番外編
「ゲルダ、今頃どうしているのかしら」
窓際で頬杖をついて溜息をついているのは、あれからエルフの森に住み着いているハルムである。
ゲルダとの契約を俺がそのまま引き継いだがゆえに、ハルムはこの森から出ないでいた。
「昼の国に帰って、いつも通り過ごしているのではないか?」
「いつも通りって何よ」
「まじない師なのだから、まじないを売っているのだろう。魔法を俺に返したからまじないができなくなったというわけではなかろう。彼女は優れたまじない師だから」
「違うわエリアス、そういうことを言っているのではないの。住まいが変わったり、家族ができたり、そういうことを言ってるのよ」
羽根を広げ、俺の頭の上に座ったハルムは、歌うように言った。
「新しい出会いもあるかもしれないし、再会もあるかもしれない。新しい恋だって――」
「よしてくれ」
ぱたぱたと手を振って、ハルムを追い払った。ひらりと躱されてしまう。ふふふと意地悪そうに笑った。
風の妖精はそういう話を好む。妖精はいたずらも好きだ。
「嫌がるのね」
「うるさい。公務の邪魔だ」
「はいはい、エルフの王様は忙しいのね」
嫌味っぽく言って、そのまま部屋から出て行った。
読みかけの文を机の上に置いて、体を椅子の背もたれに預けた。外に視線を移すと、ふらふらとどこかへ飛んでいくハルムの姿が見える。
俺がまだゲルダに対して未練があることを、ほかの妖精に言いふらしに行ったのだろう。
風の妖精とはそういうものだ。人のことを、あれこれ面白おかしく話して、どんどん広めていく。
俺が昼の住人を呼び寄せたことも、魔法の力を人間に渡してしまったことも、昼と夜を混ぜてしまったことも、今となってはもう夜の国すべてに知れ渡ってしまっている。
夜の国の住民の興味は、今後、エルフの長である俺が所帯を持つか持たないかにある。
エルフの長は基本的には夜の女王の子だ。ほかの種族も基本的にはそうだ。夜の子が種族の要となり、夜の国を支えることになっている。だから、所帯を持つか持たないかは趣味の話だ。
俺はまだゲルダに未練がある。ゆえに、妻はいらない。
俺はこの先、ずっとゲルダという人間を愛するし、ゲルダと過ごした時間を大切にする。
ゲルダは昼の国の住民だ。長命のエルフと比べれば、早くに老いるし、死んでゆく。恋心を抱くのは許されるが、その恋が結ばれることは絶対にない。手を出そうものなら、また昼と夜はぐちゃぐちゃになり、世界は混沌に包まれる。
だから、俺はこの国から、ゲルダを想うだけだ。二人で過ごした記憶をいつまでも大切に抱き続ける。
あれからどのくらいの月日が経ってしまったのだろう。エルフだから感覚が鈍い。
許されないのは分かっている。だが、ゲルダの命が地上から去る前に、もう一度、会いたい。
読みかけていた文に再度目を通す。
昨日、一通の手紙が届いた。小人の夜警からだ。
俺には何人もの兄弟がいるが、小人の街を守っている夜警のリュートとはしょっちゅう文通をしている。
かなり長く、詳細に書かれていた。
話によると、俺が起こしたような騒動が、再び起こっているらしい。
過去の当事者だから、万が一のことになったら、力を貸してほしいとのことだった。
彼女は妖精を使役できるはずなのだが、文で連絡を寄越すということは、今はまだ切羽詰まった状態ではないということなのだろう。
エルフの魔法を貸してほしいという依頼は、基本的にはどの種族もしたがらない。我々は傲慢だからと嫌われがちだから。俺が長となり、開かれた森にはなりつつあるが、先入観はしつこく残っている。
リュートにはそういう先入観はない。夜警として、できることをする。非力な小人は賢く他人の力を借りなければならないのだ。小人もそういうところが小賢しいと言われ、他の種族から嫌われているのだが、俺からすればまだまともなほうだ。妖精も小人に使われることで居場所を持っているようなものだし、一応は共存という形をとっている。
彼女が妖精を遣わしてまで依頼してくるようなら動こうと思ったのだが、そうでなくとも小人の街には一度行くことにした。
この森から出る機会もめったにない。妹と会うのも悪くはない。
