はぐれ者の花嫁
「――なんのつもりだ」
ソンロウの声は、意外なほど静かだった。しかし、ユキの肩を岩壁に押し付ける力の強さが、見せかけのものだと告げている。巨大な手の中で肩が軋み、ユキは息を詰まらせる。
「……っ」
「言え、ユキ。なぜこんな真似をした」
白と黒の斑の毛並みの下――黄褐色の瞳が、ゆらぐ炎のようにユキの眼を灼こうとしていた。
(こんなに怒っている先生は、はじめてだ)
ユキは強く拳を握りしめ、胃の腑が冷たくなる感覚に耐えた。……広間から攫われるように、人気のない岩場に連れてこられたのだ。ユキは冷たい岩壁を背に、愛する師匠に追い込まれている。
「……おれは、後悔していません」
ユキは、怯むなと己に言い聞かせ、口にした。少しでも怖じた様子を見せれば、さっきの言葉は撤回されてしまうだろうと、わかっていたのだ。腹に力をこめ、睨み返す。
(先生にいくら怒られても、撤回なんかしない)
ソンロウは感情の読めない顔つきのまま、ふーと長く息を吐いた。
「それじゃ、俺の問いに答えてねえな。――なぜ、俺を婿に選ぶようなことをしたんだ? お前が言わねば、俺は勝手に見当をつけるだけだが……」
「――!」
荒い指先が、ユキの顎を持ち上げる。平時、ユキを幼子扱いするときと同じ仕草だ。なのに、喉に刃を押し付けられているかのようで、身動きできない。
ソンロウは、静かな声で続ける。
「なあ、白狼の若君様よ。俺を憐れんだか? 斑のはぐれ者ならば、族長の座を喜ぶだろうと」
「……っ、違います!」
はっとして叫んだ。ソンロウを憐れむなど、ありえないことだった。
ユキはこれまでに、ソンロウほどの狼に出会ったことは無い。誰よりも強く、美しくて……どんな危険な戦いにも先陣を切っていく背を、どれほど憧れの目で見つめたことか。
「おれは、先生を尊敬しています! 一族の誰より……いいえ、この世のどこにも、先生ほどの人はいません! だから……おれでなければ、族長はあなたがいい。――あなたしか、考えられません」
ユキは心からの情熱を込めて、恋しい狼に訴える。本心であるゆえに、痛いほどに切実な声音が岩間に響いた。
(おれのエゴだとわかっている。それでも……あなたがいい。この想いは告げられなくとも……)
零れ落ちそうな恋心は、唇を噛んでせき止めた。せめて、ソンロウの為を思うならば、婿は形式上の方が良い。ユキは、それで全く構わない。
あなた以外を、伴侶にせずに済むのなら。
「お前……」
ソンロウは、僅かに目を瞠り――吐き捨てるように呟いた。
「この馬鹿野郎。ガキの憧憬で、自分の生き方を見誤るなど……」
「な……」
ユキが形の良い眉を逆立てる。
「なぜ、見誤ったなどと決めつけるのですっ? おれとて、もう十八。大人ですから、自分の道くらい見極めます」
ユキにも矜持がある。族長の息子として、己を律するようにと育てられてきた。同年代の狼よりは、自分の生き方については考えてきたつもりだ。
「おれは、自分で選びました。後悔などしません……!」
それに――ずっと抱え続けた、ソンロウへの想いなのだ。ガキの気の迷いと切り捨てられるのは、我慢ならなかった。
息巻くユキに、ソンロウは眉根を寄せた。
「自分を大人と言う奴ほど、ガキなんだよ。坊や」
「ですからッ……子ども扱いはおやめくださいと……申し上げております!」
脚を鋭く蹴りあげて、ソンロウの拘束を逃れようともがく。片腕で軽々受けとめられ、ごつい膝で腿を岩に磔にされる。
「く……っ」
長じてからは、父にさえ引けをとらないユキだが、ソンロウには赤子同然だ。痛みを与えられることさえないのが、ますます悔しい。喉の奥で唸っていると、ソンロウは黄褐色の目を細めた。
「わかってねえのはお前の方だ」
唸るような呟きに、ユキは目を瞬く。ごつい手に顎を掴まれ、強引に上向かされた。
「俺を婿に選ぶとは、どういうことか。お前は、おおやけに俺の雌になるってことだ」
「……っ!」
かたい親指で頬をなぞられる。色の滲む仕草に、ユキはさっと頬を赤らめた。
「……それは……もちろん、わかっております」
ユキは動揺を押し隠し、頷く。ソンロウは笑った。いささか自嘲の響きを持った笑みだった。
怪訝に思う間もなく、ユキは強い力で岩に押し付けられる。
「何を……!」
「動くな」
咄嗟に暴れようとした手を、頭上にひとまとめにされてしまう。
(虜囚のようじゃないか……!)
