6章
小人の街はごった返していた。亡霊に、昼の国と混ざり合い、人間の姿もあった。姿が透けていて、まるで人間たちも亡霊のようだった。
角笛の音が聴こえる。最初、この音が聴こえた時、エリアスの胸が見えない手でかき混ぜられている気がした。気が狂いそうになった。全身に痛みが走り、エリアスの中にある夜が逃げ出そうとした。
ハルムはそんなエリアスを見て、風で音から守ってくれた。
「あの音は、私達にとっては毒なの。夜と昼が混ざらないように、昼の国の住民が鳴らしてるの」
幸い、小人たちは、リュートの指示に従い、今日もシェルターに避難していた。夜の国側では大きな混乱はなかった。しかし、昼の国側のことはエリアスには分からなかったので、ゲルダが向こうにいて良かったと思っていた。
小人の街を彷徨う人間たちは、ずっと空を見上げている。そして、自分たちが見ている星々に、小人の亡霊に、妖精に、驚いている。夢のような現実に。
完全に混ざり合っていないとはいえ、いくらか境界を越え、こちらに来てしまっている者がいた。そういう人は、リュートがホームに避難させてくれていた。ホームが小人サイズではなく、人間サイズなのは、そういう理由があったからだとエリアスはようやく気付いた。
ごった返しているが、比較的、落ち着いてはいる。しかし、この中からゲルダを探すのは難しい。エリアスはハルムに頼む。
「俺を空に持ち上げてくれ。上から探す」
「分かった。瞬きを一度する間に」
ハルムが言う通り、瞬きをすると、もう上空にいた。
自分たちが渡ってきた静かの海が見える。
空の果てに、蜃気楼のように揺らぐ、女王の城があった。あの城は、遠くに見えていて、近くにある。母は、今も近くから自分たちを見ているだろう。この世界と、自分の行く末を見つめている。
エリアスがこうなるように願った時、自分の中の夜がどろっと溢れた。魔法を失い、自分を維持できないゆえに、夜はエリアスの体に拡がり、今にも飛び出そうとしている。
髪にまで夜が拡がった時、ハルムは叫んだ。死んじゃう、と。
エリアスも感じてはいた。気を緩めれば、夜は瞬く間にこの世界に溶けてしまう。ゲルダがこちらに来たのを感じたのか、夜は魔法の元に行こうとしている。胸の中の夜が、うずうずとしている。
自分からゲルダの元に行けば、ゲルダに全て吸われてしまいそうな気がした。だから、ゲルダが来てくれるのを、待つしかなかった。
ゲルダは、何と言うだろうか。私の五十年を返して、と言うだろうか。私の両親に会わせて、私の人生を返してと。
ゲルダは魔法を返してはくれる。そのために来てくれている。しかし、許してもらうつもりはなかった。
ハルムは、ゲルダなら許してくれるわよ、と言ってくれた。自分もわずかに期待してしまった。けれど、その期待は、すぐに打ち消した。
夜色に染まってしまった髪をなびかせ、エリアスは、一度、仰いだ。
虹の光のカーテンが揺らめいている。ゆっくりと、色を変え、姿を変え、揺らぐカーテンは、まるで母のヴェールのようだった。世界を慈しみ、愛しているかのように、空を包んでいる。
「言っちゃ悪いけど、綺麗ね」
「そうだな。これを見られるのは、これが最初で最後かもしれない」
「あなたは何百年と生きるエルフでしょ。もしかしたら、これから先、また同じようなことがあるかもしれないわよ」
「そうなれば、俺たち夜の柱たちがなんとかするだろう。力をもった夜の愛し子たちは、数多くいる。俺のように、誤った使い方をしてしまう者もいるだろう。だから、柱がいるんだ。夜の国の住民たちを守るのと同時に、幼い愛し子たちを守るんだ。俺の魔法は、そのためにあるんだ」
早く、そのことに気付くべきだった。しかし、当時のエリアスは気付くことができる環境にはいなかった。
遠回りをしてしまったな、と、エリアスは感じる。
「――そのことに、気付くことができた俺は、幸せなのかもしれないな」
「そうね。あなたは森から出た。あの、臆病で、自分たちのことしか考えていないエルフとは、違うわ。あなたは、誰かを信じ、誰かのために願い、祈ることができるの。王になる資格があるのよ。自信もって」
「ありがとう、ハルム」
ハルムは笑い、腕を地上に伸ばした。ちょっとくらい、命令されてないことをしてもいいだろうと、ハルムは風を呼ぶ。
風が地上を駆けた。何かにぶつかる感覚がして、ハルムはぎゅっと手を握る。
「いた。ゲルダ、捕まえた!」
準備はいい、とハルムはエリアスに問う。
エリアスは頷いた。
ハルムは腕をくっと曲げ、掴んだものを持ち上げる。
すると、叫び声と一緒に、ゲルダが自分めがけて飛んできた。鞄とカンテラが落ちないように握りしめているゲルダは、エリアスの姿を見ると、腕を目一杯伸ばした。
手袋のしていない手を伸ばす。
夜がゲルダの中にある魔法の元へ逃げていきそうになるのを押し留めながら。
「エリアス……っ!」
エリアスは、胸に飛び込んできたゲルダをしっかり抱きしめた。
何を言おうか、散々悩んでいたが、いざとなれば、言葉というのはすぐに出てくるものだった。
「ゲルダ」
それは、夜の国に召喚してから、何百回何千回と呼んできた名だった。
「ゲルダ、ありがとう、来てくれて」
ゲルダは、エリアスの胸で頷いた。