しばらく留守にすることを大臣たちに告げ、ハルムにも声をかけておくことにする。
「ハルムは来なくていい。様子を見に行くだけだ」
「ふーん。珍しいわね、森から出るなんて」
「夜の国がまた昼と混ざりかけているようだ。なにかあれば、俺の力も必要となるだろう」
「それにしたって、あなたの魔法を使えば、一瞬で行けるはずだけど」
あっ、とハルムは声をあげ、ニヤニヤとしながら口元を手で覆った。
「行ってらっしゃい。あなたが不在の間、森で事件が起きないか見張っておくわ。ついでに、小人の街まで送っていってあげる。私もたまには風を使わなきゃ」
「頼む」
一瞬のまばたきのうちに。ハルムが呟き、瞬きを一度したあと、俺は小人の街のはずれにいた。
森に接するように広がる小人の街は城壁に囲まれている。俺は森と壁の間にいた。突然、街の中に現れれば驚かれるからというハルムの気遣いであろう。
正門には門番である小人が二人。俺の顔を知っているので、すぐに通してくれた。小人の街は夜でもとても明るい。光の妖精が煌々と街を照らしてくれている。ここから見上げる夜空は、少しだけ星が少ない。
夜警の施設は中央広場に面している。さて、妹はいるだろうか、とドアを叩く。
「はーい、だれ……、ああ。お兄様」
光と風の妖精と共に出てきた。手にはカンテラとベルがある。仕事だと思ってきたのだろう。
「久しいな」
「すぐ来てくれるとは思わなかった。どうぞ。今日は静かな夜だから、暇していたの」
部屋の中には、リュートには大きい家具たちが並んでいる。
極稀に、人間が迷い込んだときに、人間を保護し昼に送り返すことがある。夜警の仕事の一つだ。だから家具も人間サイズに合わせているのだという。
椅子に座っていると、妖精が茶菓子を運んできてくれた。ここの妖精たちはリュートに懐いているようだ。ゲルダと契約したのち、ずるずると俺と契約することになってしまったハルムとはわけが違う。
大きな椅子によじ登ったリュートはひとまずクッキーを頬張った。夜間の仕事は小腹がすくようだ。
「手紙を読んでくれたのね」
「読んだ。俺たちのきょうだいがあちらに行ってしまったのか」
「そうみたいなの。それから人間もこちらに来ているみたい。見つかればすぐに送り返すけれど、逃げられちゃって居場所を特定できなくて、困ってるのよね。まだ世界が動いていないからいいけれど、これからまた、あの時のようになってしまうかもしれない」
「どちらも本来の世界に帰るつもりがないと」
「取り替え子みたいなのよね。まだはっきりとしてはいないけれど、その可能性が高い」
ああ、と声がもれた。
俺がゲルダをこちらに連れてきたときとは、訳が違う。俺たちよりも、たちが悪い話だった。
「クラウスという名の少年。仮に彼が取り替え子だとしたら、人間にうまく擬態しているわ。こちらの記憶も知識も一切ない。普通の人間の子って感じだった。まだあなたに動いてもらうつもりはないし、私がどうにかしようとは思っているのだけれど」
「リュートは昼のことをよく知っているから、俺よりうまくできると思うが」
「そうね。小人史には何度も人間が出てくるし、そうでなくとも森に引きこもっているあなたよりは知識はある。でも、力はない。私にできるのは、人間を向こうに送り返すことくらいよ」
あと、とリュートは少し嬉しそうに付け足した。
「ゲルダがね。向こうで動いてくれているみたいなの。クラウスたちがこちらに来たのも、ゲルダのおかげみたい。あの子、向こうで夜を知るまじない師として動いてくれているみたい」
「……会ったのか」
「いいえ。彼女はこちらには来ていないわ。話を聞いただけ。なんだか懐かしくなっちゃった。お兄様がこちらに来たのは、ゲルダのことがあってではないの?」
「そうだな。会いたいとは常に思う」
「でしょうね。どうせなら、今のごたごたに便乗して、会いに行ったら? 遅かれ早かれ、また昼と夜は混ざるわ。もうそんな気がしているの。少しならお母様も許してくれるのではなくて?」
ウインクをしたのち、リュートは椅子から飛び降りて、杖を手にした。
