5章
部屋に立ち込めた霧を風の妖精たちが払う。リビングにはもうゲルダはいなかった。リュートがベルを持っていた手を下ろし、風の妖精たちに休むよう伝えた。
「あっさり帰ったわね……ふあ、眠い」
ベルをリビングの机の上に置き、椅子によじ登った。寝起きだったリュートは、髪はぼさぼさで、椅子に座るなり大あくびをした。水の妖精たちがお茶を淹れ、リュートの元に運ぶ。昨晩は亡霊騒動もあったので、疲れが出ているようだった。カップを両手で包み込むように持つが、カップを持ち上げることなく、猫背になってお茶をすすっていた。
ゲルダはあっさり帰ったのではない、と言いたかったが、エリアスは口をつぐんだ。疲れているのに、わざわざゲルダを送ってくれたリュートに言うことでもないと思ったからだ。
「この机の上のものはなに?」
「それは小人たちに土産としてもらったものだ。エルフという存在はどうも高貴なもののようだな」
「そうね。妖精しか使役することができない小人たちから見れば、あらゆる魔法が使えるエルフというのはそれは高貴な身分の種族なのよ。夜の賢者と称するだけあって、なんでも知っているし。あ、あなたは違ったんだわ」
ごめんごめん、とリュートは軽く謝る。リュートはエリアスのことを特別に扱うつもりはないようだった。
「あなたは記憶がないのよね。理由は分かっているの?」
「いや、理由すら忘れてしまった。魔法が使えないことに理由があるのかないのかも分からない。だから、リュートの言うように、母上の元へ行こうと思う」
エリアスはリュートの向かいの椅子に座る。妖精たちがまたお茶を運んできてくれる。
手袋を外し、自分の手を見た。
痣に気付いたのは、眠りから覚めてすぐだった。手を見て、隠さなければとすぐに思った。叔父もこの痣のことは知らない。汚いのは触りたくない、と適当に理由をつけた。気持ち悪いこの痣は、何者にも見られてはいけない。その理由はエリアス自身も分からないが、本能が言っている気がしていた。
痣はあれから、濃くなり、拡がっている。夢と同じように、エリアスを蝕んでいく。
その代わり、昨日の晩、夢の中であることができたのだ。
「昨晩、母上に言ったんだ。夢の中で。現実で俺と会ってくれないかと」
「へえ。夢の中で。夜の愛し子って、夢で繋がっているのね」
ハルムが語ってくれた夢の話がヒントだった。
夜の女王は自分の夢を見ている。だったら、夢の中で頼んでみようと考えたのだ。
エリアスは昨日の晩も、いつもの夢を見た。いつもの通り、体は夜に溶け、女王の手で掬われた。違ったのは、逃げなかったことだ。
エリアスはいつも逃げていた。必死に夜の女王の手から逃げようとした。捕まらないように方法を変え、どうにか自分を保とうとしていた。けれども、逃げていても何も変わらない。
女王におかえり、と言われた時、エリアスはいつもと違う何かを感じた。それは、母の愛だったのかもしれない。いつもは恐怖でしかなかったその一言に、愛を感じた。
母上、俺は、母上と会いたいです。そう願った。
夢の中ではなく、現実で母と会い、話をしたかった。この夜の国を統べ、夜の国の全てを知り、愛する母と。母なら何か知っているかもしれない。全ての民の夢を知る母なら、記憶を失う前の自分のことも知っているかもしれない。ほんの僅かな期待があった。
母は願うエリアスに、一言だけ言った。
『ならば、夜、私にもう一度心から願いなさい。お前の中の夜を拡げなさい。そうすれば、私は夜の城の門を開け、お前を招きましょう』
分かりました、と言うと、女王はエリアスを手から落とした。そこで夢から覚めたのである。
夜を拡げるという感覚はまだ分からないが、拡がる夜なら知っていた。ゲルダが夜を拡げていたからだ。母も言った。心から願えと。ゲルダも願っていた。まじないは、願いだった。ゲルダのまじないを知る今のエリアスならできると感じていた。
「行き方が分かったのなら、良かったじゃない。私もこの街を守る柱ではあるけれど、私が忠誠を誓ったのは夜の女王ではなく、妖精たちなの。夜の女王へ忠誠を誓うのは、市長だから」
あいつ、こんな時に市庁舎で何やってるのかしらと愚痴をこぼしながらリュートは椅子から飛び降りた。
「私、もう一度夜まで寝るわ。今晩も亡霊が湧き出ないか見回りをしないといけないから。あなたがいなくなってても驚かない。それじゃあおやすみなさい」
「ああ……、ありがとう、リュート」
リュートは大あくびをしながら「いいのよ」と言って、部屋に戻って行った。
「エリアス、私は夜の城に招かれる?」
耳元でハルムがそっと尋ねる。エリアスは手袋をしないまま、ハルムを手のひらに乗せた。
「招かれなくても、俺が連れて行く。一緒に来てくれ」
「行くわ。ゲルダと約束したもの。ずっとあなたといるって」
「そうか。ありがとう、ハルム」
エリアスも夜までは、部屋でぼんやりとしていた。ハルムはずっとエリアスに付き添い、街の様子を眺めていた。ゲルダが街に連れ出したのは、最後の思い出作りだったのだろう。小人の街は、明るい街だった。日が傾き、西日が街を照らすようになっても、光の妖精が街を照らし、輝いていた。小人たちは今日もシェルターに避難しないといけないようで街は静かになったが、彼らが過ごすいつもの”夜も眠らない街”は想像ができた。
