5章

 月が微笑みかけ、エリアスに向かってぐんっと顔を伸ばす。月の顔に引っ張られた夜空はフリルがふんだんについた美しいドレスとなり、透き通るヴェールとなり、つばの広い帽子になった。夜のドレスに、月の顔に、夢で見た女王とまったく同じものだった。細身の女性の姿となった女王は、ドレスを揺らしながらエリアスに向かってゆっくり歩いてくる。
 星が散りばめられた手袋をした手が、エリアスの頬をそっと撫でた。
「心配していました。あなたは少し変わった夜の愛し子だったから」
 優しく撫でられ、エリアスは瞼を伏せた。
「母上から逃げていたこと、謝ります。俺は出来損ないだから、母上の愛すら感じられませんでした」
 母の手がエリアスの星の髪を撫でた。
 エリアスは瞼を開け、母の顔を見た。月に張り付いた微笑みは全く動かない、つくりものの顔のように思えた。仕草からは愛は感じるが、恐ろしさもあった。しかしエリアスは母から視線を逸らさなかった。
「この痣は、母上が俺をここに戻すためのものなのですか」
「いいえ。母はそのようなことをいたしません。母はただここから見守るだけです。その痣は、夜の一部である魔法を失い、あなたという存在を維持できないために拡がるものです」
 魔法を失った、と女王は言った。もともとは自分に魔法の力があったということだろうか。エリアスは質問を続ける。
「ではなぜ、俺を追いかけたのですか」
「それはあなたの心の奥の罪。あなたは罪を流すために、自ら願って記憶と魔法を失いました。母は見ていました。忘れてしまった罪から逃れられず、あなたは、知らず識らず罪悪感に苛まれていました。それが夢となり、母と重ね、あなたを追いかけたのです。あなたはもう一度、自分の罪を知るためにここへ来ました。あなたが望むのなら、母はあなたに見せることができます。どうしますか、夜の愛し子」
 女王はエリアスの顎をくっと持ち上げた。はいか、いいえか、選べと言うように。
 自分に記憶がないのも、魔法がないのも、理由があるのだ。母は、それを教えてくれると言っている。
 エリアスはもちろん、はい、と答えた。
「それでは、眠りなさい。あなたの妖精にも見せてあげましょう」
 ハルムはびくっと肩を震わせた。夜の女王は表情を一切変えないまま笑った。そして、ヴェールを優しくエリアスの頭にかける。
「恐れることはありません。夢を見るだけ――」
 女王はそっと唇に人差し指を当てた。何も喋らないでいい。見るだけでいい。そう仕草で伝えた。エリアスは膝から崩れ落ち、ハルムも耐えられない眠気に襲われた。


 エリアスとハルムは紅玉の間にいた。夜の女王が見せてくれる過去の中に立っていた。紅玉の間の木々は相変わらず燃えるような紅い葉を風に揺らしていた。その中で一人、エリアスがつまらなそうに歩いていた。
 遊び相手も、喋り相手もいなかった。ここを訪れるのは叔父オーゲンか、世話をしてくれるメイドのエルフだけ。誰も来てくれない時間の方が長かった。
 夢の中のエリアスは風に舞う葉に魔法で作った矢を放ち、破れた葉に火をつけ、ちりじりと燃えるところを冷たい目で見ていた。魔法で遊んでも、楽しくなかった。見慣れた光景に飽き飽きし、エリアスはツリーハウスの中に戻る。風景が変わった。
 ツリーハウスの中にもそれといって面白いものはなかった。本棚にはたくさんの本が並べられていたが、まだ幼いエリアスにとってはどれも小難しく、興味もなかった。オーゲンが決まった時間になるとここへ来て、一つ一つ教えてくれるので、自分で学ぶ必要もなかった。
 しかし、この日のエリアスは気まぐれに一冊の本を手に取った。本の中身までは確認できなかったが、夢のエリアスは面白いものを見つけたかのような表情をした。冷ややかな目に輝きが戻り、頬は興奮で色づいていた。
 すぐに動いた。エリアスは呪文を唱え、床いっぱいに魔法陣を広げる。黄金に輝く魔法陣にさらに興奮した。
 召喚呪文だった。魔法陣の中央に現れたのは、小さな幼い人間の女の子だった。亜麻色のふんわりとした髪が珍しく、くりっとした瞳が可愛らしくて、エリアスはすぐに夢中になった。メイドが作ってくれた人形よりもはるかに可愛い。女の子はゲルダと名乗った。
 ゲルダに名前を呼ばれると、エリアスの心は踊った。本には、人間はエルフの何倍も早く衰え、死ぬことが書かれてあった。だから、魔法でゲルダの時を止め、ずっと幼いままにした。いつまでも自分と共にいてくれる人形でいてほしかったからだ。
 人間は夜の国にいてはいけない。人間に心を寄せると、昼と夜が重なる。このことも知っていた。だから、エリアスは極力ゲルダと関わる時間を少なくし、オーゲンやメイドから隠した。魔法で眠らせ、クローゼットの中にこしらえた小さなベッドで眠らせた。
 退屈な時、八つ当たりがしたくなった時、物哀しい時、エリアスはクローゼットからゲルダを出し、眠りの魔法を解き、癒やしのためにゲルダを使った。
 ゲルダはいつもエリアスを癒やしてくれた。ゲルダがいなければ、自分はどうにかなりそうだった。一人でこの紅玉の間にいることがどれだけ苦痛だったか。エルフの王になっても、今と生活はさほど変わらないだろう。周りの力あるエルフたちが何もかもやってしまうのだから。存在を利用されるだけで、自分は価値がないエルフだと思っていた。そんな中、自分を癒やしてくれるゲルダは、宝物となった。どんな美しいものよりも、ゲルダが一番大切なものだと思った。ゲルダを呼び出すことに成功した自分の魔法に自惚れた。
 エルフの寿命は長い。五十年経ったところで、体は特になにも変化は見せない。森も変わらないし、エルフの民も変わらない。その五十年の間でゲルダは次第に昼の国での記憶も忘れてしまい、エリアスに懐いてしまった。
「エリアスのこと、大好き」
「ああ、私もだ」
 ゲルダは何も疑問を持たなかった。人形として、たっぷりエリアスに愛嬌を振りまく。エリアスは決まって癒やされた後にゲルダにキスをし、クローゼットにしまうのだ。しかし、それは永遠には続かなかった。
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