部屋の中に霧が立ち込める。
「ちょっと待ってくれ、まだ行くと決めたわけでは」
「何それ。会えるとなると緊張しちゃうの? クラウスの話だと、ゲルダはティルハーヴェンという街にいるみたい。小人の街と重なる場所だから、すぐにゲルダと会えるはず。帰るときは、ゲルダに送ってもらって」
よい夜を、と言い残し、リュートは霧と共に去ってしまった。
小人の街と似た光景が目の前に広がっている。だが、街頭には妖精は入っていない。魔法も感じないし、母上の眼差しも感じない。
昼の世界、人間の街だった。
かすかに、本当にかすかなのだが、森の香りがした。
海から流れてくる潮の香りに混ざって、エルフの森の香りがする。
それを辿っていくと、一軒の家にたどり着いた。海沿いにある、小さな家だ。ここから、故郷の香りがする。
家の前に佇んでいると、ドアが勢いよく開いた。
「エリアス!」
亜麻色の髪の女性が俺の名を叫んで出てくる。
「何、もうそんなことになってしまったのかい!?」
「ゲルダ」
焦ったように夜空を見上げている。そんな彼女の肩に、手を置いた。
「違うんだ。大丈夫」
「なんだ……、よかった。いや、よくない。なぜエリアスがこちらにいるんだ。大問題だよ」
「それがその」
ふっと息を吐いたゲルダは、表情をゆるめた。
「……聞かなくてもなんとなく、分かるよ。まだ荷物がまとまってないけれど、入って」
私のあたらしい、まじないの店。そう言って、ゲルダは俺を招いた。
少女だったゲルダは、立派な大人になっていた。もうそんなに時間が経っていた。たったの数ヶ月しか経っていないように思ったのだが。
かつては肩までしかなかった美しい髪は、腰まで伸びている。
棚にはたくさんの鉱石が並んでいた。ゲルダは石を使ったまじないを得意とするからだろう。それについては何も変わっていないようだった。
彼女にエルフの森のかおりが染み付いていることに、嬉しさと申し訳なさを抱く。
「向こうの夜警が、どうせならと送ってくれたんだ。そんなつもりは――あったのは、あった。もしかしたら会えるかもという期待をこめて森から出たんだ」
「正直だね。リュートが言うように、私もね、薄々思っているんだ。また、あの時のようになるって。だから、エリアスがこちらに来たとて、というわけだ」
会いたかったよ、とゲルダは言った。それがなんとも嬉しくて、つい、手が彼女の指にまで行ってしまう。
「ゲルダは、その。一人なのか」
「ああ。家族は持たないよ。持つつもりがない。私も正直に言おうか。あなたがいるからだよ」
困ったような表情をされる。
実際、困っている。俺達は。
「エルフの森で過ごした日々も、エリアスと共に夜の国を旅した日々も、すべて、私の人生の宝物なんだ。少女時代に抱いたあなたへの気持ちも、まだずっとある。この気持ちが形になって実ることはないと分かっているよ。でも、なかったことにはしたくない。この気持ちを抱いたまま、老いて、死ぬ。こっちに帰ってきたとき、そう決めたんだ」
「俺も、同じ。もう二度と会わないつもりだった。でも、状況が変わった」
「そうだね……もうこの際だ」
どうせ昼と夜は近々、混ざる。俺たちは我慢をした。もう今後、二度と機会は訪れない。
ゲルダが俺の頬に手を伸ばす。
体を抱き寄せた。かつては俺のほうが背丈があったのに、今となっては俺の方が若干小さい
きっとこれが人生で最後の口づけになるだろう。またできるとは思ってもいなかった。
ゲルダもそう思ってか、随分と長いこと交わしていた。
彼女が生きているうちに、昼と夜が混ざるのはこれが最後だろう。最後でなければならない。そう頻繁に起こってはいけないことだから。
たまに漏れるゲルダの切なそうな吐息が俺をくすぐってくる。あの時の初々しさはなく、かわりに熱があった。
「私よりもエリアスのほうが辛いだろうね。私はすぐ死ぬけれど、エリアスは私の何倍も生きるだろうから」
「なにか、まじないはないのか」
「まじないか。そうだね、夢に関するまじないなら一つだけ」
棚から一つの石を持ってきた。手のひらほどある大きな石で、それはエルフの森の色だった。
