5章

 霧から出ると、ゲルダは見慣れない街にいた。さっきまでいた小人の街のようでもあるが、歩いているのは人間だった。清々しい朝の空気に包まれた街にゲルダは佇んでいた。
 朝なのに、広場は慌ただしかった。ここは中央広場だろうか。小人の街と同じように、噴水がある。教会の鐘の音が響き渡った。朝の祈りに向かう人々もいれば、路上で店を開いている者もいる。
 ごった返す広間をさまよっていると、向かいから酒臭い男が歩いてきて、ゲルダとぶつかった。
「おい、何だテメェ」
 手にはまだ酒の瓶が握られている。吐き捨てられる息が臭くて、ゲルダはうっと顔を背ける。その態度が気に食わなかったのか、男は瓶を振り上げた。
 抵抗できないゲルダはぎゅっと目をつむる。
 振り上げられた男の手を、誰かが掴んだ。
「おいおい、朝から暴力はやめな」
「あ!? おいなんだ、夜警かよ。お勤めの時間は終わりだぜ」
 ゲルダはそっと瞼を開ける。酔った男の後ろに、夜色の帽子をかぶった人がいた。筋肉が盛り上がる男の腕を、片手で握り、動きを止めていた。
「うん、だからホームに帰っているだけだよ。そうだなあ、今から君を警吏に引き渡して帰ってもまだ間に合うから、一緒に行こうか? 警吏、おっかないから、一緒に行ったほうが君も安心だと思うんだけど」
「クソ!」
 男はつばを吐き捨て、手を振り払い、地団駄を踏むように歩き去っていった。
 残された帽子を被った男は、帽子のつばを持ち上げ、ゲルダを見た。
 身にまとった外套。肩から下がっているのは角笛。手には杖とカンテラ。夜警だった。金髪が朝日に照らされて輝いていた。見た感じ四十代のおじさんだったが、顔は綺麗だった。翡翠のような瞳が優しく笑った。ゴンド島の人々とは違って、彫りが深い顔だったが、それでも綺麗だと思えた。
「災難だったね。お買い物かい?」
「あ、いえ……、その、今朝、ここに来て。あの、この街って、どんな街なんですか。流れ着いてよく分かってなくて」
 夜警はにかっと笑った。
「ここはティルハーヴェン。夜も眠らない都市。ようこそ、ティルハーヴェンへ。夜警が歓迎しよう」
 夜警はそう言って、カンテラを持ち上げた。これが夜警の挨拶の仕方なのだろう。
「とはいえ、今はぼくたちの時間ではないからねえ。夜、困ったら、ホームへいらっしゃい。夜警たちも夜そのへんを歩いているから、何かあったら声をかけたらいい。では、よい旅を」
 軽く帽子を持ち上げて、夜警は外套をはためかせながら歩いていった。
 小人の街とそっくりだ。夜警もいる。ホームがある。何もかもが小人の街と重なる。
 ティルハーヴェンの存在は知っていた。ここから船でゴンド島に来る人々もいたからだ。でも、実際に来ると、やはりこの街の大きさに圧倒された。小人の街と重なるとはいえ、歩いているのは人間。人の波に、息が苦しくなる。
 ゲルダは広場から離れるように道を歩いた。しばらく歩いていると、海が見える場所まで来た。ベンチが置かれてあったので、腰を下ろして一息つく。
 冬の風は冷たかったが、海はきらきらと輝いていた。静かの海を思い出す。
 この海を超えれば、エルフの森に行けるような気持ちになる。実際はゴンド島だが。
 エリアスはきっとハルムと一緒に、今も魔法を探す旅をしているのだろう。自分がいなくても大丈夫。そう思っても、寂しさは胸の中に残っていた。
 すぐゴンド島に帰ろうかと思ったが、なんとなく、まだこの街を見たいと思った。ママ・アルパにも少々言い訳ができる。ティルハーヴェンに珍しいハーブがあると聞いたから、買いに言っていた、なんて。