困惑のまま師匠を見上げ、ユキは息を飲んだ。
ソンロウの眼差しが、違う。見たことのない熱と、どろどろした感情が滾っているのだ。見つめられているだけで、ユキの心にも甘痒いような、気恥ずかしいような感覚がわきおこってくる。
「……ぁ……っ」
目を覗き込まれることに耐えられず、ユキは俯く。火のような双眸に、秘めた恋心を暴かれそうで恐ろしい。片手で顎を掴まれ、上向かされる。
甘い香気が迫り――唇に、やわらかなものが触れた。
「――!?」
眦が裂けんばかりに、目を瞠った。
接吻、されている。先生に――そう気づき、全身が火になったかと思う。
「ゃ……っ、う……!」
ユキは咄嗟に身を捩り、逃げようとする。しかし、ソンロウの強固な拘束に、指先ひとつも動かすことができない。顎を掴まれ、唇が甘く擦り合わされる。初めて経験する、痺れるような感覚が脳を焼き、ユキは慄く。
(うそ……なぜ、こんな……)
雌狼に愛され、愛を返してやっていたソンロウを知っている。弟ほどにしか思っていない自分に、なぜこのような真似を――ひどく混乱しながらも、接吻に酔わされた。
「……っ、は」
やがて――花の咲くような音を立て、唇が離れる。ユキは真っ赤に上気した顔で、荒く息を吐いている。足に力が入らず、ソンロウに拘束され、やっと立っている有様だ。
ソンロウはユキを冷たい床に座らせ、言う。
「俺は、かざりの妻はいらん」
「……っ」
頬がカッと熱を持つ。唇を奪われて、ユキはソンロウの言葉の意味を理解していた。つまり、雌としての役目を求めると言うことだ。ソンロウに恋心を持っていなければ、屈辱に感じたかもしれない。
(先生は、おれをわかっていない……)
今度はユキが笑った。ソンロウのよこした逃げ道など、元から不要なのだ。
ユキは、胸を張ってみせる。
「望むところです。先生が望むなら、なんにでもなりましょう」
「……お前」
瞠られた黄褐色の双眸に、少し胸がすく。
(おれの想いを見くびるな)
ソンロウを愛している。この気持ちを疑うのは、愛する師匠でも許さない――そう思いを込めて、ユキは笑った。ソンロウは呆気にとられ……息を吐く。
「馬鹿野郎」
しかし、声から険はとれていた。ユキが笑っていると、大きな手が髪をかき乱す。
「わあっ」
「――いいか。正式な婚儀は半月後だ。考え直すまでの猶予をやる」
ソンロウはそう言い残し、踵を返す。
去り際、白と黒の毛並みが風に巻き上がる。精悍な顔に残る凄惨な傷跡の数々が、垣間見えた。
(あの方に、おれは与えたい。おれが、そうしてもらったように……)
ユキは、声を張り上げた。
「――おれは、撤回などしませんっ!」
ソンロウは振り返らなかった。
ソンロウの声は、意外なほど静かだった。しかし、ユキの肩を岩壁に押し付ける力の強さが、見せかけのものだと告げている。巨大な手の中で肩が軋み、ユキは息を詰まらせる。
「……っ」
「言え、ユキ。なぜこんな真似をした」
白と黒の斑の毛並みの下――黄褐色の瞳が、ゆらぐ炎のようにユキの眼を灼こうとしていた。
(こんなに怒っている先生は、はじめてだ)
ユキは強く拳を握りしめ、胃の腑が冷たくなる感覚に耐えた。……広間から攫われるように、人気のない岩場に連れてこられたのだ。ユキは冷たい岩壁を背に、愛する師匠に追い込まれている。
「……おれは、後悔していません」
ユキは、怯むなと己に言い聞かせ、口にした。少しでも怖じた様子を見せれば、さっきの言葉は撤回されてしまうだろうと、わかっていたのだ。腹に力をこめ、睨み返す。