「前にもゲルダは夢に関するまじないをしてくれたな」
「得意分野なんだよ。それに、夢には昼も夜もない。現実とも幻とも区別がつかない。曖昧な間の世界。ここなら、私たちが会うことを許してくれるだろう。もう一度言うけれど、現実か幻かの区別もつかないから、目覚めたあとに、逆に切なくなるかもしれない。私が死んだかどうかも分からないまま、私と会うことになるかもしれない。それでもいいのなら渡す」
「受け取ろう。ないよりはずっといい」
石は大切そうにシルクの巾着に入れられ、渡された。まじないというよりは、お守りのようだ。
「会いたいと思ったときに、これと一緒に寝るといいよ。私はいつでもいい。エリアスから会いにおいで」
「ああ」
「そろそろ夜が明ける。向こうに帰ったほうがいい。送るよ。小さいながらもそちらに通じている道があるんだ。ちょうど小人の街に出る。迷うことはないだろう」
人間の世界の夜空は、星が少ない。さみしくないのかと聞いたら、さみしくないとゲルダは言った。
星が多いと逆に怖いのだと。
やはり、俺たちは住む世界を違えている。ちょっとしたことで、そのことを強烈に感じてしまう。
「俺の魔法が必要なら、いつでも力を貸す」
「そうならないように、私は私でまじないの力を強めた。こちらのことは私たちでなんとかするよ。それに、少年たちも非力ではないさ」
「そうか」
森の入口で、ゲルダは足を止めた。道のはじまりは、ここにあるようだ。ゲルダの話だと、この道が残っているせいだというのもあるらしい。今回のことが終われば、完全に塞いでしまうのだそうだ。
だとすると、本当にこれが最後だ。ゲルダと現実で会うのは。
「ゲルダ」
名残惜しい。だが、帰らねばならない。
「私はあなたに愛されて嬉しいし、幸せだよ。ずっと、夜の国から想ってくれているってだけで。私もずっとエリアスのことを想っている」
「そう思えるゲルダは俺よりずっと成熟している。でも、俺はまだ未熟だ」
「きっとエリアスも今の私と同じように思うようになる。長い年月がかかるかもしれないけれど。私のまじないを、お守りのように持っていてほしい」
さようならは言わない。また夢で会おう。
最後に聞いたゲルダの声は、まじないのように夜に溶けていった。
その後、リュートやゲルダが予想した通り、夜と昼が混ざった。その規模はとても大きく、エルフの森の近くにいる巨人までもが向こうに行ってしまったらしい。俺はずっと森の中にいて、話にしか聞いていないからそういう表現になってしまう。規模は大きかったようだが、俺の魔法は必要ではなかった。
小人の街の夜警と、昼の国の夜警、それからゲルダたちも動いたようだが、今回の騒動の発端である俺の弟も弟なりに解決の方法を見つけたらしい。
母が結果に満足していることは夜空の星の輝きから伝わってくる。
母上は滅多に我々の前に姿を現さない。母上は優しく俺達を見守っている。母上の眼差しはいつも感じる。その温かな眼差しがあるから、俺達は夜の柱として、夜の国を支えられるのかもしれない。
俺がまじないを使うことに関しても、何もお咎めはなかった。やはり夢は夜でも昼でもない曖昧な場所だから、母上も干渉しないのだろう。それに、母上も夢を利用することがある。俺の記憶を蘇らせたのも、夢だったから。
ゲルダの言う通り、まじない石と共にベッドに入ると、彼女に会える。それが現実なのか幻なのかは分からない。たまに少女時代のゲルダとも会うのだが、それも現実なのか幻なのか分からない。
彼女の肌を触れたときのぬくもりが手に残ったまま目覚めるときもある。彼女の声が耳に残ったまま目覚めるときもある。
それがさみしくもあるが、幸せでもある。ゲルダのまじないは、そういうものなのだ。
魔法で禁忌を犯し、世界を混乱に陥れたのに、まだ未練を持っている。さみしさは、そんな俺への一種の罰なのだろう。
他の者たちに笑われているのは知っている。だが笑われても、俺はこのまじないを生涯手放すつもりはない。
そして再び母上の元に帰ったときに、母上に言おうと決めているのだ。
俺はゲルダを愛してよかったのだと。
