6章

 ゲルダとエリアスは、自分たちが辿ってきた道を戻る。ハルムと夢について語らった森。三人で頬張った実の甘酸っぱさを思い出すと、自然と唾が出てきてしまう。
 静かの海は、今日も穏やかに、星々の輝きを海面に映し出していた。
 空を隔てるものは何一つない。この世の全ての星がそこに輝いていた。その星々の光を蓄えた海は、静かに揺らいでいる。
 その海と空の間に三人はいた。この世の美しいものすべてを凝縮したような景色に、見とれていた。
 しかし、この空は、本当はあってはならないものだ。昼と夜の星が混ざってしまっている。異変が起こっているのは、小人の街だけではなかった。エリアスは海の異変にも気がついた。
 ある一帯では、びちびちと魚が飛んでいた。普段は悠々と海の中を泳いでいるような魚たちだ。どこに泳いでいけばいいか分からなくなってしまい、海面に出てきてしまっていた。海面に出てしまえば、呼吸もできない。苦しみに喘ぐ魚たちの尾が海面を叩きつける。そこだけ飛沫が上がっていた。
 海の戦士たちが小魚たちを宥めに顔を出していた。その傍らには、ロンドもいる。
 エリアスたちはロンドの元に寄った。
「ロンド」
 エリアスが声をかけると、ロンドはあっと声を上げた。
「エリアス! やあ、また会えて嬉しいよ。あれ、なんだか前と雰囲気が違うね。それに、空を飛んでる。落ち着いて話をしたいところだけど、でも、今、海がちょっと大変なんだ。静かの海が、静かじゃないんだ!」
 ロンドは、海の中が見たこともない魚で溢れかえっていると泣きそうになりながらエリアスに言う。それらは昼の海に生息している魚たちだろうと、ゲルダはすぐに分かった。
 小人の街と同じだ。魚たちも住民だ。だから、昼の魚たちがこちらに来てしまっているのだ。
「ロンドの力を借りたい。そうすれば、海は元に戻る」
 ロンドは、え、と首を傾げる。
「ボク、歌うことしかできないのに」
「歌ってほしいんだ。ゲルダのまじない歌と合わせて、人魚の歌を」
 ロンドはゲルダの方を見る。
「ゲルダも歌えるんだ。いいね。ボク、今まで一人でしか歌ってこなかったから、誰かとデュエットしてみたかったんだ。どんな歌がいいの?」
 ロンドは海の戦士たちに任せた、とだけ言って、エリアスとゲルダを見上げた。
「今日この夜が、全ての民にとって、よい夜になるように。それぞれの場所で、いい夢を見れる歌がいい。思いっきり、歌ってほしい。そうすれば、夜の国の住民も、昼の国の住民も、皆、今日のこの混乱のことは忘れ、それぞれの心地よいベッドで、いい夢を見られるだろう。ロンドとゲルダの歌を俺は信じている」
 ゲルダとロンドは頷いた。
 ゲルダとロンドが簡単な打ち合わせをしている隣で、エリアスはハルムにも頼んだ。
「ハルム、風の妖精は噂を広めるのがとても早い。だから、風の妖精たちに伝言を一つ頼みたい」
「何?」
「俺はこれから、魔法で歌を広げる。でも、この世界はずっとずっと広い。俺は、この世界の全てを知らない。だから、俺の知らない場所まで、妖精たちの力で、歌を広めて欲しい。俺の魔法に、追い風が欲しい」
 ハルムは、ニヤッとして拳を突き出した。
「そんなの超簡単。ああ、もっと難しいことかと身構えちゃったわ。ゲルダとロンドの打ち合わせが終わるまでには、全妖精に伝えるわ」
 エリアスが「行ってくれ」と言うと、ハルムはすぐに風の妖精たちの元へと飛んでいった。
 ロンドとゲルダの簡単な打ち合わせはすぐに終わった。自分が思う、よい夜を歌おうということになった。ロンドにも、ゲルダにも、それぞれ、好きな夜がある。初めての歌の合わせだったが、特に心配はなかった。
 もうできる、と、ロンドとゲルダがエリアスを見た瞬間、ハルムも戻ってくる。
「バッチリ。風の妖精たちは、みんな待ってるわ! こんなに面白いことは今までになかったってね」
 ハルムはエリアスの肩に座り、事が始まるのを待った。
「ありがとう。ロンドとゲルダも」
 ロンドとゲルダは視線を交わし、頷いた。
 まず言葉を紡いだのは、ロンドだった。
 それに合わせて、ゲルダが言葉を重ねる。


 ゆりかごの中でボクらは愛された
 いつかそこから出ていかないといけないと分かっていても
 愛されたくて 戻ってくる
 温かくて 優しいベッドに
 夢はいつだって ボクらを守ってくれた
 守ってくれる人は すぐそこにいた
 気づかせてくれる人は すぐそこにいた
 夢が終わっても 夢は次の夜に生き続ける
 忘れない限り 永遠に


 エリアスは、二人の歌を、風で運んだ。
 エリアスの風を、ハルムの風が支える。
 魔法の風が運ぶ歌は、海を越え、小人の街、エルフの森、巨人の谷――夜の国の果てまで、そして、昼の国の果てまで響き渡る。
 エリアスの知らない、見たこともない世界にまで。
 風の妖精たちは、伝言ゲームを楽しむかのように、エリアスの風を支え、追い風で更に遠くまで運んだ。
 ホームで人間たちを宥めていたリュートも、その歌を聞いた。
 思い出すのは、記憶にない、幸せな温もりだった。それはきっと、母である夜の女王の、ゆりかごのような夜のドレスの温もりだったのだろう。
 聞いた瞬間、リュートは、大粒の涙を流した。
「私、夜の愛し子で、良かった――」
 ベルを鳴らし、リュートはうとうととする人間たちに言った。
「さあ、あなたたちのベッドに帰りましょう。私が送っていってあげる。いい夢を見るのよ」
 なんといい夜なのだろうか。
 リュートは微笑みを浮かべ、人間たちを昼の世界に返す。
 リュートのベルは、ゲルダとロンドの歌に飾りをつけた。祈りのベルの音は空高くまで響き、夜の女王の元まで届く。


 愛し子の魔法が全世界に届くのを、夜の女王は空から見ていた。
 ドレスの中にいる愛し子たちが、すやすやと安らかな寝息を立てている。いつにもなく、穏やかな寝息だった。
 エルフというのは、森から出ない崇高な種族だった。その伝統を、我が愛し子が変えようとしているのも、女王は分かっている。
 この世界は見ていて面白い。自分の子供たちが世界を変えようとしているのだからなおさら。
 女王は月の顔を輝かせ、夜の国をどこまでも照らした。


 いつもの、穏やかな星空。
 ロンドとゲルダは微笑みを交わしていた。
 いい歌を歌えた。それだけで、胸がいっぱいになる。歌ったあとの沈黙も、二人にとっては心地よかった。
 しかし、そんな二人をよそに、エリアスはぼんやりと月を見上げていた。
「どうしたの?」
 ゲルダが聞くと、はっとしたエリアスは、首を横に振った。
「いいや。俺も、母に愛されているのだなと思ったんだ。ありがとう、いい歌だった。おかげで、いい夜になった」
 水平線の彼方が夜明けを迎えようとしている。早くゲルダを昼に返さなければならなかったが、エリアスはもう少し、ゲルダに頼みたいことがあった。
 ロンドに見送られ、エリアスたちは、最後の目的地へと向かった。
 エルフの森に。
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