5章
口が痛い気がして、目覚めたら、すぐに唇を触った。唇は切れていなかった。それもそうだ、夢なのだから。
エリアスはゆっくり瞼を開けた。頭から被せられたヴェールがはらりと落ち、覚醒する。ハルムも目覚め、エリアスの首を抱きしめた。
オーゲンから殴られた時の痛みが、まだ生々しく体に残っていた。切れた唇の痛みも、叔父を蹴り飛ばした時の怒りも、全て残っている。退屈な日々、力のあるエルフたちの傀儡となり、ただのお飾りの王子となっていた自分、冷めきった自分。その中で犯した罪と、ゲルダへの愛情。全部、残っている。
記憶を取り戻したのだ。眠りの向こうに置いてきてしまったものを全て、エリアスは取り戻した。魔法だけを除いて。
足元に落ちたヴェールをすくい上げる。ヴェールには無数の星々が散りばめられていた。いつか地上に落ちる夜の愛し子たち。
女王の元に帰ったほうがマシだと思った自分もいた。けれど、あの時のエリアスは、ゲルダを昼に返すために、自分の罪に巻き込まれたゲルダの幸せを願ったために、自分はここに戻るのを拒否した。
かつての自分は、それから投げやりになり、恐怖から眠りに逃げた。でも、ここにいるのは眠りから覚めた、別の自分だ。エリアスは痣だらけの手を見て、ヴェールと共に握りしめると、星々がきらめいた。
「眠りの前の俺は、生きる意味も、自分の存在の意味も価値も分からなかった。だから、俺に、生きる意味を教えてくれるゲルダが、愛しかった。ゲルダだけだった。俺を認めてくれたのは。そのゲルダも失い、俺は全てを諦めた。もう家臣たちにどう使われてもいいと思った。眠りの中に、自分を捨てたんだ」
でも、と、エリアスは唇を噛みしめ、母を見上げた。
「俺は、ゲルダに約束した。ゲルダにもう一度会うと。魔法が使えるようになったら、何でも解決できるくらいの賢者になると。ゲルダに諦めないでと言われた。今の俺も、諦めていない。魔法がゲルダの中にあるならなおさら。そして、俺はゲルダに謝らなければならない。ゲルダの尊い時間を奪ってしまったことも、巻き込んでしまったことも」
エリアスはヴェールを母に返す。
母は、変わらない微笑みを浮かべたまま、エリアスをじっと見つめた。
「どうするのですか。あなたは魔法が使えません。夜警の力を使い、昼に向かったとしても、少女と再び会えるかどうかは分かりませんよ? そうしているうちに、昼と夜は混ざるでしょう」
「それで構いません。俺は――」
エリアスは堂々と言った。
「昼と夜を混ぜます。そうすれば、ゲルダはまじないを使うはずです。ゲルダのまじないには、俺の魔法が混ざっています。魔法を辿れば、再び俺はゲルダと会える。そう考えています」
「混ざった世界はどうするのですか」
「魔法で直します」
「方法も知らないのに」
「力は、願いです。ゲルダが教えてくれました」
女王は肩をすくめ、空に戻った。
『本当に、あなたは変わった愛し子です。では、母はここから見ています。あなたのこれからも、この世界のこれからも――』
その瞬間、エリアスの足元がぐらついた。
闇が突然消え、朝を迎えた空がエリアスを包む。夜の城から追い出されたようだ。体が落下し、腹の中のものが全部出てきそうになった。
「エリアスっ!」
ハルムが咄嗟に風を呼び、落下するエリアスを受け止める。
「ああ、ありがとう、ハルム」
下を見ると、円の形をした小人の街が見える。空から見ると、その広さがよく分かる。
「あんなこと言ってたけど、本当にできる見込みあるの? ねえ、エリアス、あなたは魔法を取り戻したら、またエルフの森に帰るの? 私、帰らなくていいって思う。帰ってほしくないわ、あんな場所。せっかく森から出たのに」
ハルムはエリアスの胸に飛び込んできた。
あのつらい過去を見てしまったら、誰もがそう言うに違いない。眠りの前の自分だったら、絶対帰らないだろう。
けれど、エリアスは、帰ると決めた。
「俺も、森から出た時は、帰るべきか、帰らざるべきか悩んだ。でも、言っただろう。俺は、魔法を取り戻したら賢者になると。俺の魔法は非常に強いことは分かっている。今まで、諦めて、逃げていただけだ。幼かったんだ。俺は王子だ。ゆくゆくは賢者となり、王となり、エルフを統べる身だ。ゲルダは教えてくれた。諦めるなと。俺は諦めてない」
エリアスは痣だらけの手の平に、ハルムを乗せた。
「俺は変わった。森も、魔法も、エルフの民も変わる。俺が願えば、力は応じてくれる。ゲルダの中で守られてきた俺の魔法は、きっと力になる。そう思う」
「じゃあ、昼と夜が混ざるところも、大丈夫だって言うの?」
「大丈夫にしてみせるさ」
エリアスは笑った。全く心配はいらない、といったように。
頬に拡がった痣はとても痛々しい。けれど、エリアスの晴れ晴れとした表情は、この清々しい朝の空のようだった。朝日に、月の髪が輝く。ハルムは、美しいと思った。
「ハルム、俺と一緒にいてくれ。俺が賢者になっても、王になっても」
「もちろん。だって、約束でしょ?」