窓際で頬杖をついて溜息をついているのは、あれからエルフの森に住み着いているハルムである。
ゲルダとの契約を俺がそのまま引き継いだがゆえに、ハルムはこの森から出ないでいた。
「昼の国に帰って、いつも通り過ごしているのではないか?」
「いつも通りって何よ」
「まじない師なのだから、まじないを売っているのだろう。魔法を俺に返したからまじないができなくなったというわけではなかろう。彼女は優れたまじない師だから」
「違うわエリアス、そういうことを言っているのではないの。住まいが変わったり、家族ができたり、そういうことを言ってるのよ」
羽根を広げ、俺の頭の上に座ったハルムは、歌うように言った。
「新しい出会いもあるかもしれないし、再会もあるかもしれない。新しい恋だって――」
「よしてくれ」
ぱたぱたと手を振って、ハルムを追い払った。ひらりと躱されてしまう。ふふふと意地悪そうに笑った。
風の妖精はそういう話を好む。妖精はいたずらも好きだ。
「嫌がるのね」
「うるさい。公務の邪魔だ」
「はいはい、エルフの王様は忙しいのね」
嫌味っぽく言って、そのまま部屋から出て行った。
読みかけの文を机の上に置いて、体を椅子の背もたれに預けた。外に視線を移すと、ふらふらとどこかへ飛んでいくハルムの姿が見える。
俺がまだゲルダに対して未練があることを、ほかの妖精に言いふらしに行ったのだろう。
風の妖精とはそういうものだ。人のことを、あれこれ面白おかしく話して、どんどん広めていく。
俺が昼の住人を呼び寄せたことも、魔法の力を人間に渡してしまったことも、昼と夜を混ぜてしまったことも、今となってはもう夜の国すべてに知れ渡ってしまっている。
夜の国の住民の興味は、今後、エルフの長である俺が所帯を持つか持たないかにある。
エルフの長は基本的には夜の女王の子だ。ほかの種族も基本的にはそうだ。夜の子が種族の要となり、夜の国を支えることになっている。だから、所帯を持つか持たないかは趣味の話だ。
俺はまだゲルダに未練がある。ゆえに、妻はいらない。
俺はこの先、ずっとゲルダという人間を愛するし、ゲルダと過ごした時間を大切にする。
ゲルダは昼の国の住民だ。長命のエルフと比べれば、早くに老いるし、死んでゆく。恋心を抱くのは許されるが、その恋が結ばれることは絶対にない。手を出そうものなら、また昼と夜はぐちゃぐちゃになり、世界は混沌に包まれる。
だから、俺はこの国から、ゲルダを想うだけだ。二人で過ごした記憶をいつまでも大切に抱き続ける。
あれからどのくらいの月日が経ってしまったのだろう。エルフだから感覚が鈍い。
許されないのは分かっている。だが、ゲルダの命が地上から去る前に、もう一度、会いたい。
読みかけていた文に再度目を通す。
昨日、一通の手紙が届いた。小人の夜警からだ。
俺には何人もの兄弟がいるが、小人の街を守っている夜警のリュートとはしょっちゅう文通をしている。
かなり長く、詳細に書かれていた。
話によると、俺が起こしたような騒動が、再び起こっているらしい。
過去の当事者だから、万が一のことになったら、力を貸してほしいとのことだった。
彼女は妖精を使役できるはずなのだが、文で連絡を寄越すということは、今はまだ切羽詰まった状態ではないということなのだろう。
エルフの魔法を貸してほしいという依頼は、基本的にはどの種族もしたがらない。我々は傲慢だからと嫌われがちだから。俺が長となり、開かれた森にはなりつつあるが、先入観はしつこく残っている。
リュートにはそういう先入観はない。夜警として、できることをする。非力な小人は賢く他人の力を借りなければならないのだ。小人もそういうところが小賢しいと言われ、他の種族から嫌われているのだが、俺からすればまだまともなほうだ。妖精も小人に使われることで居場所を持っているようなものだし、一応は共存という形をとっている。
彼女が妖精を遣わしてまで依頼してくるようなら動こうと思ったのだが、そうでなくとも小人の街には一度行くことにした。
この森から出る機会もめったにない。妹と会うのも悪くはない。
しばらく留守にすることを大臣たちに告げ、ハルムにも声をかけておくことにする。
