5章

 それは、強い風が吹く日だった。嵐が近づいているというので、エルフたちは森全体に結界を張り巡らせることに一生懸命だった。オーゲンは紅玉の間を任されていた。オーゲンはたまたま夜のドレスから落ちてきたエリアスを拾っただけで、それほど力を持ったエルフではなかった。紅玉の間を守る結界を張るだけでも精一杯だった。
 オーゲンはいつもと違う時間にツリーハウスに向かった。魔力を消耗しきった体を休ませようと考えたからだった。ついでにエリアスにエルフの歴史でも語ってやろうと呑気に思っていた。
 オーゲンは今まで、紅玉の間に来る時間は昼下がりと決めていた。エリアスにそう頼まれていたからだった。この時間以外にはここに来るなと命令されたからには、従うしかなかった。いくらエリアスを育てている身とはいえ、王子であり、夜の愛し子であるエリアスに命令されれば、受け入れなければならなかった。エリアスは、オーゲン以上に力のあるエルフたちには命令はしなかった。そのエリアスの態度に、下に見られているとオーゲンは薄々感じていた。自分の立場を守ってくれる存在だったが、自分の立場をこれ以上持ち上げてくれることはなかった。ちょうどいい機会だ、エリアスに立場を分からせてやろうと、オーゲンは思いながらツリーハウスのドアを開けた。
 エリアスはベッドに腰掛けて、何かと話をしていた。
 メイドか? と思ったが、そうではなかった。エルフの民が着ている月の衣装ではなかったからだ。針葉樹と同じ色をしたワンピースに、亜麻色の髪の毛。人形か? と思ったが、それも違った。喋っていた。それも、流暢に。魔法で動かしても、せいぜい片言だ。なのに、意思をもって、エリアスと喋っている。
 人形に夢中になっていたエリアスははっとして顔を上げた。何かがいるということに気付いたらしい。
「お、叔父上……」
 エリアスは咄嗟に人形を広い袖で包み隠した。隠し通せるとは思えなかったが、オーゲンから守るように抱きかかえた。
「それは何だ。人形……じゃないな。どこから召喚した」
 召喚の魔法は教えたことがない。しかし、エリアスは自分で学ぼうと思えばなんでも学べる環境にあった。何を読んだ。何を使った。オーゲンは恐ろしい剣幕でエリアスに問うた。
 それでもエリアスは口をつぐみ、オーゲンに話さなかった。その態度がオーゲンをさらに苛立たせ、エリアスの頬を殴りつけた。
「言え! お前はどこから何を召喚した!」
 力で言えば、オーゲンの方がエリアスよりも圧倒的に上だった。エリアスは腕を掴まれ、隠したものが顕になってしまう。
 丸い目が、オーゲンを見上げた。表情がさっと変わる。目に大粒の涙を浮かべた。
 こんな精巧な人形があってたまるか。オーゲンはエリアスの頬を更に殴る。
「なんだこいつは、言え、さもなくばお前を夜の女王の元に返すぞ!」
 考えもなく言ったが、それはそれでいい、と思った。奇妙なことをする夜の愛し子は、さっさと女王に返還したほうがいい。そして、エルフの民を守ったのだと弁明すれば、今よりも多少は身分が良くなるだろう。オーゲンはにたりと笑いながら、エリアスの胸ぐらを掴んだ。
「どっちがいい。女王の元に返還されるか、このまま沈黙した王子としてここに居座るか」
 エリアスはオーゲンを見上げた。愚かだ、と思った。こんな大人に拾われたことを後悔した。このまま愛しい母の元に帰ったほうがマシだと瞬間的に感じる。しかし、泣きそうなゲルダを放っておくことはできなかった。
 エリアスは唇から血を出しながらオーゲンを勢いよく蹴り飛ばした。
「分かった、だったら私は、しばらく沈黙しよう。愚かなエルフの民の傀儡になってやる。自分のことしか考えられない叔父上に、夢を見させてやろう。私はこれから眠る。その間だけ、叔父上は存分に遊べばよい。記憶を失った私を存分に使えばよい。もう勝手にしろ」
 床に転がったオーゲンは、何、と体を起こす。
 エリアスは目を凍てつかせ、オーゲンを見下ろしていた。
 自分も自分で愚かだった、と、エリアスはゲルダを抱きしめた。世界の理に背いてしまいたくなるほどゲルダを愛していた。こうなるのなら、ゲルダを召喚するより前に、母の元に帰れば良かったのだ。ゲルダをここに呼び寄せていなければ、ゲルダは今頃、人間として幸せに人生を生きていただろう。自分の人形として生きるゲルダは、まるで自分のようだと、ここで初めてエリアスは気がついた。
 自分の魂は、このエルフの民には向いていなかった。どうして、エルフの森にこぼれ落ち、エルフとなって地上にいるのだろう。どうして、ゲルダをここに呼び寄せてしまったのだろう。どうして、ゲルダに自分のことを忘れないで欲しいと身勝手に願うのだろう。
 エリアスは泣きながら呪文を唱えた。自分の魔法が丸薬となり、手の平に乗る。やめろ、とオーゲンが叫んだが、エリアスは目もくれなかった。
「ゲルダ、これをお飲み」
「なあに?」
「元気になる薬。ゲルダの涙もすぐになくなるよ」
 ゲルダは本当に純粋だった。エリアスの嘘もすぐに信じ、エリアスの魔法をごくりと飲み込んだ。ゲルダはそれから眠りにつき、エリアスは魔法陣を描く。
 昼の国にゲルダを送る最後の最後に、ゲルダの額にキスをした。ゲルダを昼の国に送り届けると、自分の中の魔法は全てなくなった。
 魔法を失うと、自分を維持できなくなった。手に痣が浮かび上がり、恐怖を覚えた。エリアスは逃げるように眠りに落ちた。自分の罪から逃げ、考えるのをやめたのだ。
 エリアスはそれから十年眠り続けた。オーゲンはその眠りを「王になるための儀式」と偽り、エリアスを守る役となった。長い眠りから覚めたエリアスは全ての記憶を失っていた。空っぽのエリアスには「王になるための儀式に失敗したのだ、でも大丈夫、お前ならもう一度やり直せる」と偽り、まだエリアスを王子の座に縛り付けた。魔法がないことを知っていながら、いつか使えるようになるとエリアスを励まし続けた。
 その中で、エリアスは少しずつ、新しい自我を作り上げた。そして、エリアスは森から出ようと決心したのである。
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