『青服の日常』より

 用事があると言って先に帰った友人。一人残されたカフェで俺は憂鬱さに呑まれ動けなくなっていた。
 視界が瞬く。この時期に限らずいつもそう。商業社会はいついかなるときもイベント続き、ディスプレイに飾り付け、色とりどりの服装に包装紙、それら全てに俺の視界は瞬いてしまって仕方がない。
「憂鬱だ、」
 こぼしたため息を受け取る者はいない。それはそうだ、誰かにこの憂鬱を受け止めさせようとは思わない。他人に憂鬱を受け取らせるなんてただの迷惑行為だ。だから友人の前では隠している。隠して、隠して、一人になった瞬間に呑まれるのだ。
 店の内装はチカチカするし、客の話し声は頭を締め付けるし、一刻も早くここから去りたいのに身体が動かない。何をしても無駄な気がする。立ち上がるのも無駄、片付けるのも無駄、目を閉じることも無駄、何をしても俺はどこにも逃げられない。このままここで刺激たちに苛まれ続けることこそが俺には最も相応しいのではないかなどと思考が加速してゆく。
 妄想だ。妄想に囚われて生きている。俺の人生はそんなことばかり。妄想で物を見、妄想で物を理解し、妄想で言葉を発し、嫌われ避けられ一人になる。
 だから俺は妄想を隠すようになった。本当のことを言わなくなった。把握した「普通」しか言わなくなった。
 友達は減らなかった。むしろ増えていった。きっと皆は「普通」が好きなのだと、俺はそう認識した。
 普通普通と言うが俺が普通でないわけではない。感じ方、知能、その辺りは普通の人間よりも普通らしい、平均値だと思っている。そういう風にシミュレートしているだけだと言われれば言い返せないが、しかしおそらく普通である。調査したことはないし証拠もないが、俺がそう感じるからそうなのだ。
 普通だから普通のふりがうまいし、過剰な普通を演じ続けることもできているのだと思う。
 けれどずっとふりをすることは疲れる。本当のことが言えない。困っていても言い出せない。誰にも何も相談できない。自然と想いは抑圧され、水面下に溜まり続けて暗くわだかまる。
 だがこの憂鬱や疲労が「普通」であり続けているせいだけであると言い切ることはできないだろう。
 何か、わからないが何か極度の不安や刺激、そういったものが俺の精神を常に疲弊させている。そんな中で冒頭に挙げたような憂鬱も起こるようになってしまったのだろうと推測している。
 極度の不安が何なのか、刺激の正体が何なのか、知ってしまったら終わりになるような気がしている。正体を知らぬからこそ俺は今、かろうじて正気でいられているのかもしれないと思っている。
 知ってしまったらおそらく「普通」ではなくなる。「普通」でなくなったとき、俺は何になる?
 「普通」以外のものを背負って生きる自信がない。だから埋め続ける。心の奥底に色々なものを埋め続け、憂鬱で隠して生きているのだと思う。
 そうだ。だからこんなところで止まっていてはいけない。「普通」であるためには憂鬱に呑まれるなどもってのほか。それは「普通」でないのだから。
 明日は朝から講義がある。早く帰って早く寝なければ朝の弱い俺は起きられない。
「行かないと」
 席を立って、
「行かないと……」
 片付けて、
「ごちそうさまでした」
 店を出る俺に応えるものはいなかった。
 そんな過去の話。
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