6章

 ゲルダはエリアスの頬を両手で包んだ。最初は手だけにあった痣が、頬にも、髪にも拡がってしまっている。見えていないだけで、もっと体のあちこちに痣があるのだろう。
 エリアスは、もう手袋をしていなかった。その手は、今、ゲルダを支えてくれていた。
 ここまで自分を失いかけても、エリアスはゲルダから無理矢理魔法を取り上げることはなかった。ゲルダから魔法が返されるのを待っているのだ。
「ゲルダ、すまなかった。俺は、俺のことしか考えてなくて、ゲルダをこちらに呼び寄せてしまった。ゲルダの人生を、大切な時間を、俺は奪ってしまった。ゲルダと共に生きられないのなら、もう生きていることに意味はないと諦め、全てを忘れた。本当に、いけないことをしてしまった」
 エリアスの頬が、ゲルダの頬に触れた。ひんやりとした、夜の頬だった。
 でも、ゲルダは知っている。エリアスの本当の優しさと温かさを。
「人間にとっては、すごく大切な五十年。私は、両親と一緒にいる時間を失ってしまった。ママ・アルパと一緒に過ごしていて、私の両親は、私を探してくれていないのかなって、寂しく思うこともあった」
 エリアスの腕が、ゲルダを力いっぱい抱きしめた。罪悪感でいっぱいなのが伝わってくる。
「本当に――」
「でもね」
 ゲルダはエリアスの言葉を遮る。
 もう、謝罪の言葉は要らなかった。
「あの時の私は、本当に、本当に、エリアスが大好きだった。エリアスは私の命の時を止めて、私を幼いままにしていた。私の成長が止められていたから、素直なままでいて、エリアスを疑うこともなかった。魔法がかけられていたとはいえ、あの時の私は、確かに、エリアスのことが大好きだった。エリアスが私を眠りから解いてくれた時、目覚めた時に一番に見るエリアスの顔が好きだった。それから、エリアスが見せてくれた魔法の数々も、エリアスが語って聞かせてくれた話も、全部」
 ゲルダはそれに、と続ける。
「私は、エリアスの元に行かなければ、ママ・アルパの元に行くこともなかった。ママ・アルパの元に行くことがなければ、私はまじない師を目指すこともなかった。私は、まじない師であることに、一応、誇りは持ってる。まだ自分の力を見誤るくらいのへっぽこな見習いだけど……、今の私は、エリアスの元に行ったからこそある私なの。まじないがなければ、こうやって、エリアスのところにもう一度来ることはなかったし、エリアスの優しい魔法にも気付かないままだったと思う。エリアスとの出会いも、ママ・アルパとの出会いも、全部、あってこその今なの。エリアスのしたことを、私は、咎めるつもりは、一切ないの。だから、謝らないで」
 エリアスは、何も言えなかった。何と返したらよいか分からなかった。
 そっとゲルダを抱きしめて、許しを受け止めた。
「ゲルダは優しい。俺は、そんなゲルダが、昔の俺も、今の俺も、大好きなんだ」
「うん」
「でも、俺は決めた。ゲルダの元で大切にされた魔法を使って、俺は、本当の夜の柱となり、夜の賢者として、夜の愛し子として、この世界を守ると。それが、俺のすべきことなのだと、分かったんだ」
 だから、魔法を返してほしい。エリアスは真っ直ぐに言った。
 ゲルダは頷いた。
「エリアスに、魔法と一緒に、一番いい、まじないを渡すから、受け取ってくれる?」
「どんなまじないだ」
「別々の世界にいても、寂しくならないまじない」
「なら、喜んで受け取ろう。ああ、そうだな。俺たちは、これから別れなくちゃならない」
 でも、ゲルダのまじないがあるなら、きっと大丈夫だと、エリアスは思う。
 ゲルダは自分ではまだまだだと言うが、エリアスにとっては、偉大なまじない師だった。それは確かだ。ゲルダのまじないは、本当にいいものだと思っている。
 たとえその中に、魔法の力が含まれていたとしても――ゲルダの願いは本物だから。
 ゲルダの手が、再び、エリアスの頬を包んだ。
「私、エリアスに愛されて、幸せだった。エリアスと出会えて、幸せだった。これから先も、エリアスとの思い出を大切にして生きる。ずっと忘れない。エリアスの想いも、エリアスの優しい魔法も、エリアスが気付かせてくれた、本当のまじないの意味も」
 ゲルダのまじないは、言葉だった。
 エリアスはその言葉を、大切に受け取る。
「俺も、ゲルダに愛されて、幸せだった。ゲルダに、救われた。だから、俺は生きることを諦めない。ゲルダの祈りと願いも、まじないも、想いも、一生忘れない。エルフの永い命が尽き、夜の賢者、夜の柱としての役目を終える、その時まで」
 ゲルダもエリアスの言葉を、大切に受け取る。
 そして、ゲルダは優しくエリアスにキスをした。
 自分の中にある魔法が、エリアスの中に流れていくのを感じる。膨大な力の流れだった。
 魔法を飲むかのように、エリアスの喉がこくりと鳴った。
 冷たかった頬が温かくなる。痣がすうっとなくなっていった。体中の夜が、魔法を取り戻し、エリアスの中に収まっていく。夜色に染まった部分の髪は風に流されてしまい、エリアスの髪は首元まで短くなった。
「――ああ」
 エリアスは嬉しそうに微笑んだ。
「楽になった」
「さっぱりしたね。そっちのほうが、私、好きかも」
 エリアスがありがとう、と言おうとした矢先、体ががくんっと傾いた。
「とってもいいところ、本当にごめん、私、もう二人を支えるの、無理かも〜!」
 ハルムが限界の悲鳴を上げていた。風がなくなり、一気に落下が始まったのだった。
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