6章
とにかく早く夜の国へ行かなければならなかった。ゲルダはどこか夜の国に行く道がないかと探し求め、走っていた。
このティルハーヴェンという街は、小人の街の表の顔である。小人の街と表裏一体の関係であるならば、ここから夜の国に向かえばすぐに小人の街に行くことができると考えた。しかし、昼と夜が強く混ざりあっているような場所は見当たらなかった。
ゲルダが前に夜の国に行った時は、森から入った。
霧が全てを有耶無耶にし、昼と夜の境界までも曖昧なものにしてしまう。森の霧が夜の国へ通じやすくしてくれていた。
しかし、ここはどうだろう。今は夜警たちが角笛も吹いている。
森に行かなければいけないのだろうか。だったら、この街から一番近い森の入り口に行かなければいけない。
住宅区に入ると、角笛の音に起こされた人々が火災と勘違いをして、家から出てきていた。火の手が上がっていないことには安堵していたが、空の異変に気が付き、人々はどよめいていた。その中には、夫がいない、妻がいない、子がいない、と騒いでいる人々もいる。角笛で夜の住民がこちらに来ないようにすることはできるが、こちらの住民が夜に行ってしまうことは食い止めることができていなかった。
自分が迷っている時間が長ければ長いほど、人々も、夜の国の住民も、世界も混乱してしまう。
ゲルダはすぐ隣に立っていた男に、ここから一番近い森を教えてもらった。東門から街を出れば、目の前にすぐ森がある、ということだった。ここは西門に近い場所だから、広場を経由して、反対方向に向かわなければならないことも親切に教えてくれる。
「でも、森なんて、一人で行ったらいけないよ」
ママ・アルパと同じことを言われる。その理由は分かる。獣に襲われるからだけではない。夜の国に行ってしまうからだ。人々は、皆、必ず、言うのだ。森に行ってはいけないと。
「大丈夫、ありがとうございます。もう家に入ったほうがいいです。角笛も鳴ってますし」
「ああ、そうだね。君も」
男は家の中に入り、ゲルダはまた広場に向かって走り出す。
夜の国に行った夜も、ずっと走っていた。巨人に襲われ、エルフに追われ、エリアスと共に逃げた。ハルムが風で背中を教えてくれた。あのいたずらな風の妖精は今、ここにはいない。ゲルダは広場を前にして一度膝に手をつき、息を整えた。足を速くするまじないなんてない。まじないに頼っていい時と、頼ってはいけない時と、頼れない時があるくらい、分かっている。
つばを飲み込み、ゲルダは深呼吸して、体を起こした。
起こして、そして、目を見開いた。
エリアスがそこにいた。ハルムもいた。
「ああ、いた……!」
エリアスは、顔を歪めて、ゲルダに手を伸ばした。
ゲルダもエリアスの胸めがけて走った。
「エリアス!」
抱きしめようとしたが、自分の腕は空を抱いた。
まだ、完全に混ざりあっていなかった。エリアスの姿は、透けていた。
「夜の国は大丈夫なの? 混乱してない?」
「してない。なぜなら、これは、俺がしたことだから」
ゲルダは、エリアスの髪を見て、驚いた。
あの美しい、月のような髪が、毛先から首元まで夜に染まってしまっている。エリアスは、手袋をはめていなかった。手の痣も、頬の痣も、以前に増して濃くなってしまっている。
「ゲルダは俺に教えてくれた。信じ、願えば、そうなると。だから、ゲルダがもう一度こちらに来てくれるように、昼と夜が混ざるように願ったんだ」
「エリアスは、私が魔法を持っていることを思い出したの?」
「母上が教えてくれた。ゲルダも、思い出したのだな」
エリアスはどこか申し訳無さそうな顔をしている。そんな顔になる理由は、ゲルダは分かっている。魔法を飲ませたこと。魔法を取り戻すために、昼と夜を混ぜていること。ゲルダに迷惑をかけていると思っているのだ。
