1章

 一足先に、リビングの端にあるベッドに入った。
 横になり、大きく息を吸う。すると、甘く、爽やかな香りとともに、温かい空気が胸いっぱいに入ってくる。ゲルダのベッドは、いつもポプリの香りがする。ママ・アルパが、ゲルダが安眠できるようにといつも香りをつけてくれているのだ。
 ママ・アルパはベッドを大切にしていた。三日に一度は布団を陽の光に当て、湿気を取った。香りをつけ、いつも心地よい状態にしていた。ママ・アルパがゲルダに教えたのは、絶対にベッドの中で泣くな、ということだった。悲しみはベッドの中に持って入ってはいけない。悲しい記憶を呼び覚ます道具にしてはいけない。そう教えられていた。
 だから、ベッドに入ると、いつも幸せな気持ちになる。つい先程、ママ・アルパと口喧嘩をしてしまっても。
 ゲルダは寝返りを打ち、暖炉の火を見た。その前で、ママ・アルパは包丁の柄にナイフで古代文字を刻みつけている。ゲルダが新しい包丁を買い忘れてしまったので、これ以上切れ味が悪くならないように、まじないを施している。
 ママ・アルパは血の繋がらない親だ。
 ゲルダは気がついたらママ・アルパに育てられていた。実の親の記憶がない。ただ単に憶えていないだけなのか、何かがきっかけで記憶を失ってしまったのか、それも分からない。気がついたらママ・アルパの家にいて、気がついたらママ・アルパのことをママと呼んでいた。
 幼い頃は、ママ・アルパの使っているまじない石――古代文字を刻んだ石がとても綺麗で、ママ・アルパのまじないをうっとりとしながら見ていた。特に、ママ・アルパの使う、翡翠で作られた占い石は、一つ一つが意味を持ち、質問に対して的確な答えを出してくれるもので、好きなまじないのうちの一つだった。ゲルダが悩み、不安を感じた時は、いつもママ・アルパの占い石に慰められたり、鼓舞したりしてもらっていた。自分の内面を見抜いてしまう厄介な道具である、と感じるようになったのは、つい最近のことである。
 本当は、ゲルダも古代文字を使ったまじないを早くに教わりたかった。けれども、ママ・アルパは、まずはハーブから習得しなさいと言って、教えてもらえていない。
 ママ・アルパはまじないを刻み終え、包丁をキッチンへと持っていった。そして、ママ・アルパはゲルダのベッドの隣に座った。
「ねえママ、私はいつになったら、古代文字のまじないを教えてもらえるの?」
 ゲルダが小さな声で言うと、ママ・アルパのしわくちゃの手がゲルダの頬を撫でた。
 教える必要はない。もうお前は知っているじゃないか。
 言葉はなかったが、ママの手がそのように語った。
「今日はまじない師にしか伝わらない、いにしえの物語を聞かせてあげよう」
「いにしえ?」
「ゲルダが、町で聞いてきた話のことさ」
 ママ・アルパの、星のような銀髪が煌めく。
 ぱちりと火が爆ぜる音が聞こえた。
 静かな夜に、ママ・アルパの声が小さく響く。
「その昔、神は二つの世界を創った。我々人の生きる世界。異形の者が生きる世界。我々の生きる世界は昼の国、もう一つの世界は夜の国と神は名前をつけた。この二つの世界は神の遊び心のままに生まれた。似ているようで、全く異なる世界。
 二つの世界は隣にあり、裏にあり、そこにあった。そんな二つの世界はどのようになるのか、神は知りたかったのだ。
 さて、世界は創造された。我々は夜の国の存在など知らずに過ごしてきた。そんな中、ある者は、人の中に、人ならざる者が混ざっていることに気づいた」
 ママ・アルパはゲルダの手を撫でながら、優しく語る。
 まるで、古代のまじない師の言葉を直接聴いているような感覚になる。誰かが、ママ・アルパの口を使っているのではないかと。