(先生にいくら怒られても、撤回なんかしない)
ソンロウは感情の読めない顔つきのまま、ふーと長く息を吐いた。
「それじゃ、俺の問いに答えてねえな。――なぜ、俺を婿に選ぶようなことをしたんだ? お前が言わねば、俺は勝手に見当をつけるだけだが……」
「――!」
荒い指先が、ユキの顎を持ち上げる。平時、ユキを幼子扱いするときと同じ仕草だ。なのに、喉に刃を押し付けられているかのようで、身動きできない。
ソンロウは、静かな声で続ける。
「なあ、白狼の若君様よ。俺を憐れんだか? 斑のはぐれ者ならば、族長の座を喜ぶだろうと」
「……っ、違います!」
はっとして叫んだ。ソンロウを憐れむなど、ありえないことだった。
ユキはこれまでに、ソンロウほどの狼に出会ったことは無い。誰よりも強く、美しくて……どんな危険な戦いにも先陣を切っていく背を、どれほど憧れの目で見つめたことか。
「おれは、先生を尊敬しています! 一族の誰より……いいえ、この世のどこにも、先生ほどの人はいません! だから……おれでなければ、族長はあなたがいい。――あなたしか、考えられません」
ユキは心からの情熱を込めて、恋しい狼に訴える。本心であるゆえに、痛いほどに切実な声音が岩間に響いた。
(おれのエゴだとわかっている。それでも……あなたがいい。この想いは告げられなくとも……)
零れ落ちそうな恋心は、唇を噛んでせき止めた。せめて、ソンロウの為を思うならば、婿は形式上の方が良い。ユキは、それで全く構わない。
あなた以外を、伴侶にせずに済むのなら。
「お前……」
ソンロウは、僅かに目を瞠り――吐き捨てるように呟いた。
「この馬鹿野郎。ガキの憧憬で、自分の生き方を見誤るなど……」
「な……」
ユキが形の良い眉を逆立てる。
「なぜ、見誤ったなどと決めつけるのですっ? おれとて、もう十八。大人ですから、自分の道くらい見極めます」
ユキにも矜持がある。族長の息子として、己を律するようにと育てられてきた。同年代の狼よりは、自分の生き方については考えてきたつもりだ。
「おれは、自分で選びました。後悔などしません……!」
それに――ずっと抱え続けた、ソンロウへの想いなのだ。ガキの気の迷いと切り捨てられるのは、我慢ならなかった。
息巻くユキに、ソンロウは眉根を寄せた。
「自分を大人と言う奴ほど、ガキなんだよ。坊や」
「ですからッ……子ども扱いはおやめくださいと……申し上げております!」
脚を鋭く蹴りあげて、ソンロウの拘束を逃れようともがく。片腕で軽々受けとめられ、ごつい膝で腿を岩に磔にされる。
「く……っ」
長じてからは、父にさえ引けをとらないユキだが、ソンロウには赤子同然だ。痛みを与えられることさえないのが、ますます悔しい。喉の奥で唸っていると、ソンロウは黄褐色の目を細めた。
「わかってねえのはお前の方だ」
唸るような呟きに、ユキは目を瞬く。ごつい手に顎を掴まれ、強引に上向かされた。
「俺を婿に選ぶとは、どういうことか。お前は、おおやけに俺の雌になるってことだ」
「……っ!」
かたい親指で頬をなぞられる。色の滲む仕草に、ユキはさっと頬を赤らめた。
「……それは……もちろん、わかっております」
ユキは動揺を押し隠し、頷く。ソンロウは笑った。いささか自嘲の響きを持った笑みだった。
怪訝に思う間もなく、ユキは強い力で岩に押し付けられる。
「何を……!」
「動くな」
咄嗟に暴れようとした手を、頭上にひとまとめにされてしまう。
(虜囚のようじゃないか……!)