その光景を見たハルムは、まるで星々が二人を祝福しているようだと、感じていた。
角笛の音が聴こえる。最初、この音が聴こえた時、エリアスの胸が見えない手でかき混ぜられている気がした。気が狂いそうになった。全身に痛みが走り、エリアスの中にある夜が逃げ出そうとした。
ハルムはそんなエリアスを見て、風で音から守ってくれた。
「あの音は、私達にとっては毒なの。夜と昼が混ざらないように、昼の国の住民が鳴らしてるの」
幸い、小人たちは、リュートの指示に従い、今日もシェルターに避難していた。夜の国側では大きな混乱はなかった。しかし、昼の国側のことはエリアスには分からなかったので、ゲルダが向こうにいて良かったと思っていた。
小人の街を彷徨う人間たちは、ずっと空を見上げている。そして、自分たちが見ている星々に、小人の亡霊に、妖精に、驚いている。夢のような現実に。
完全に混ざり合っていないとはいえ、いくらか境界を越え、こちらに来てしまっている者がいた。そういう人は、リュートがホームに避難させてくれていた。ホームが小人サイズではなく、人間サイズなのは、そういう理由があったからだとエリアスはようやく気付いた。
ごった返しているが、比較的、落ち着いてはいる。しかし、この中からゲルダを探すのは難しい。エリアスはハルムに頼む。
「俺を空に持ち上げてくれ。上から探す」
「分かった。瞬きを一度する間に」
ハルムが言う通り、瞬きをすると、もう上空にいた。
自分たちが渡ってきた静かの海が見える。
空の果てに、蜃気楼のように揺らぐ、女王の城があった。あの城は、遠くに見えていて、近くにある。母は、今も近くから自分たちを見ているだろう。この世界と、自分の行く末を見つめている。
エリアスがこうなるように願った時、自分の中の夜がどろっと溢れた。魔法を失い、自分を維持できないゆえに、夜はエリアスの体に拡がり、今にも飛び出そうとしている。
髪にまで夜が拡がった時、ハルムは叫んだ。死んじゃう、と。
エリアスも感じてはいた。気を緩めれば、夜は瞬く間にこの世界に溶けてしまう。ゲルダがこちらに来たのを感じたのか、夜は魔法の元に行こうとしている。胸の中の夜が、うずうずとしている。
自分からゲルダの元に行けば、ゲルダに全て吸われてしまいそうな気がした。だから、ゲルダが来てくれるのを、待つしかなかった。
ゲルダは、何と言うだろうか。私の五十年を返して、と言うだろうか。私の両親に会わせて、私の人生を返してと。
ゲルダは魔法を返してはくれる。そのために来てくれている。しかし、許してもらうつもりはなかった。
ハルムは、ゲルダなら許してくれるわよ、と言ってくれた。自分もわずかに期待してしまった。けれど、その期待は、すぐに打ち消した。
夜色に染まってしまった髪をなびかせ、エリアスは、一度、仰いだ。
虹の光のカーテンが揺らめいている。ゆっくりと、色を変え、姿を変え、揺らぐカーテンは、まるで母のヴェールのようだった。世界を慈しみ、愛しているかのように、空を包んでいる。
「言っちゃ悪いけど、綺麗ね」
「そうだな。これを見られるのは、これが最初で最後かもしれない」
「あなたは何百年と生きるエルフでしょ。もしかしたら、これから先、また同じようなことがあるかもしれないわよ」
「そうなれば、俺たち夜の柱たちがなんとかするだろう。力をもった夜の愛し子たちは、数多くいる。俺のように、誤った使い方をしてしまう者もいるだろう。だから、柱がいるんだ。夜の国の住民たちを守るのと同時に、幼い愛し子たちを守るんだ。俺の魔法は、そのためにあるんだ」
早く、そのことに気付くべきだった。しかし、当時のエリアスは気付くことができる環境にはいなかった。
遠回りをしてしまったな、と、エリアスは感じる。
「――そのことに、気付くことができた俺は、幸せなのかもしれないな」
「そうね。あなたは森から出た。あの、臆病で、自分たちのことしか考えていないエルフとは、違うわ。あなたは、誰かを信じ、誰かのために願い、祈ることができるの。王になる資格があるのよ。自信もって」
「ありがとう、ハルム」
ハルムは笑い、腕を地上に伸ばした。ちょっとくらい、命令されてないことをしてもいいだろうと、ハルムは風を呼ぶ。
風が地上を駆けた。何かにぶつかる感覚がして、ハルムはぎゅっと手を握る。
「いた。ゲルダ、捕まえた!」
準備はいい、とハルムはエリアスに問う。
エリアスは頷いた。
ハルムは腕をくっと曲げ、掴んだものを持ち上げる。
すると、叫び声と一緒に、ゲルダが自分めがけて飛んできた。鞄とカンテラが落ちないように握りしめているゲルダは、エリアスの姿を見ると、腕を目一杯伸ばした。
手袋のしていない手を伸ばす。
夜がゲルダの中にある魔法の元へ逃げていきそうになるのを押し留めながら。
「エリアス……っ!」
エリアスは、胸に飛び込んできたゲルダをしっかり抱きしめた。
何を言おうか、散々悩んでいたが、いざとなれば、言葉というのはすぐに出てくるものだった。
「ゲルダ」
それは、夜の国に召喚してから、何百回何千回と呼んできた名だった。
「ゲルダ、ありがとう、来てくれて」
ゲルダは、エリアスの胸で頷いた。
その光景を見たハルムは、まるで星々が二人を祝福しているようだと、感じていた。