6章
ゲルダは急降下で体の中のものが口から出てきそうな感覚に襲われ、両手で口を押さえた。叫ぼうにも、叫べれない。地面に叩きつけられるまで、あと何秒あるのだろう。衝撃に備え、体中に力が入った。
へなへなと力なく落ちてくるハルムをエリアスは左手で寄せ、右手で硬直しているゲルダを抱き寄せた。
叔父には、たくさんの呪文を教わったし、ゲルダを夜の国に呼び寄せた時も、召喚呪文を唱えた。
しかし、今のエリアスに、もう呪文は必要なかった。
風に願えば、風は応えてくれた。どこからともなく、風がエリアスの元に集まる。
三人の体を優しく包み、受け止める。風は、森の香りがした。深緑の葉をたっぷり蓄えた木々の香りだ。これから帰るべき故郷。故郷の風は、自分の魔法に応えて、祝福してくれていた。
新たな王、新たな夜の柱、新たな夜の賢者。なんでも言うことを聞こう。そう言うかのように、エリアスの元に風は集まっていた。
「やっぱりエリアスは風を使うのがうまいのね。いい風だわ」
ハルムは興奮気味に言っていた。風の妖精にそう言われると、やはり嬉しかった。
「ありがとう。ハルムの風も、よい風だ」
もうやだ、と、ハルムは照れて手の中で顔を赤くして笑った。
エリアスはゲルダにそっと声をかける。
「ゲルダ。魔法を返してくれてありがとう」
腕の中で、ゲルダはそっと瞼を開いた。落下が止まって、安堵の溜息が出る。
「これ、エリアスの魔法なの?」
「俺の魔法。でも、ゲルダのまじないと似ている。魔法は願い。祈り。それから、信頼。ゲルダが教えてくれたんだ」
今なら呪文の意味が分かる。
願いを言葉という形にして、世界に拡散するためのものだった。願いがなくとも、とりあえず言葉にしておけば、魔法は使える。しかし、願いが弱ければ、力も弱まる。
叔父はきっと知らなかったのだ。本当の魔法の使い方を。
「ゲルダ、すまないが、夜明けまでにやりたいことがある。一つ、頼みたいことがあるんだ」
ゲルダは頷いた。
「この混ざりかけた世界を元に戻さなければならない。本当は、俺の力ですべきことだが、ゲルダの力を借りたい。そうすれば、もっと良くなるはずだから」
「何をしたらいいの」
「まじない歌を、歌って欲しい。ああ、それから、ロンドにも歌ってもらいたいな。静かの海に行こう」
また会う。その約束も果たさなければならなかった。
風に願うと、風はすぐにエリアスたちを静かの海に運んだ。
その様子を、リュートは地上から見ていた。
エリアスの元に魔法が戻ったとはいえ、まだ昼と夜は混乱していた。小人たちの亡霊と人間たちに溢れる街の中で、こちらに来てしまった人間をホームに案内している最中だった。
星々の下で再会したエリアスとゲルダを見上げながら、リュートは溜息をついていた。
「あなたたちのおかげで、今日の私はめちゃくちゃ多忙なの」
そんなこと言わなくてもいいじゃない、と、カンテラの中の妖精はガラスを叩いた。
この光の妖精はどうも、風の妖精と同じで、今の状況を楽しんでいるようである。
「あのね。私は、この夜警の仕事はとても楽なものだと思ってたから、この仕事をしてるの。というか、市長にそう言われて夜警になったわけ。私があなたたち全ての妖精を従える力を持っていても、夜警の仕事が大変だと知ってたら、夜警になんかならなかった」
噴水の脇に、人間の赤子がいた。母親と別れてしまって、泣いている。
風の妖精をベルで集め、ホームに運ぶように指示をする。
リュートの側につきっきりでいる風の妖精は、人間の吹いている角笛の音からリュートを守っていた。
「まあでも、人間の夜警も頑張ってるみたいだし」
そうそう、と、光の妖精も風の妖精も頷く。
「私も小人の街の夜警として、夜は守らせてもらうわ」
ベルを鳴らし、リュートは夜色のドレスを揺らした。
あまり自覚はないが、これだけの妖精を従えられるのは、自分も夜の愛し子だからだった。この街の夜の柱として認められているのは、市庁舎にいる小太りおじさんの市長だが、実質、この街の夜を守るのはリュートだった。
リュートはエリアスみたいに母の夢は見ないし、母との記憶もあまりないし、自分が夜の愛し子という感覚もあまりない。夜の愛し子であるという証拠は、妖精を従えることができる力だけだ。だから、自分が夜の愛し子であることは、誰にも話してない。星の兄弟であるエリアスにも。
でも、この夜色のドレスが好きなのは、母と似ているからなのだろうと思っている。夜を愛している母と。
だから、愛し子として、夜警として、今できる精一杯のことをするのである。
「昨日という夜も、今日という夜も、明日という夜も、全部がいい夜にならなければならないのよ、エリアス。あなたも夜の愛し子なら、分かるでしょ」
毎日が、幸せな夜でなければならない。だから、自分は夜警として、ベルを鳴らすのだ。
それは、人間の国の夜警も同じだ。だから、彼らは角笛を鳴らすのだ。
