『青服の日常』より
人の顔が覚えられない。
顔と名前が一致しない。そもそも名前を覚えられない。人の顔はごちゃついていて、名前もごちゃついていて、よく知りもしない他人の顔なんか見てしまった日には頭がバーンアウトする。
幸いにして俺はアンノウン。ごく平凡な顔立ちで、普通の奴らからは覚えられにくい性質だ。
ゆえにこちらが顔を覚えていなくとも構わない。向こうも覚えていない。注意を向けられなければイーブンになる。
世の中は顔の認識が大事だ。
営業をしていたとき、顧客の顔と名前が覚えられずに苦労した。お客さまは、とか、あなたは、とか、名前を呼ばなくていい二人称を懸命に使い続けていた。
営業はいかに「特別なあなた」感を出すかが命だ。「大勢のお客さまの中の特別なあなた」感、個をしっかりと認識していますよ感、すなわち相手の名を呼ぶことが大事になってくる。
名前を呼ぶ。
それが俺にはできなかった。
だがしかし、営業マンとしての俺もまた、覚えられない運命にあった。
前述のとおり、それならイーブン。お客様は特別なあなたではないし、営業マンである俺もまたお客様から気にかけられる存在ではない。
そんなものだから、営業成績も悪かった。回っても回っても契約は取れないし、アポをすっぽかされることも度々あった。壁の成績グラフの最左に位置するのが俺。万年最下位。
向いてない。明らかに向いてない。当時の俺はそれがわからず、何か足りないところがある、努力が足りていないから成績が悪いのだと思い込んで毎日無駄な努力をしていた。
無駄な残業。取引先回りを先延ばしして無駄な書類作りに無駄に時間がかかってまた残業。積み上がる業務。溜まり続けるメールと郵便物。とにかく効率が悪かった。
まあ効率が悪いのは今もそうだ。俺はとにかく要領が悪い。何かする度にぐるぐる考え込んでしまって時間がかかるから業務時間が増えるのだ。
しかしこの会社に入社してからというもの年下の先輩社員であるバイヤーがあれこれと世話を焼いてくれ、業務のこつなんかも色々教えてくれたりして、なかなか仕事はできるようになった。
バイヤーがいなければ今の俺はないとも言える。いやそれは言いすぎかもしれない。しかし色々と教えてくれることに感謝はしている。今でも。っていうか今気付いたけどあいつ何であんなに俺の世話焼いてくるんだ? 三食ジャンクフードで済ませようとしてることも食事抜いたりしてることもなぜかバレててちゃんと食べるッスよとか言われるのはもちろん昼休みにオフィスに来て弁当分けてくれたりするのは何系男子だ? 優しさの権化か? 怖い。っていうかあいつ、俺の顔……覚えてるんじゃないか?
そうだ。
俺もバイヤーの顔を、名前を覚えている。
今の会社に入って初めて覚えたのは……バイヤーだった。それだけ近くにいたということか? わからない。
とにかくバイヤーは親切な奴だ。あんな親切でこれまでの人生よく生きてこれたなと思うくらいに親切な奴なのだろう。たぶん。だから俺にも優しくしてくれる、優しく?
わからない。
バイヤーは誰にでもとても優しい、親切で、社交的で、
本当にそうか?
バイヤーは自分のことをあまり語りたがらない。だからバイヤーが本当は何を思って俺に接しているかも俺は知らない。
俺に接している?
誰にでもそう接しているんだ。優しい奴なんだ。アンノウンである俺にすら優しく接することができるんだ。
博愛主義。
わからない。
たぶんそう、
それはかなり……
やはり、
地獄なのは、
……わからない。
「アンノウンさん」
「うおっ」
「うおって何スか」
「バイヤー……」
「また辛気臭い顔してるッスね」
「バイヤー」
「何スか?」
「いや……」
直接訊けるはずもなく。
はっきりしない男は嫌われるッスよ~などと言いながらランチセットを広げ始めるバイヤーに俺は顔をしかめた。
「何スか」
「いや」
「不機嫌?」
「いや……」
「はっきり言わないとわかんないッスよ」
「ポテトおいしそうだなと思って……」
「ふーん……」
バイヤーは一瞬表情を消したが、ぱ、と笑顔になり、
「これはアンノウンさんの分ッス」
「は!?」
「通販で手作りチップスキットってやつがあって」
「いや、え?」
「いるの? いらないの?」
「いります……」
「このかぼちゃチップスとにんじんチップスもアンノウンさんの分ッス」
「え!?」
「いらないんスか?」
「いいの……?」
「好きでしょ、こういうの」
「え、好き……」
「限界オタクみたいな語彙力やめて」
「うれしい……」
「語彙力!」
「サンキューバイヤー、」
「まあ食べてみてくださいよ」
俺はかぼちゃチップスをつまんだ。
「……!」
「喜んでくれて何よりッス」
何も言ってないんだが。
「あんたほんとに顔に出ますね」
「……」
チップスはおいしかった。すごく。
また食べたいと言った俺にバイヤーはまた作る保証はありませんけどねと言って、そこから東の国のハリケーンの話などをしつつ国際派遣で何かあるのかなとか仕事増えるのかななどと俺が言うのを一企業だしそこまで負担ないッスよとバイヤーが流してそんな感じで昼休みは終わった。
「そいじゃまた」
手を振ってドアを閉めたバイヤーを見送って、デスクに戻って、
……俺は何を考えていたんだっけ?
