らし出している。

「……準備はいい、カイム?」

部屋の中央、拘束椅子に深々と沈んだ男、カイムは答えなかった。頭部に直接差し込まれた「神経同期デバイス」の端子が、彼の呼吸に合わせて鈍く光っている。

シオンの指がキーボードを叩き、システムが起動する。
【同期率:5%……15%……30%】

モニターに映し出される波形は、まだ穏やかだ。だが、シオンの脳内には、デバイスを通じてカイムの「存在」が流れ込み始めていた。他人の体温、肺に溜まる湿った空気、そして——奥底に潜む、裏切り者の焦燥。

「まずは、感覚の『同期』から始めようか。君が裏切った組織の連中が、どんな思いでいたか……君の脳で、直接翻訳してあげるよ」

シオンがスライダーをゆっくりと押し上げる。
仮想空間、通称「繭(コクーン)」の中で、シオンはカイムの前に立っていた。

実世界のカイムの肉体は無傷だ。だが、この仮想の静寂の中では、シオンの手には冷たく輝くメスが握られている。

「……あ、あ、ああッ……!」

実世界のカイムの喉から、かすれた悲鳴が漏れた。
シオンがメスの先端を、カイムの仮想の掌にそっと押し当てたのだ。

「痛い? いや、これはまだ『痛み』じゃない。脳に送られているのは、ただの電気刺激だ。でも君の脳は、それを現実だと誤認している」

シオンはわざとゆっくりと、メスを深く沈めていく。
掌が裂け、肉が爆ぜる感覚。その情報が同期デバイスを通り、シオンの脳にもかすかな「痺れ」として逆流する。

「……っ、ふ……」

シオンの唇が、無意識に震えた。
カイムの苦痛を観測するたび、シオンの背筋に走る妙な高揚感。他人の神経を我が物にするという万能感。それは、シオンにとって唯一、自分が「生きている」と実感できる瞬間だった。

「ほら、もっと見せてよ、カイム。君の神経が、絶望に染まっていくところを」

同期率は45%に達した。
シオンの指先は、今やカイムの仮想の胸元にかけられている。
服を裂き、剥き出しになった皮膚を、シオンは愛おしそうになぞった。その指先に伝わるカイムの動悸。速すぎる鼓動は、恐怖か、それとも——。

シオンは気づかなかった。
モニターの波形の中に、微かな「ノイズ」が混じり始めていることに。
それは、本来なら受動的であるはずのカイムの意識が、同期の糸を逆に辿り、シオンの精神の深淵へとしがみつこうとする、静かな予兆だった。

「……シオン……お前……笑って、るのか……?」

拘束椅子の上で、カイムが掠れた声で呟いた。
シオンは一瞬、息を呑む。
自分の頬に触れると、確かに、歪な笑みが張り付いていた。

「……笑ってなんて、いないよ。僕はただ、任務を遂行しているだけだ」

「嘘だ……。お前は……俺の痛みを、欲しがってる……」

カイムの瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
その瞬間、シオンの脳を貫いたのは、今まで感じたことのない、熱く、重苦しい「快楽」を伴った衝撃。

シオンはまだ、自分が獲物を追い詰めているつもりでいた。
だが、その足元に広がる泥沼が、自らの足をも飲み込み始めていることに、彼はまだ気づいていない。

酸性雨の音が、激しさを増していく。
二人の精神を繋ぐデバイスは、もはや後戻りできない同期の渦へと加速し始めていた。
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