2.経過
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「まだ無理をしてはなりませんよ。それだけ治りが遅れてしまいまする」
「………あし、使えないと……慶次さま、が…」
定期的に様子を見に来る薬師に今日も脚を診せたが、まだ回復には遠いらしい。
診察に同席したまつが、薬師に言われたことを確認するように、諭すように少女に言い聞かせる。
ものすごく言い出しにくそうに小声で呟く少女からは、未だ分厚い壁でこちらを隔てられているようだった。
極力脚を使わないように、というお達しのおかげで、事あるごとに慶次がやってきては移動を手伝う…と見せかけて自分の連れていきたい場所へ少女をあちこち連れて行ってしまうのだ。
かといって放っておいても、少女はあっという間に部屋の苔に成り果てるだけなので、実情はどっちもどっち、といったところだろう。
前田の家に居候するようになってひと月程経った。
当初に比べれば少しは打ち解けたものの、本当に微々たるものだ。あの喪失の衝撃から氷山のように凍りついた少女の心は、未だ鋭い冷気を纏って一向に溶ける兆しを見せない。
それでも慶次をはじめ前田家の人々は温かく手を差し伸べ続けている。
「ろくー!脚、どうだった!?」
少女の気持ちなどお構いなしとでも言うように、部屋の襖を派手に開けて慶次が乗り込んできた。
「……もう、だいじょうぶ、で…」
「あらら、まだ駄目みたいだねぇ…」
露骨に目を逸らしながら答えれば、誰にだって見破るのは容易い。
この次の展開の予想がついたのか、ろくの身体が強張る。逃げるべく両腕で這うように移動しようとしたところを慶次より先にまつが捕まえた。
声を上げる前に少女は抱きあげられて、まつの膝上に乗せられた。
少女が女性に抱きあげられた記憶は実は比較的少ない。今より幼い頃は、城の女中に抱っこされた事もあったが、それ自体もかなり稀な出来事だった。基本的には父親にべったりだったせいだ。
少女は母親の顔を知らない。少女が物心つく前に病を患って亡くなっていたという。父はもちろん、歳の離れた兄は母の存在を知っていた。
やがて自分の母上はどんな人だったのか聞かされるようになり、少女の頭の中だけでも母親を存在させようとした。けれど想像した母では、父や兄と同等に扱うことはどうしてもできなかった。
特徴を聞いても顔が思い浮かばないし、性格や物腰を教えられても、実際に声が聞こえてくるわけでもない。
どう努めても少女にとっての母親は、血の通わぬ幻影に過ぎなかった。
これが死という絶対的な境界なのだろうか。幼い心ながらにそう考えた。
人は皆いつかは死ぬ事を理解するようになる頃には、寂しい喪失感を覚えた。
手の届かない場所。言葉や記録などでは到底補えない領域。
その淵は覆らない線引きの先にある。どれだけ望んでも、越えてしまった存在が戻って来ることはない。
母親がいないのが当たり前だった。けれどもしも母が生きていたら…。父や兄とは違う、女性特有の抱き心地を感じる度に『母親』の存在、記憶を無意識の内に探しているのかもしれない。
それゆえだろうか、女性に抱きあげられる事自体には、それほど抵抗を感じない。
「慶次、今日はこのまま休ませてあげましょう」
「えー!今日は連れていきたい場所が…」
「またにすればいいでしょう。ろくも毎日慶次にお世話になるのは申し訳ない、と感じているのだと思いますよ」
「俺は気にしてないよ。じゃあ今日は一緒に屋敷でのんびりしようぜ!」
それならいいだろ?と相変わらず笑顔を絶やさない慶次と対照的に、少女の顔がひきつる。にじりよってくる彼に対し思わず後ろに下がりたくなるが、少女の身体はまつの腕にしっかり収まっているため身動きが取れない。
「ところで慶次、今日は先に犬千代様と鍛錬の約束をしていたのではありませんか?」