忘れるということはそう大事なことでもないっぽいし、いいのだろうか。
よくわからない。
でも、まあ、いいか。
今は少しだけ気分がいいし。
今回はそんな話。
顔と名前が一致しない。そもそも名前を覚えられない。人の顔はごちゃついていて、名前もごちゃついていて、よく知りもしない他人の顔なんか見てしまった日には頭がバーンアウトする。
幸いにして俺はアンノウン。ごく平凡な顔立ちで、普通の奴らからは覚えられにくい性質だ。
ゆえにこちらが顔を覚えていなくとも構わない。向こうも覚えていない。注意を向けられなければイーブンになる。
世の中は顔の認識が大事だ。
営業をしていたとき、顧客の顔と名前が覚えられずに苦労した。お客さまは、とか、あなたは、とか、名前を呼ばなくていい二人称を懸命に使い続けていた。
営業はいかに「特別なあなた」感を出すかが命だ。「大勢のお客さまの中の特別なあなた」感、個をしっかりと認識していますよ感、すなわち相手の名を呼ぶことが大事になってくる。
名前を呼ぶ。
それが俺にはできなかった。
だがしかし、営業マンとしての俺もまた、覚えられない運命にあった。
前述のとおり、それならイーブン。お客様は特別なあなたではないし、営業マンである俺もまたお客様から気にかけられる存在ではない。
そんなものだから、営業成績も悪かった。回っても回っても契約は取れないし、アポをすっぽかされることも度々あった。壁の成績グラフの最左に位置するのが俺。万年最下位。
向いてない。明らかに向いてない。当時の俺はそれがわからず、何か足りないところがある、努力が足りていないから成績が悪いのだと思い込んで毎日無駄な努力をしていた。
無駄な残業。取引先回りを先延ばしして無駄な書類作りに無駄に時間がかかってまた残業。積み上がる業務。溜まり続けるメールと郵便物。とにかく効率が悪かった。
まあ効率が悪いのは今もそうだ。俺はとにかく要領が悪い。何かする度にぐるぐる考え込んでしまって時間がかかるから業務時間が増えるのだ。
しかしこの会社に入社してからというもの年下の先輩社員であるバイヤーがあれこれと世話を焼いてくれ、業務のこつなんかも色々教えてくれたりして、なかなか仕事はできるようになった。
バイヤーがいなければ今の俺はないとも言える。いやそれは言いすぎかもしれない。しかし色々と教えてくれることに感謝はしている。今でも。っていうか今気付いたけどあいつ何であんなに俺の世話焼いてくるんだ? 三食ジャンクフードで済ませようとしてることも食事抜いたりしてることもなぜかバレててちゃんと食べるッスよとか言われるのはもちろん昼休みにオフィスに来て弁当分けてくれたりするのは何系男子だ? 優しさの権化か? 怖い。っていうかあいつ、俺の顔……覚えてるんじゃないか?
そうだ。
俺もバイヤーの顔を、名前を覚えている。
今の会社に入って初めて覚えたのは……バイヤーだった。それだけ近くにいたということか? わからない。
とにかくバイヤーは親切な奴だ。あんな親切でこれまでの人生よく生きてこれたなと思うくらいに親切な奴なのだろう。たぶん。だから俺にも優しくしてくれる、優しく?
わからない。
バイヤーは誰にでもとても優しい、親切で、社交的で、
本当にそうか?
バイヤーは自分のことをあまり語りたがらない。だからバイヤーが本当は何を思って俺に接しているかも俺は知らない。
俺に接している?
誰にでもそう接しているんだ。優しい奴なんだ。アンノウンである俺にすら優しく接することができるんだ。
博愛主義。
わからない。
たぶんそう、
それはかなり……
やはり、
地獄なのは、
……わからない。
「アンノウンさん」
「うおっ」
「うおって何スか」
「バイヤー……」
「また辛気臭い顔してるッスね」
「バイヤー」
「何スか?」
「いや……」
直接訊けるはずもなく。
はっきりしない男は嫌われるッスよ~などと言いながらランチセットを広げ始めるバイヤーに俺は顔をしかめた。
「何スか」
「いや」
「不機嫌?」
「いや……」
「はっきり言わないとわかんないッスよ」
「ポテトおいしそうだなと思って……」
「ふーん……」
バイヤーは一瞬表情を消したが、ぱ、と笑顔になり、
「これはアンノウンさんの分ッス」
「は!?」
「通販で手作りチップスキットってやつがあって」
「いや、え?」
「いるの? いらないの?」
「いります……」
「このかぼちゃチップスとにんじんチップスもアンノウンさんの分ッス」
「え!?」
「いらないんスか?」
「いいの……?」
「好きでしょ、こういうの」
「え、好き……」
「限界オタクみたいな語彙力やめて」
「うれしい……」
「語彙力!」
「サンキューバイヤー、」
「まあ食べてみてくださいよ」
俺はかぼちゃチップスをつまんだ。
「……!」
「喜んでくれて何よりッス」
何も言ってないんだが。
「あんたほんとに顔に出ますね」
「……」
チップスはおいしかった。すごく。
また食べたいと言った俺にバイヤーはまた作る保証はありませんけどねと言って、そこから東の国のハリケーンの話などをしつつ国際派遣で何かあるのかなとか仕事増えるのかななどと俺が言うのを一企業だしそこまで負担ないッスよとバイヤーが流してそんな感じで昼休みは終わった。
「そいじゃまた」
手を振ってドアを閉めたバイヤーを見送って、デスクに戻って、
……俺は何を考えていたんだっけ?
忘れるということはそう大事なことでもないっぽいし、いいのだろうか。
よくわからない。
でも、まあ、いいか。
今は少しだけ気分がいいし。
今回はそんな話。