『青服の日常』より

 バイヤーが重症を負って運び込まれたらしい。
 そう聞いて俺は頭の中が真っ白になった。
 身体がうまく動かなかった。すぐにでも様子を見に行きたい気持ちと、行っても迷惑になるだろうし専門家に任せておかないとなんて冷静な思考がぐるぐる回って何もできない。
 バイヤーが怪我をしていようがしていまいが俺には俺の仕事があるし、投げ出すわけにもいかない。とにかくPCの画面を眺めて処理するデータを回して、嫌な方向に向かってしまう思考をせき止め集中した。
「様子を見に来い、アンノウン」
 ドクターから言われたのは次の日のことだった。許可を得た俺は廊下を走りたくなるのを我慢して病室に向かった。
 その、バイヤー。
「あんた誰ですか?」
「バイヤー、」
 のっぺりとした青紫の瞳は俺を緩慢に映している。
 呆然とする俺をドクターが苦虫を噛み潰したような顔で見ている。
「知り合いですか?」
「わからないのか、俺が」
「残念ながら、記憶にないです」
「……」
 どれだけ大切だったか失ってから初めてわかる。そんな陳腐な言葉を回してしまう。
「バイヤー……」
「それがオレの名前ですか?」
「……ああ」
「あんたの名前は?」
「アンノウン。ウィリアム・スミス/アンノウンだ」
「へェ」
「……邪魔して悪かったな、俺は、帰る」
「待ってくださいよ」
「何だ……この上、何だっていうんだ」
「必要でしょ?」
「え?」
「救い」
「何を」
「あんたは救いを求めてる。なんでかわからないけど、オレに」
「どうして」
「与えてあげますよ。お望みのまま。オレはあんたを呼びましょう」
「バイヤー」
「ウィリアム・スミス/アンノウン。あんたに救いを与えます」
 何を言えばいいかわからなかった。そうじゃないんだ、とか、その方がよかった、とか。
 記憶を取り戻せるよう懸命に働きかけたい気持ちと、諦めて交流を断ってしまいたい気持ちと、目の前にいる■のようなバイヤーに縋って何もかも忘れてしまいたい気持ちと、何が本当なのかわからない。
 わからなくてわからなくて、俺は一言、
「困る、」
 と言った。
 バイヤーが青紫の目を瞬かせ、オレは、と言った。
「オレは」
「バイヤー、俺は」
「……アンノウンさん?」
「バイヤー?」
「何してるんスかこんなところで」
 バイヤーは笑う。
「バイヤー……」
「あーあー。あとは二人でやってろバカ共」
 眉間の皺を片手で押さえつつドクターが病室を出て行く。
「間の抜けた顔ッスねえ。何があったかわかんないッスけど今のアンノウンさん見たことない顔してる」
「黙ってろよ……」
 安心すればいいのか他のことを思えばいいのかなんだか全くわからない。気分が安定しないのはいつものことだが今日は特に不安定だ。何のせいかってこいつのせいか?
 どちらにせよ、今は喜んでおくのが順当だろうと判断する。
「無事で良かった……」
「何デレてるんスか」
 にやにや笑うバイヤーに黙れと一言こぼして俺はため息をついた。
 いつかどこかのそんな話。
15/22ページ
スキ