「ハルムは来なくていい。様子を見に行くだけだ」
「ふーん。珍しいわね、森から出るなんて」
「夜の国がまた昼と混ざりかけているようだ。なにかあれば、俺の力も必要となるだろう」
「それにしたって、あなたの魔法を使えば、一瞬で行けるはずだけど」
あっ、とハルムは声をあげ、ニヤニヤとしながら口元を手で覆った。
「行ってらっしゃい。あなたが不在の間、森で事件が起きないか見張っておくわ。ついでに、小人の街まで送っていってあげる。私もたまには風を使わなきゃ」
「頼む」
一瞬のまばたきのうちに。ハルムが呟き、瞬きを一度したあと、俺は小人の街のはずれにいた。
森に接するように広がる小人の街は城壁に囲まれている。俺は森と壁の間にいた。突然、街の中に現れれば驚かれるからというハルムの気遣いであろう。
正門には門番である小人が二人。俺の顔を知っているので、すぐに通してくれた。小人の街は夜でもとても明るい。光の妖精が煌々と街を照らしてくれている。ここから見上げる夜空は、少しだけ星が少ない。
夜警の施設は中央広場に面している。さて、妹はいるだろうか、とドアを叩く。
「はーい、だれ……、ああ。お兄様」
光と風の妖精と共に出てきた。手にはカンテラとベルがある。仕事だと思ってきたのだろう。
「久しいな」
「すぐ来てくれるとは思わなかった。どうぞ。今日は静かな夜だから、暇していたの」
部屋の中には、リュートには大きい家具たちが並んでいる。
極稀に、人間が迷い込んだときに、人間を保護し昼に送り返すことがある。夜警の仕事の一つだ。だから家具も人間サイズに合わせているのだという。
椅子に座っていると、妖精が茶菓子を運んできてくれた。ここの妖精たちはリュートに懐いているようだ。ゲルダと契約したのち、ずるずると俺と契約することになってしまったハルムとはわけが違う。
大きな椅子によじ登ったリュートはひとまずクッキーを頬張った。夜間の仕事は小腹がすくようだ。
「手紙を読んでくれたのね」
「読んだ。俺たちのきょうだいがあちらに行ってしまったのか」
「そうみたいなの。それから人間もこちらに来ているみたい。見つかればすぐに送り返すけれど、逃げられちゃって居場所を特定できなくて、困ってるのよね。まだ世界が動いていないからいいけれど、これからまた、あの時のようになってしまうかもしれない」
「どちらも本来の世界に帰るつもりがないと」
「取り替え子みたいなのよね。まだはっきりとしてはいないけれど、その可能性が高い」
ああ、と声がもれた。
俺がゲルダをこちらに連れてきたときとは、訳が違う。俺たちよりも、たちが悪い話だった。
「クラウスという名の少年。仮に彼が取り替え子だとしたら、人間にうまく擬態しているわ。こちらの記憶も知識も一切ない。普通の人間の子って感じだった。まだあなたに動いてもらうつもりはないし、私がどうにかしようとは思っているのだけれど」
「リュートは昼のことをよく知っているから、俺よりうまくできると思うが」
「そうね。小人史には何度も人間が出てくるし、そうでなくとも森に引きこもっているあなたよりは知識はある。でも、力はない。私にできるのは、人間を向こうに送り返すことくらいよ」
あと、とリュートは少し嬉しそうに付け足した。
「ゲルダがね。向こうで動いてくれているみたいなの。クラウスたちがこちらに来たのも、ゲルダのおかげみたい。あの子、向こうで夜を知るまじない師として動いてくれているみたい」
「……会ったのか」
「いいえ。彼女はこちらには来ていないわ。話を聞いただけ。なんだか懐かしくなっちゃった。お兄様がこちらに来たのは、ゲルダのことがあってではないの?」
「そうだな。会いたいとは常に思う」
「でしょうね。どうせなら、今のごたごたに便乗して、会いに行ったら? 遅かれ早かれ、また昼と夜は混ざるわ。もうそんな気がしているの。少しならお母様も許してくれるのではなくて?」
ウインクをしたのち、リュートは椅子から飛び降りて、杖を手にした。
部屋の中に霧が立ち込める。
「ちょっと待ってくれ、まだ行くと決めたわけでは」