困惑のまま師匠を見上げ、ユキは息を飲んだ。
ソンロウの眼差しが、違う。見たことのない熱と、どろどろした感情が滾っているのだ。見つめられているだけで、ユキの心にも甘痒いような、気恥ずかしいような感覚がわきおこってくる。
「……ぁ……っ」
目を覗き込まれることに耐えられず、ユキは俯く。火のような双眸に、秘めた恋心を暴かれそうで恐ろしい。片手で顎を掴まれ、上向かされる。
甘い香気が迫り――唇に、やわらかなものが触れた。
「――!?」
眦が裂けんばかりに、目を瞠った。
接吻、されている。先生に――そう気づき、全身が火になったかと思う。
「ゃ……っ、う……!」
ユキは咄嗟に身を捩り、逃げようとする。しかし、ソンロウの強固な拘束に、指先ひとつも動かすことができない。顎を掴まれ、唇が甘く擦り合わされる。初めて経験する、痺れるような感覚が脳を焼き、ユキは慄く。
(うそ……なぜ、こんな……)
雌狼に愛され、愛を返してやっていたソンロウを知っている。弟ほどにしか思っていない自分に、なぜこのような真似を――ひどく混乱しながらも、接吻に酔わされた。
「……っ、は」
やがて――花の咲くような音を立て、唇が離れる。ユキは真っ赤に上気した顔で、荒く息を吐いている。足に力が入らず、ソンロウに拘束され、やっと立っている有様だ。
ソンロウはユキを冷たい床に座らせ、言う。
「俺は、かざりの妻はいらん」
「……っ」
頬がカッと熱を持つ。唇を奪われて、ユキはソンロウの言葉の意味を理解していた。つまり、雌としての役目を求めると言うことだ。ソンロウに恋心を持っていなければ、屈辱に感じたかもしれない。
(先生は、おれをわかっていない……)
今度はユキが笑った。ソンロウのよこした逃げ道など、元から不要なのだ。
ユキは、胸を張ってみせる。
「望むところです。先生が望むなら、なんにでもなりましょう」
「……お前」
瞠られた黄褐色の双眸に、少し胸がすく。
(おれの想いを見くびるな)
ソンロウを愛している。この気持ちを疑うのは、愛する師匠でも許さない――そう思いを込めて、ユキは笑った。ソンロウは呆気にとられ……息を吐く。
「馬鹿野郎」
しかし、声から険はとれていた。ユキが笑っていると、大きな手が髪をかき乱す。
「わあっ」
「――いいか。正式な婚儀は半月後だ。考え直すまでの猶予をやる」
ソンロウはそう言い残し、踵を返す。
去り際、白と黒の毛並みが風に巻き上がる。精悍な顔に残る凄惨な傷跡の数々が、垣間見えた。
(あの方に、おれは与えたい。おれが、そうしてもらったように……)
ユキは、声を張り上げた。
「――おれは、撤回などしませんっ!」
ソンロウは振り返らなかった。