そんなエリアスに、大丈夫、自分は大丈夫だと、抱きしめて言ってやりたい。ゲルダは鞄の紐も握った。
「エリアス、待ってて。すぐ、そっちに行くから」
「分かった。今、リュートに協力してもらっているんだ。小人たちは避難しているし、こちらに来てしまった人間は、リュートが保護してくれている。リュートに、ゲルダを迎えるよう伝えておこう」
ハルムがゲルダの前に躍り出て、ゲルダの鼻に額をつける。
「それから、狭間の妖精にガツンと言うように、お願いしておくから」
「うん」
そのとき、広場にいた夜警が勢いよく角笛を鳴らした。空気が激しく震えるかのような音色だった。
エリアスとハルムの姿がゆらぎ、そのまま消えてしまう。
すぐ行かなければ。ゲルダは再び走る。入り組んだ道に迷いはしたものの、なんとか東門までたどり着く。
街の東側は、閑散としていた。門番も一人しかいなかった。街が騒がしいのは分かるが、ここから離れることができないので、そわそわとしていた。
「あの、門を開けてもらっていいですか」
「ああ、いいけど、この先は森だよ? それに、街は今どうなってる?」
「急いでるんです。お願いします」
質問に答えてくれなかった門番は小さく舌打ちをしたが、すぐに門を開けてくれた。
門の先にあったのは、闇だった。
ゲルダは門番に礼を言い、すぐに街を出る。森を前にし、カンテラを握りしめた。
鞄から、水晶を取り出す。万が一のために持っていた、三つの水晶のうちの最後の一つだった。
ゲルダは水晶を右手に、カンテラを左手に持ち、森に入る。
あの時のように、霧は出なかった。だから、カンテラの光に願った。夜の国に通じる道を開けと。
自分の中にあるエリアスの魔法に願った。あるべきところに通じる道を開けと。
水晶を投げた。
カンテラの光に輝く水晶は、ぱきんと音を立てて空中で割れた。破片たちが、一粒一粒、カンテラの光を反射し、輝く。
その輝きは、霧となった。
濃い霧がゲルダを包む。
狭間にゲルダは立っていた。
このティルハーヴェンという街は、小人の街の表の顔である。小人の街と表裏一体の関係であるならば、ここから夜の国に向かえばすぐに小人の街に行くことができると考えた。しかし、昼と夜が強く混ざりあっているような場所は見当たらなかった。
ゲルダが前に夜の国に行った時は、森から入った。
霧が全てを有耶無耶にし、昼と夜の境界までも曖昧なものにしてしまう。森の霧が夜の国へ通じやすくしてくれていた。
しかし、ここはどうだろう。今は夜警たちが角笛も吹いている。
森に行かなければいけないのだろうか。だったら、この街から一番近い森の入り口に行かなければいけない。
住宅区に入ると、角笛の音に起こされた人々が火災と勘違いをして、家から出てきていた。火の手が上がっていないことには安堵していたが、空の異変に気が付き、人々はどよめいていた。その中には、夫がいない、妻がいない、子がいない、と騒いでいる人々もいる。角笛で夜の住民がこちらに来ないようにすることはできるが、こちらの住民が夜に行ってしまうことは食い止めることができていなかった。
自分が迷っている時間が長ければ長いほど、人々も、夜の国の住民も、世界も混乱してしまう。
ゲルダはすぐ隣に立っていた男に、ここから一番近い森を教えてもらった。東門から街を出れば、目の前にすぐ森がある、ということだった。ここは西門に近い場所だから、広場を経由して、反対方向に向かわなければならないことも親切に教えてくれる。
「でも、森なんて、一人で行ったらいけないよ」
ママ・アルパと同じことを言われる。その理由は分かる。獣に襲われるからだけではない。夜の国に行ってしまうからだ。人々は、皆、必ず、言うのだ。森に行ってはいけないと。
「大丈夫、ありがとうございます。もう家に入ったほうがいいです。角笛も鳴ってますし」