妖精が、人間を見つけたとリュートに知らせに来る。リュートは「よい夜を」とエリアスに言葉を贈り、小人の街を駆けた。
へなへなと力なく落ちてくるハルムをエリアスは左手で寄せ、右手で硬直しているゲルダを抱き寄せた。
叔父には、たくさんの呪文を教わったし、ゲルダを夜の国に呼び寄せた時も、召喚呪文を唱えた。
しかし、今のエリアスに、もう呪文は必要なかった。
風に願えば、風は応えてくれた。どこからともなく、風がエリアスの元に集まる。
三人の体を優しく包み、受け止める。風は、森の香りがした。深緑の葉をたっぷり蓄えた木々の香りだ。これから帰るべき故郷。故郷の風は、自分の魔法に応えて、祝福してくれていた。
新たな王、新たな夜の柱、新たな夜の賢者。なんでも言うことを聞こう。そう言うかのように、エリアスの元に風は集まっていた。
「やっぱりエリアスは風を使うのがうまいのね。いい風だわ」
ハルムは興奮気味に言っていた。風の妖精にそう言われると、やはり嬉しかった。
「ありがとう。ハルムの風も、よい風だ」
もうやだ、と、ハルムは照れて手の中で顔を赤くして笑った。
エリアスはゲルダにそっと声をかける。
「ゲルダ。魔法を返してくれてありがとう」
腕の中で、ゲルダはそっと瞼を開いた。落下が止まって、安堵の溜息が出る。
「これ、エリアスの魔法なの?」
「俺の魔法。でも、ゲルダのまじないと似ている。魔法は願い。祈り。それから、信頼。ゲルダが教えてくれたんだ」
今なら呪文の意味が分かる。
願いを言葉という形にして、世界に拡散するためのものだった。願いがなくとも、とりあえず言葉にしておけば、魔法は使える。しかし、願いが弱ければ、力も弱まる。
叔父はきっと知らなかったのだ。本当の魔法の使い方を。
「ゲルダ、すまないが、夜明けまでにやりたいことがある。一つ、頼みたいことがあるんだ」
ゲルダは頷いた。
「この混ざりかけた世界を元に戻さなければならない。本当は、俺の力ですべきことだが、ゲルダの力を借りたい。そうすれば、もっと良くなるはずだから」
「何をしたらいいの」
「まじない歌を、歌って欲しい。ああ、それから、ロンドにも歌ってもらいたいな。静かの海に行こう」
また会う。その約束も果たさなければならなかった。
風に願うと、風はすぐにエリアスたちを静かの海に運んだ。
その様子を、リュートは地上から見ていた。
エリアスの元に魔法が戻ったとはいえ、まだ昼と夜は混乱していた。小人たちの亡霊と人間たちに溢れる街の中で、こちらに来てしまった人間をホームに案内している最中だった。
星々の下で再会したエリアスとゲルダを見上げながら、リュートは溜息をついていた。
「あなたたちのおかげで、今日の私はめちゃくちゃ多忙なの」
そんなこと言わなくてもいいじゃない、と、カンテラの中の妖精はガラスを叩いた。
この光の妖精はどうも、風の妖精と同じで、今の状況を楽しんでいるようである。
「あのね。私は、この夜警の仕事はとても楽なものだと思ってたから、この仕事をしてるの。というか、市長にそう言われて夜警になったわけ。私があなたたち全ての妖精を従える力を持っていても、夜警の仕事が大変だと知ってたら、夜警になんかならなかった」
噴水の脇に、人間の赤子がいた。母親と別れてしまって、泣いている。
風の妖精をベルで集め、ホームに運ぶように指示をする。
リュートの側につきっきりでいる風の妖精は、人間の吹いている角笛の音からリュートを守っていた。
「まあでも、人間の夜警も頑張ってるみたいだし」
そうそう、と、光の妖精も風の妖精も頷く。
「私も小人の街の夜警として、夜は守らせてもらうわ」
ベルを鳴らし、リュートは夜色のドレスを揺らした。
あまり自覚はないが、これだけの妖精を従えられるのは、自分も夜の愛し子だからだった。この街の夜の柱として認められているのは、市庁舎にいる小太りおじさんの市長だが、実質、この街の夜を守るのはリュートだった。
リュートはエリアスみたいに母の夢は見ないし、母との記憶もあまりないし、自分が夜の愛し子という感覚もあまりない。夜の愛し子であるという証拠は、妖精を従えることができる力だけだ。だから、自分が夜の愛し子であることは、誰にも話してない。星の兄弟であるエリアスにも。
でも、この夜色のドレスが好きなのは、母と似ているからなのだろうと思っている。夜を愛している母と。
だから、愛し子として、夜警として、今できる精一杯のことをするのである。
「昨日という夜も、今日という夜も、明日という夜も、全部がいい夜にならなければならないのよ、エリアス。あなたも夜の愛し子なら、分かるでしょ」
毎日が、幸せな夜でなければならない。だから、自分は夜警として、ベルを鳴らすのだ。
それは、人間の国の夜警も同じだ。だから、彼らは角笛を鳴らすのだ。
妖精が、人間を見つけたとリュートに知らせに来る。リュートは「よい夜を」とエリアスに言葉を贈り、小人の街を駆けた。