三つの約束、全部守るんでしょ。そう言われ、エリアスは強く頷いた。
エリアスはゆっくり瞼を開けた。頭から被せられたヴェールがはらりと落ち、覚醒する。ハルムも目覚め、エリアスの首を抱きしめた。
オーゲンから殴られた時の痛みが、まだ生々しく体に残っていた。切れた唇の痛みも、叔父を蹴り飛ばした時の怒りも、全て残っている。退屈な日々、力のあるエルフたちの傀儡となり、ただのお飾りの王子となっていた自分、冷めきった自分。その中で犯した罪と、ゲルダへの愛情。全部、残っている。
記憶を取り戻したのだ。眠りの向こうに置いてきてしまったものを全て、エリアスは取り戻した。魔法だけを除いて。
足元に落ちたヴェールをすくい上げる。ヴェールには無数の星々が散りばめられていた。いつか地上に落ちる夜の愛し子たち。
女王の元に帰ったほうがマシだと思った自分もいた。けれど、あの時のエリアスは、ゲルダを昼に返すために、自分の罪に巻き込まれたゲルダの幸せを願ったために、自分はここに戻るのを拒否した。
かつての自分は、それから投げやりになり、恐怖から眠りに逃げた。でも、ここにいるのは眠りから覚めた、別の自分だ。エリアスは痣だらけの手を見て、ヴェールと共に握りしめると、星々がきらめいた。
「眠りの前の俺は、生きる意味も、自分の存在の意味も価値も分からなかった。だから、俺に、生きる意味を教えてくれるゲルダが、愛しかった。ゲルダだけだった。俺を認めてくれたのは。そのゲルダも失い、俺は全てを諦めた。もう家臣たちにどう使われてもいいと思った。眠りの中に、自分を捨てたんだ」
でも、と、エリアスは唇を噛みしめ、母を見上げた。
「俺は、ゲルダに約束した。ゲルダにもう一度会うと。魔法が使えるようになったら、何でも解決できるくらいの賢者になると。ゲルダに諦めないでと言われた。今の俺も、諦めていない。魔法がゲルダの中にあるならなおさら。そして、俺はゲルダに謝らなければならない。ゲルダの尊い時間を奪ってしまったことも、巻き込んでしまったことも」
エリアスはヴェールを母に返す。
母は、変わらない微笑みを浮かべたまま、エリアスをじっと見つめた。
「どうするのですか。あなたは魔法が使えません。夜警の力を使い、昼に向かったとしても、少女と再び会えるかどうかは分かりませんよ? そうしているうちに、昼と夜は混ざるでしょう」
「それで構いません。俺は――」
エリアスは堂々と言った。
「昼と夜を混ぜます。そうすれば、ゲルダはまじないを使うはずです。ゲルダのまじないには、俺の魔法が混ざっています。魔法を辿れば、再び俺はゲルダと会える。そう考えています」
「混ざった世界はどうするのですか」
「魔法で直します」
「方法も知らないのに」
「力は、願いです。ゲルダが教えてくれました」
女王は肩をすくめ、空に戻った。
『本当に、あなたは変わった愛し子です。では、母はここから見ています。あなたのこれからも、この世界のこれからも――』
その瞬間、エリアスの足元がぐらついた。
闇が突然消え、朝を迎えた空がエリアスを包む。夜の城から追い出されたようだ。体が落下し、腹の中のものが全部出てきそうになった。
「エリアスっ!」
ハルムが咄嗟に風を呼び、落下するエリアスを受け止める。
「ああ、ありがとう、ハルム」
下を見ると、円の形をした小人の街が見える。空から見ると、その広さがよく分かる。
「あんなこと言ってたけど、本当にできる見込みあるの? ねえ、エリアス、あなたは魔法を取り戻したら、またエルフの森に帰るの? 私、帰らなくていいって思う。帰ってほしくないわ、あんな場所。せっかく森から出たのに」
ハルムはエリアスの胸に飛び込んできた。
あのつらい過去を見てしまったら、誰もがそう言うに違いない。眠りの前の自分だったら、絶対帰らないだろう。
けれど、エリアスは、帰ると決めた。
「俺も、森から出た時は、帰るべきか、帰らざるべきか悩んだ。でも、言っただろう。俺は、魔法を取り戻したら賢者になると。俺の魔法は非常に強いことは分かっている。今まで、諦めて、逃げていただけだ。幼かったんだ。俺は王子だ。ゆくゆくは賢者となり、王となり、エルフを統べる身だ。ゲルダは教えてくれた。諦めるなと。俺は諦めてない」
エリアスは痣だらけの手の平に、ハルムを乗せた。
「俺は変わった。森も、魔法も、エルフの民も変わる。俺が願えば、力は応じてくれる。ゲルダの中で守られてきた俺の魔法は、きっと力になる。そう思う」
「じゃあ、昼と夜が混ざるところも、大丈夫だって言うの?」
「大丈夫にしてみせるさ」
エリアスは笑った。全く心配はいらない、といったように。
頬に拡がった痣はとても痛々しい。けれど、エリアスの晴れ晴れとした表情は、この清々しい朝の空のようだった。朝日に、月の髪が輝く。ハルムは、美しいと思った。
「ハルム、俺と一緒にいてくれ。俺が賢者になっても、王になっても」
「もちろん。だって、約束でしょ?」
三つの約束、全部守るんでしょ。そう言われ、エリアスは強く頷いた。