「ああ、そうだね。君も」
男は家の中に入り、ゲルダはまた広場に向かって走り出す。
夜の国に行った夜も、ずっと走っていた。巨人に襲われ、エルフに追われ、エリアスと共に逃げた。ハルムが風で背中を教えてくれた。あのいたずらな風の妖精は今、ここにはいない。ゲルダは広場を前にして一度膝に手をつき、息を整えた。足を速くするまじないなんてない。まじないに頼っていい時と、頼ってはいけない時と、頼れない時があるくらい、分かっている。
つばを飲み込み、ゲルダは深呼吸して、体を起こした。
起こして、そして、目を見開いた。
エリアスがそこにいた。ハルムもいた。
「ああ、いた……!」
エリアスは、顔を歪めて、ゲルダに手を伸ばした。
ゲルダもエリアスの胸めがけて走った。
「エリアス!」
抱きしめようとしたが、自分の腕は空を抱いた。
まだ、完全に混ざりあっていなかった。エリアスの姿は、透けていた。
「夜の国は大丈夫なの? 混乱してない?」
「してない。なぜなら、これは、俺がしたことだから」
ゲルダは、エリアスの髪を見て、驚いた。
あの美しい、月のような髪が、毛先から首元まで夜に染まってしまっている。エリアスは、手袋をはめていなかった。手の痣も、頬の痣も、以前に増して濃くなってしまっている。
「ゲルダは俺に教えてくれた。信じ、願えば、そうなると。だから、ゲルダがもう一度こちらに来てくれるように、昼と夜が混ざるように願ったんだ」
「エリアスは、私が魔法を持っていることを思い出したの?」
「母上が教えてくれた。ゲルダも、思い出したのだな」
エリアスはどこか申し訳無さそうな顔をしている。そんな顔になる理由は、ゲルダは分かっている。魔法を飲ませたこと。魔法を取り戻すために、昼と夜を混ぜていること。ゲルダに迷惑をかけていると思っているのだ。
そんなエリアスに、大丈夫、自分は大丈夫だと、抱きしめて言ってやりたい。ゲルダは鞄の紐も握った。
「エリアス、待ってて。すぐ、そっちに行くから」
「分かった。今、リュートに協力してもらっているんだ。小人たちは避難しているし、こちらに来てしまった人間は、リュートが保護してくれている。リュートに、ゲルダを迎えるよう伝えておこう」
ハルムがゲルダの前に躍り出て、ゲルダの鼻に額をつける。
「それから、狭間の妖精にガツンと言うように、お願いしておくから」
「うん」
そのとき、広場にいた夜警が勢いよく角笛を鳴らした。空気が激しく震えるかのような音色だった。
エリアスとハルムの姿がゆらぎ、そのまま消えてしまう。
すぐ行かなければ。ゲルダは再び走る。入り組んだ道に迷いはしたものの、なんとか東門までたどり着く。
街の東側は、閑散としていた。門番も一人しかいなかった。街が騒がしいのは分かるが、ここから離れることができないので、そわそわとしていた。
「あの、門を開けてもらっていいですか」
「ああ、いいけど、この先は森だよ? それに、街は今どうなってる?」
「急いでるんです。お願いします」
質問に答えてくれなかった門番は小さく舌打ちをしたが、すぐに門を開けてくれた。
門の先にあったのは、闇だった。
ゲルダは門番に礼を言い、すぐに街を出る。森を前にし、カンテラを握りしめた。
鞄から、水晶を取り出す。万が一のために持っていた、三つの水晶のうちの最後の一つだった。
ゲルダは水晶を右手に、カンテラを左手に持ち、森に入る。
あの時のように、霧は出なかった。だから、カンテラの光に願った。夜の国に通じる道を開けと。
自分の中にあるエリアスの魔法に願った。あるべきところに通じる道を開けと。
水晶を投げた。
カンテラの光に輝く水晶は、ぱきんと音を立てて空中で割れた。破片たちが、一粒一粒、カンテラの光を反射し、輝く。
その輝きは、霧となった。
濃い霧がゲルダを包む。
狭間にゲルダは立っていた。