「何それ。会えるとなると緊張しちゃうの? クラウスの話だと、ゲルダはティルハーヴェンという街にいるみたい。小人の街と重なる場所だから、すぐにゲルダと会えるはず。帰るときは、ゲルダに送ってもらって」
よい夜を、と言い残し、リュートは霧と共に去ってしまった。
小人の街と似た光景が目の前に広がっている。だが、街頭には妖精は入っていない。魔法も感じないし、母上の眼差しも感じない。
昼の世界、人間の街だった。
かすかに、本当にかすかなのだが、森の香りがした。
海から流れてくる潮の香りに混ざって、エルフの森の香りがする。
それを辿っていくと、一軒の家にたどり着いた。海沿いにある、小さな家だ。ここから、故郷の香りがする。
家の前に佇んでいると、ドアが勢いよく開いた。
「エリアス!」
亜麻色の髪の女性が俺の名を叫んで出てくる。
「何、もうそんなことになってしまったのかい!?」
「ゲルダ」
焦ったように夜空を見上げている。そんな彼女の肩に、手を置いた。
「違うんだ。大丈夫」
「なんだ……、よかった。いや、よくない。なぜエリアスがこちらにいるんだ。大問題だよ」
「それがその」
ふっと息を吐いたゲルダは、表情をゆるめた。
「……聞かなくてもなんとなく、分かるよ。まだ荷物がまとまってないけれど、入って」
私のあたらしい、まじないの店。そう言って、ゲルダは俺を招いた。
少女だったゲルダは、立派な大人になっていた。もうそんなに時間が経っていた。たったの数ヶ月しか経っていないように思ったのだが。
かつては肩までしかなかった美しい髪は、腰まで伸びている。
棚にはたくさんの鉱石が並んでいた。ゲルダは石を使ったまじないを得意とするからだろう。それについては何も変わっていないようだった。
彼女にエルフの森のかおりが染み付いていることに、嬉しさと申し訳なさを抱く。
「向こうの夜警が、どうせならと送ってくれたんだ。そんなつもりは――あったのは、あった。もしかしたら会えるかもという期待をこめて森から出たんだ」
「正直だね。リュートが言うように、私もね、薄々思っているんだ。また、あの時のようになるって。だから、エリアスがこちらに来たとて、というわけだ」
会いたかったよ、とゲルダは言った。それがなんとも嬉しくて、つい、手が彼女の指にまで行ってしまう。
「ゲルダは、その。一人なのか」
「ああ。家族は持たないよ。持つつもりがない。私も正直に言おうか。あなたがいるからだよ」
困ったような表情をされる。
実際、困っている。俺達は。
「エルフの森で過ごした日々も、エリアスと共に夜の国を旅した日々も、すべて、私の人生の宝物なんだ。少女時代に抱いたあなたへの気持ちも、まだずっとある。この気持ちが形になって実ることはないと分かっているよ。でも、なかったことにはしたくない。この気持ちを抱いたまま、老いて、死ぬ。こっちに帰ってきたとき、そう決めたんだ」
「俺も、同じ。もう二度と会わないつもりだった。でも、状況が変わった」
「そうだね……もうこの際だ」
どうせ昼と夜は近々、混ざる。俺たちは我慢をした。もう今後、二度と機会は訪れない。
ゲルダが俺の頬に手を伸ばす。
体を抱き寄せた。かつては俺のほうが背丈があったのに、今となっては俺の方が若干小さい
きっとこれが人生で最後の口づけになるだろう。またできるとは思ってもいなかった。
ゲルダもそう思ってか、随分と長いこと交わしていた。
彼女が生きているうちに、昼と夜が混ざるのはこれが最後だろう。最後でなければならない。そう頻繁に起こってはいけないことだから。
たまに漏れるゲルダの切なそうな吐息が俺をくすぐってくる。あの時の初々しさはなく、かわりに熱があった。
「私よりもエリアスのほうが辛いだろうね。私はすぐ死ぬけれど、エリアスは私の何倍も生きるだろうから」
「なにか、まじないはないのか」
「まじないか。そうだね、夢に関するまじないなら一つだけ」
棚から一つの石を持ってきた。手のひらほどある大きな石で、それはエルフの森の色だった。
「前にもゲルダは夢に関するまじないをしてくれたな」
