スマホの中の画廊

 黒い額縁の中で微笑む彼女の姿は白い部屋で見たときよりも髪にはつやがあって、赤ら顔で、筋肉も肉もほどほどについた身体で、最後に見た俺の記憶の姿と違っていたけれど、笑顔だけは変わらず穏やかで『死にたくないよ』と告げたときとよく似ていた。
彼女の家族や彼女がよく学校で一緒にいた女たちやクラスメイトが啜り泣く声のすべてが耳障りに感じる。
『どうして』『こんな、早すぎる』『もっと一緒にいたかった』『語りたいこといっぱいあったのに』そんな当たり障りのない後悔の言葉ばかり。
健康的だった彼女が痩せこけ、死に近づいていく姿を見ることが恐ろしくなって目をそらし続けてきたこいつらが軽々しく口にしていいものじゃないだろうと心の中だけで叫んで、彼らを睨んだ後お経に耳を傾ける。



 最後の別れです、葬儀屋がそう言って、棺桶の扉みたいになっている所を開けてくれた。目を閉じている彼女を見た。
死化粧、というものをしているおかげだろうか。
病院で見た彼女よりも血色があって、健康的に見えた。まるでそこで眠っているかのような、穏やかな顔だった。不思議だ。目の前の彼女こそ、心臓が動いていないのに。

それぞれ、死んだ彼女に声をかけ花を入れ終わり、彼女を入れた箱は葬儀屋に連れられ、パタン、ガチャ、ひとつの扉の中に閉じ込められ、スイッチを押される。
彼女はたった今、燃やされている。もう骨ばかりの肉なんてほとんどないのに、髪や皮膚すら焼かれてしまう。
やめろ、そう叫んで止めたくなる衝動は拳を作り生温いものが流れてくるのを感じて、何とか耐えることが出来た。
彼女が燃やされている間、俺以外の人間は彼女の話をした。彼女がまだ一人で歩いていたとき、彼女がまだ『未来』の話ができていたときの話ばかり。最近の彼女の話をしないこいつらと一緒の空間にいたくなくて、誰にも何も言わず外に出た。
外には煙草を吸っている喪服姿の男女が数人いたが、記憶する限り彼女の関係者ではないとわかり、ここでやっと、肩の力を抜くことが出来た。
柱に寄りかかり、空を仰ぐ。
雲ひとつない、嫌味なほど青い空だった。
ここにあいつらがいるのなら、こんな綺麗な空の中で行けるなんてあの子の人柄が現れているねなんて、晴天で良かったなんて、お綺麗なことを言うのだろう。彼女の最期に等しい姿を見ていないあいつらは。
(土砂降り……いや、そうなると葬儀屋や葬式に来ている俺らが大変か。それならばせめて曇天だったら良かったのに)
その方が、大雨や大雪が来ると喜ぶ彼女らしいだろう。いや、それは昔の話だろうか。今はどうか分からない。
いつの間にか雨や雪の煩わしさを知って嫌いになっていたかもしれない。だけど、俺の知っている彼女は雲ひとつない綺麗な青い空をつまらないと唇を尖らせるようなやつだったから。
まあ、なんやかんや彼女を理由にしたが、今の俺の心として晴天は辞めて欲しいという自分勝手な理由だ。彼女を綺麗なイメージのままでいさせたくなかった。ただの人間の彼女が他人の想像で神格化させられるだなんておぞましくて仕方なかった。

痛いほど青い空を見上げ、柱を背にしたままずるずるとその場にしゃがんで空から逃げるように俯いた。

彼女が羨ましくて、好きだった。
恋愛感情がそこに含まれていたのか、今でも分からないけれど、とにかく好意は持っていたんだ。
近所の女の子、誰にでも分け隔てなく話しかけられる人懐っこい女の子。人より少しだけ感性が違う女の子。そして、何より自分の絵を愛していた女の子。
制服のポケットから取り出したむき出しのスマホのロックを外せば、そこには色鮮やかな絵の数々。
最終更新はあの日。最後に会話した直後の時間に投稿されている。
青い空の真ん中を裂くように黒のような灰色が差し込んでいる絵だった。
 彼女が創った絵達が並ぶサイト、彼女のスマホの中の画展。他のクラスメイトは知っているのか分からない。けれど彼女はサイトを作って一番に俺に教えてくれたのは知っている。中学の頃からコツコツと投稿されている画展を、俺は空いた時間で眺めていた。俺は多分一般的な感覚だから絵の良し悪しなんて分からない、この絵で何を伝えたかったのかなんて、何度も何時間も見たって分からない。だけど、彼女の絵は好きだ。このサイトを見ていると彼女が楽しそうに絵を描く姿がすぐに思い浮かぶことが出来た。こちらのことなんて気にせず、時間も自分の空腹すら気にせず、ただただ自分の作品の完成のために爛々と目を輝かせ、動かす手とにやける口角、そんな彼女を見るのが昔から好きだった。彼女はこの先何十年ずっと絵を描き続けていくのだろうと、その隣で、なんて言わないのでこれからも彼女が許してくれる限りそっと後ろから見つめさせて欲しい、そう思っていたのに。