 夜の国でいくつかハーブを使ってしまった。その分のハーブを買おうと思い、ゲルダは人の多い商店街へと向かった。港から運ばれる、異国の品々。その中で、ハーブを取り扱う店を見つけ、適当に買った。使う目的はなかったから、効用は分からなかった。
 見たこともない宝石。細かい刺繍が施された絨毯。脂ののった肉。色とりどりの野菜。威勢のいい店員と、値切る客たち。活気づいていた。その中を、ぼんやりと歩く。自分だけ、ぽつんと雰囲気から取り残されたような気持ちになり、商店街を離れた。
 商店街の近くにあったカフェに入り、適当に時間を潰す。昼もそのカフェで食べた。パンとスープ。久しぶりに、料理というものを食べた気がする。夜の国では野宿ばかりで、簡素なものしか食べられなかった。食べ終わっても物足りなくて、追加でサラダとグラタンを注文した。美味しくて、涙が出そうだった。昼に帰ってきたんだ、と思うと、安堵に包まれた。涙を堪えて食べきり、お腹が落ち着くまで街の中を歩いた。疲れたらベンチに座って休み、空を見上げた。次第に太陽は傾き、夕焼けが海を燃やした。
 ちらちらと星が瞬き始める。夜の国の夜空よりも、寂しかった。街が明るいから余計に星の数は少なかった。
 どこで寝よう。宿はどこだろう。ゲルダはようやく立ち上がり、宿を探しに歩き始めた。夜も眠らない街。その代表である酒場が密集する場所に流れ着いてしまった。道には酔っ払いが転がっていた。朝のことを思い出し、ゲルダはさっさとその場を離れようとする。
 しかし、案の定、また酔っ払いの男に捕まってしまった。腕を掴まれてしまい、逃げられなかった。
「お嬢ちゃん、夜の仕事でも探しに来たのか? いいぜ、紹介してやる」
「ち、ちがっ……放して!」
 ”夜の仕事”が何を意味しているのかははっきりと分からないが、危険そうだというのは分かる。よくよく見れば、この男、朝絡んできた男だった。
 男もゲルダの顔は覚えていたようで、「朝はどうも」と呑気に言ってくる。
「じゃあ店行こうか」
 舌なめずりをする男が気持ち悪くて、ゲルダは吐き捨てた
「違うって! 馬鹿じゃないの!?」
 すると、男は眉を釣り上げ、ゲルダの頬をひっぱたく。
「うるせえな、これだから女は。黙ってついて来ればいいんだよ」
 口を手で塞がれ、ずるずるとひこずられる。ゲルダはもがき、そして、見つけた。
 夜警がいる。ゲルダは男の足をブーツの踵で踏み、夜警の元へ走った。
「た、助けてください……!」
 振り向いた夜警は、これまた朝の人だった。
「おや。また会ったね」
 夜警はゲルダを自分の背中の後ろに隠し、迫ってきた酔っ払いの男に軽々しく挨拶をした。
「やあ。警吏のところに行く気分になったかい?」
「行く気はないね!」
「そうか。じゃあ、狼は牢の中で吠えていろ。あいにくここは森ではないからねえ」
 夜警はカンテラを地面に置き、杖を両手で持ち、男の脇腹を突いた。
 男は呻き、痛みで倒れてしまう。起き上がろうとすると、「逃げるなよ」と杖を向けた。夜警は角笛を吹き、仲間を呼んだ。走ってくる夜警たちに捕らえられ、どこかに連れて行かれてしまう。
 残された夜警はカンテラを拾い上げ、ゲルダに、またにかっと笑った。
「困ってるようだし、ホーム、行こっか」
 帽子を取り、夜警はゲルダに挨拶をする。
「ぼくは夜警団団長の、ウェイバー。君の夜を守ろう」
 カンテラを掲げ、ウェイバーは微笑んだ。ゲルダは、こくりと頷くしかなかった。
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