「得意分野なんだよ。それに、夢には昼も夜もない。現実とも幻とも区別がつかない。曖昧な間の世界。ここなら、私たちが会うことを許してくれるだろう。もう一度言うけれど、現実か幻かの区別もつかないから、目覚めたあとに、逆に切なくなるかもしれない。私が死んだかどうかも分からないまま、私と会うことになるかもしれない。それでもいいのなら渡す」
「受け取ろう。ないよりはずっといい」
石は大切そうにシルクの巾着に入れられ、渡された。まじないというよりは、お守りのようだ。
「会いたいと思ったときに、これと一緒に寝るといいよ。私はいつでもいい。エリアスから会いにおいで」
「ああ」
「そろそろ夜が明ける。向こうに帰ったほうがいい。送るよ。小さいながらもそちらに通じている道があるんだ。ちょうど小人の街に出る。迷うことはないだろう」
人間の世界の夜空は、星が少ない。さみしくないのかと聞いたら、さみしくないとゲルダは言った。
星が多いと逆に怖いのだと。
やはり、俺たちは住む世界を違えている。ちょっとしたことで、そのことを強烈に感じてしまう。
「俺の魔法が必要なら、いつでも力を貸す」
「そうならないように、私は私でまじないの力を強めた。こちらのことは私たちでなんとかするよ。それに、少年たちも非力ではないさ」
「そうか」
森の入口で、ゲルダは足を止めた。道のはじまりは、ここにあるようだ。ゲルダの話だと、この道が残っているせいだというのもあるらしい。今回のことが終われば、完全に塞いでしまうのだそうだ。
だとすると、本当にこれが最後だ。ゲルダと現実で会うのは。
「ゲルダ」
名残惜しい。だが、帰らねばならない。
「私はあなたに愛されて嬉しいし、幸せだよ。ずっと、夜の国から想ってくれているってだけで。私もずっとエリアスのことを想っている」
「そう思えるゲルダは俺よりずっと成熟している。でも、俺はまだ未熟だ」
「きっとエリアスも今の私と同じように思うようになる。長い年月がかかるかもしれないけれど。私のまじないを、お守りのように持っていてほしい」
さようならは言わない。また夢で会おう。
最後に聞いたゲルダの声は、まじないのように夜に溶けていった。
その後、リュートやゲルダが予想した通り、夜と昼が混ざった。その規模はとても大きく、エルフの森の近くにいる巨人までもが向こうに行ってしまったらしい。俺はずっと森の中にいて、話にしか聞いていないからそういう表現になってしまう。規模は大きかったようだが、俺の魔法は必要ではなかった。
小人の街の夜警と、昼の国の夜警、それからゲルダたちも動いたようだが、今回の騒動の発端である俺の弟も弟なりに解決の方法を見つけたらしい。
母が結果に満足していることは夜空の星の輝きから伝わってくる。
母上は滅多に我々の前に姿を現さない。母上は優しく俺達を見守っている。母上の眼差しはいつも感じる。その温かな眼差しがあるから、俺達は夜の柱として、夜の国を支えられるのかもしれない。
俺がまじないを使うことに関しても、何もお咎めはなかった。やはり夢は夜でも昼でもない曖昧な場所だから、母上も干渉しないのだろう。それに、母上も夢を利用することがある。俺の記憶を蘇らせたのも、夢だったから。
ゲルダの言う通り、まじない石と共にベッドに入ると、彼女に会える。それが現実なのか幻なのかは分からない。たまに少女時代のゲルダとも会うのだが、それも現実なのか幻なのか分からない。
彼女の肌を触れたときのぬくもりが手に残ったまま目覚めるときもある。彼女の声が耳に残ったまま目覚めるときもある。
それがさみしくもあるが、幸せでもある。ゲルダのまじないは、そういうものなのだ。
魔法で禁忌を犯し、世界を混乱に陥れたのに、まだ未練を持っている。さみしさは、そんな俺への一種の罰なのだろう。
他の者たちに笑われているのは知っている。だが笑われても、俺はこのまじないを生涯手放すつもりはない。
そして再び母上の元に帰ったときに、母上に言おうと決めているのだ。
俺はゲルダを愛してよかったのだと。
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