どうして、病に倒れたのは彼女だったのだろうか。
なあ、神様。いるのかよ。
いるわけねえよな、いたらこんな残酷なことしねえよ。スマホを掌と掌で挟み込んだ。
これから先、色んなところに行って色んなものを見て色んな人と出会って、色んなものを描いていくはずだった彼女。
怠惰な俺なんかとは大違いなんだ。
昔から勉強も運動も出来ないわけではないが特に好きじゃなくて、絵を描くのも本を読むのも授業のためにやっているだけで、たまに漫画やアニメやドラマは見ることはあっても、ただの暇つぶし程度だった。
好きな芸能人もアイドルもいないし、料理や家事も親に言われたらするぐらいだし、流行りの音楽を聞いても深く知りたいアーティストもいない。友達に誘われたから陸上部に入ったけれど、大会に選ばれたいというわけでもない。本当に、俺はつまらない人間だ。今も何の目標もなくこれからも打ち込めるものを見つけられる自信はない。自分の実力で行けそうな大学に入って、とりあえず社会人になって、結婚できそうならして子どもができそうなら作る、それだけ。世界に何の影響を与えるような人間にも社会に貢献できるような人間でもなく、ただただ世界にいるだけの人間になる。そんな自分がすぐに想像ができる。
向上心を持てとよく言われるが、持つ意味が分からない。だから、死ぬのなら彼女じゃなくて俺だろう。
やりたいことがある、彼女が生きるべきだったのに。
(俺が死ねば、良かったのに)
心の底からそう思った。嫌味なほど目が痛いほど青い空を見上げて、目を細めて彼女の最期はどうだったのだろうかと思いを馳せる。



最期の最後。彼女はどんな気持ちだったのだろう。
いつも通りに死にたくないと思ったのだろうか、それともなんだかんだでやりたいことは出来た満足に逝ったのだろうか、それとも、俺の前では終ぞ言わなかった誰かへの恨み言を言ったのだろうか。
そのどれもを想像して、そのどれもがそうであって欲しいと思いながら、そう思わないで逝っていてほしいと願う。
せめて。
せめて……彼女が死んだときに感じた孤独が、少しでも薄くなっていたら、良いと思う。
彼女が実際俺のことをどう思っていたのかもう知る術なんてないけれど、せめて、最期のとき寂しいと思わなかったらいい。
死にたくないよと笑って言う彼女を忘れることは俺の刺激も何もない平坦な人生のなかで唯一できないことだろう。



気持ちが少し落ち着いて、みんながいるところに戻ってみたら丁度彼女の火葬が終わったと葬儀屋に呼ばれ、移動する。
そこには真っ白な骨があった。
髪も肉も臓器も失って、すっかり細くて脆い骨になってしまった彼女を前にしても俺は泣かずにただただ目の前の現実を直視した。
彼女は。
俺の前で泣いたりしなかった。最後に別れたときにやっと死にたくないと弱音を吐いて、泣きそうな顔をしただけで、涙を零すことなんてなかった。

だから。
泣かねえ。俺は、彼女の前では。こいつらの前では、絶対に。
平然とした顔の俺を薄情だとあいつらは言う。人でなしとひそひそと言う。そんなもの聞き流した。それを言うなら、彼女の最期の姿を見なかったお前らは何なのだと問い詰めたくなるのも、都合のいいお花畑共とわらいたくなるのも、泣きたいのも。その全てを拳に込めた。

人前で決して泣かなかった彼女の事実を知る俺は、どうしても、泣くわけにはいかなかった。俺が彼女の前で泣いたりなんかしたら、全てを台無しにさせてしまう気がしたんだ。
彼女が小さな箱に収められていくのをただただにらみように見つめていた。俺が覚えているのはそこまで。




ーーー気がつけば、俺は自分の部屋のベッドの上で寝転んでいた。空も暗くなっていた。昼間はあんなに晴れていたのに、星も月も見えない真っ暗な空。時間を確認するために握りしめていたスマホを、いつもの癖でロックを解除していた。
「っ」
息を飲む。画面の中に映し出されているのは、彼女の画展。中学の時から更新を続け、投稿数は三桁をすでに超えている。期末テスト前にも高校受験前にも更新されていたのを呆れたことを覚えている、夏休みなんてほぼ毎日更新されていたのを覚えている。病に倒れてからも更新されていたことも、しかと覚えている。更新されたらすぐに見に行っていたのだから。俺は、彼女の絵のファンだったから。いつもいつも新作を待っていた、スランプになったときには心配にもなった。

「あ」

 たくさんの絵たち。彼女が生み出したものたち、彼女が楽しみながら苦しみ書き上げたものたち。全て彼女が創り上げたもの。完成を楽しみにして、次の更新を待つのもじれったくも楽しかった日々。

「う、あ、ああ」

 もう、そんな日々は俺に訪れることはない。だって、彼女は……死んだから。二度と最終更新日が動くことはない。新作が上がることはない。彼女は、死んだ。死んだんだ、彼女は。

『死にたくないよ』
「っ、死ぬな、よ。死なないで、くれよ……っなんで!死んだんだよ!!うう、うああああああああ!!!」



 誰もいない、一人きりの部屋のなかでスマホを壊れそうなほどに握りしめ、彼女の最期の声と姿を脳内に浮かべて、彼女の死を悔やむ言葉を吐くように泣き叫んだ。
 どれだけ泣いて叫んで疲れ果てて眠りについて、また起きてスマホのなかの画展を見たとしても。

 二度と、新たな作品が展示されることは無いのだ。


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