「あ、ヤベ!そうだった…!」
少女の手前、具体的には言わないが、まつは武士の本分を全うする意欲に消極的な慶次に厳しい目を向けている。
今回は素で忘れていたのか、慶次は慌てて跳ね起きると、少女にまた遊ぼうな!とだけ言って部屋を飛び出していった。
部屋の中が一気に静かになると、落ち着いた声でまつが切り出した。
「ろく、今日は少しまつめとお話しませぬか?」
「…………」
「ろくは私たちに常に遠慮しておりますゆえ、おなご同士とならばあるいはと。何か話したい事はありませんか?」
「…………けいじ、さま…」
「あら?」
何の気なしに、いや、意識しないところでも彼の事がずっと気になってしまうのだろうか。思わず名を呟いてしまった少女は慌てふためいた。
「なんでもありません…!」
「なにゆえ恥ずかしがるのです。慶次も喜びますよ」
「だッ、だめです!いけません!」
微笑ましく見守るまつとは裏腹に、取り消さなきゃいけない一心で叫んだ声は思いの外大きくなった。
目を丸くするまつの視線に気づいて、再び俯くと両手で顔を覆った。
「……だめ、なのです。………でも、傷つけたくは、ないです」
「ろく……」
「どうしましょ、う……まつさま。このままでは、ずっと、けいじさまは…」
関わってはいけないのだけれど、傷つけたくもない。それだけは紛れもない本心。
それだけは慶次の側にいる誰かに伝えなければならないと感じていた。
「では、ろくは自分の事は放っておいてほしいのですか?」
複雑な感情を重ねるようなまつの声色に、気づかないふりをして少女は浅く頷いた。
「そうなのですね。ですが、それが一番慶次が悲しく思う事なのですよ」
まつの腕に抱かれるろくの身体が強張った。
「あなたに心から笑ってほしいと。それゆえに新しいものを見せたり、楽しい場所へあなたを連れて行くのです。強引ではありますが、一緒に過ごすうちに少しでも元気になってくれたら、と」
思わず顔を覆った掌がどんどん冷えていく。対照的に触れている目元だけはどうしてか、熱く、熱く、滲んでしまう。
これは悲しいだけの涙じゃない。だからこそ、いつまでもこのままじゃいけない。
何度も何度も突き離しているのに、見放してもらえない。そんな現実が少女の胸を貫き、同時に融かそうと響いてくる。
「わたしは、けいじさま……前田の皆様には、失礼なことばかりしてます。でも、優しくてしてくださるのは、なぜですか」
「ではろく。もしもあなたの目の前に見知らぬ人が、ひとりぼっちで泣いていたら、どういたしまするか?」
「どうして泣いてるのか、聞きます……それで、泣かなくてもいいように、何か、助けてさしあげた……ぁ、」
「そういう事ですよ」
「でも、でも、わたしはそういう人達とはちがいます!助けられても…!」
「助けられても?」
「えっと、えっと……」
無関係だからと放っておくことは出来ない性。無償の優しさの理由は少しはわかった。けれどそれを恐れる自分に、受け取る資格はないと少女は感じている。
やさしいひとたち。そんな人を悲しませたくはないのに。それでも心は開けない。
また失うのが何よりも恐ろしい。何の力もない自分が悲しい未来を打ち破れるはずもない。
そう、己は無力。誰も守る事ができない。
度々視るあの戦場の夢。男も女も齢も関係なく、無限の骸の上で泣き叫ぶ……取り残された人たち。
……あんな現実を打ち砕ける、それだけの力が自分にあれば。
そうすれば、けいじさまも。こんな弱いわたしのことをきっと心配しなくなるはずだ。
わたしと同じ人たちをこれ以上増やさないためにも。わたしはこのままじゃいけないのだ。
心配してくれる人と、『尊い命』の為になら、これから頑張れる気がする、と。
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