「その者は、成長しても、背丈が伸びなかった。大人の男の腰よりも低いまま、年老いて、死んだ。いにしえのまじない師は考えた。この者は、病でこうなったのではなく、もとからここまでしか背丈が伸びない種で、どこか違う世界からやってきたのではないかと。このような者が他にいないか、まじない師たちは探した。すると、やはり、どの国にもこのような小さき者がいた。
 その者たちは”小人”と呼ばれ、小さな頃は人間の子供として育てられていた。もちろん、親もいた。しかし、やはり背丈が普通のものではないので、気味悪がられ、迫害を受けていた。
 まじない師たちは、小人に聞いた。すると、小人たちは言った。自分たちは夜の国から来たのだと。自分たちが来たのと同じように、人間も夜の国にいるのだと」
「なぜ小人がこっちの世界に来て、人間が向こうの国に行く必要があったの?」
「小人はその理由をこのように語った。小人はこのように体が小さい。力もない。小人はずる賢く、いつも他の者の力を借りる。しかし、夜の国の種は皆自分勝手で、扱いづらい。そこで目をつけたのは昼の国に存在する非力な人間だった。人間が欲しかった小人は、まだ見分けのつかないうちに、赤子と小人を入れ替えた。自分たちは、世界に捨てられたのだ、と」
 つまり、人間は、小人の奴隷として連れ去られてしまったのだ。ゲルダは話を聞いてぞっとした。自分が行きたいとつい先程まで思っていた夜の国は、聞けば聞くほど、恐ろしく感じられる。
「まじない師たちは、連れ去られた人間を取り戻すため、小人を夜の国に戻すため、夜と昼を繋ぐ方法を考えた。しかし、昼と夜を繋ごうとすると、夜空に輝く星の数が増え、月は幻を映し出し、亡き者が地上に戻った。その時、空には大きく輝くカーテンが広がり、そのカーテンの向こうには大きな城があったという。二つの世界は、近くなりすぎると、混ざってしまうのだ。夜の国の者ができても、人間にはできなかった。そもそも人間の使うまじないは、魔法ではないからだ。だからまじない師たちは、これ以上、夜の国の者がこちらに来ないように、ある方法を考えた」
 ママ・アルパは壁を見た。
 そこには、羊の角で造った笛があった。いつも、日没の時間に、ママ・アルパが吹いている笛だ。
「小人たちは、角笛の音を嫌った。だから、昼と夜が最も近い時間、つまり夜に、この角笛を鳴らし、できるだけ夜の国の者が近寄らないようにした。ここゴンド島ではまじない師がその役割を担っているが、まじない師のいない国では、夜の見回りをする夜警がその役割を担った。それからは夜の国の者はこちらに来ていない、とされているが、それが本当かどうかは、誰も分からない――もしかしたら、すぐそこに、夜の国の者はいるのかもしれない」
 ママ・アルパは、語り終え、ゲルダの額を撫でた。
「これは、まじない師だけに伝わる話。まじない師のいない他の国では、別の伝承が語り継がれてきているはずだ。だから、ゲルダが今日出会った者は夜の国には不死の薬があると言っていたのだろう」
 そこでゲルダは、どうして、と呟いた。
 ついさっきは、自分に、まじないは教えられないと言ったはずだ。なのに、どうしてその話をしてくれたのだろう。
 ママ・アルパはゲルダの頬に軽くキスをした。
「私のかわいい娘。本当にお前が夜の国に行ってしまったら、私はお前を救ってやれない。そのことを、お前に知ってほしかった。このゴンド島の中でも力のあると言われるママ・アルパでさえ、夜の国は見つけられなかったんだよ」
「ママは夜の国に行こうとしたことがあったの?」
 聞いても、ママ・アルパは何も答えてくれなかった。
 ママ・アルパは角笛を手にし、外に出て行ってしまった。
 夜の国が嫌う音が、村を守る。
 まじない師たちに伝わる話は、ゲルダの知る世界を広げたような気がした。
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