気がつけば日は落ち、空には星が瞬き始めた。あの星々の中には、自分の兄弟たちがいるはずである。
エリアスは立ち上がり、ホームから出て、広場に一人立った。
噴水で踊る水の妖精が自分を見ている。
ハルムはエリアスの首に抱きついた。
母上に会いたい。願うと、自分の中の夜が、どろっと拡がる感覚がした。夢と同じである。全身にあっという間に痣が拡がる感覚がする。胸まで広がっていた痣は、下腹部まで一気に拡がった。それでもエリアスは逃げなかった。ハルムも夜を感じていた。怖くなり、エリアスの首に抱きついたまま、目をつむる。
夢と違ったのは、体がどろどろの夜に溶けなかったことだ。
気がついたら、闇の中にいた。小人の街ではなかった。ハルムもそっと目を開ける。
空は無数の星が輝き、光のカーテンが揺らいでいた。その中に、銀の月が浮かんでいた。月は微笑んでいた。細い目が浮かび上がっている。
夜の女王だ。驚きの声が出そうになり、ハルムは口を両手で押さえた。
『おかえり、夜の愛し子――』
月がエリアスを迎える。
「ただいま帰りました、母上」
エリアスは月を見上げ、穏やかに挨拶をした。
「あっさり帰ったわね……ふあ、眠い」
ベルをリビングの机の上に置き、椅子によじ登った。寝起きだったリュートは、髪はぼさぼさで、椅子に座るなり大あくびをした。水の妖精たちがお茶を淹れ、リュートの元に運ぶ。昨晩は亡霊騒動もあったので、疲れが出ているようだった。カップを両手で包み込むように持つが、カップを持ち上げることなく、猫背になってお茶をすすっていた。
ゲルダはあっさり帰ったのではない、と言いたかったが、エリアスは口をつぐんだ。疲れているのに、わざわざゲルダを送ってくれたリュートに言うことでもないと思ったからだ。
「この机の上のものはなに?」
「それは小人たちに土産としてもらったものだ。エルフという存在はどうも高貴なもののようだな」
「そうね。妖精しか使役することができない小人たちから見れば、あらゆる魔法が使えるエルフというのはそれは高貴な身分の種族なのよ。夜の賢者と称するだけあって、なんでも知っているし。あ、あなたは違ったんだわ」
ごめんごめん、とリュートは軽く謝る。リュートはエリアスのことを特別に扱うつもりはないようだった。
「あなたは記憶がないのよね。理由は分かっているの?」
「いや、理由すら忘れてしまった。魔法が使えないことに理由があるのかないのかも分からない。だから、リュートの言うように、母上の元へ行こうと思う」
エリアスはリュートの向かいの椅子に座る。妖精たちがまたお茶を運んできてくれる。
手袋を外し、自分の手を見た。
痣に気付いたのは、眠りから覚めてすぐだった。手を見て、隠さなければとすぐに思った。叔父もこの痣のことは知らない。汚いのは触りたくない、と適当に理由をつけた。気持ち悪いこの痣は、何者にも見られてはいけない。その理由はエリアス自身も分からないが、本能が言っている気がしていた。
痣はあれから、濃くなり、拡がっている。夢と同じように、エリアスを蝕んでいく。
その代わり、昨日の晩、夢の中であることができたのだ。
「昨晩、母上に言ったんだ。夢の中で。現実で俺と会ってくれないかと」
「へえ。夢の中で。夜の愛し子って、夢で繋がっているのね」
ハルムが語ってくれた夢の話がヒントだった。
夜の女王は自分の夢を見ている。だったら、夢の中で頼んでみようと考えたのだ。
エリアスは昨日の晩も、いつもの夢を見た。いつもの通り、体は夜に溶け、女王の手で掬われた。違ったのは、逃げなかったことだ。
エリアスはいつも逃げていた。必死に夜の女王の手から逃げようとした。捕まらないように方法を変え、どうにか自分を保とうとしていた。けれども、逃げていても何も変わらない。
女王におかえり、と言われた時、エリアスはいつもと違う何かを感じた。それは、母の愛だったのかもしれない。いつもは恐怖でしかなかったその一言に、愛を感じた。
母上、俺は、母上と会いたいです。そう願った。
夢の中ではなく、現実で母と会い、話をしたかった。この夜の国を統べ、夜の国の全てを知り、愛する母と。母なら何か知っているかもしれない。全ての民の夢を知る母なら、記憶を失う前の自分のことも知っているかもしれない。ほんの僅かな期待があった。
母は願うエリアスに、一言だけ言った。
『ならば、夜、私にもう一度心から願いなさい。お前の中の夜を拡げなさい。そうすれば、私は夜の城の門を開け、お前を招きましょう』
分かりました、と言うと、女王はエリアスを手から落とした。そこで夢から覚めたのである。
夜を拡げるという感覚はまだ分からないが、拡がる夜なら知っていた。ゲルダが夜を拡げていたからだ。母も言った。心から願えと。ゲルダも願っていた。まじないは、願いだった。ゲルダのまじないを知る今のエリアスならできると感じていた。
「行き方が分かったのなら、良かったじゃない。私もこの街を守る柱ではあるけれど、私が忠誠を誓ったのは夜の女王ではなく、妖精たちなの。夜の女王へ忠誠を誓うのは、市長だから」
あいつ、こんな時に市庁舎で何やってるのかしらと愚痴をこぼしながらリュートは椅子から飛び降りた。
「私、もう一度夜まで寝るわ。今晩も亡霊が湧き出ないか見回りをしないといけないから。あなたがいなくなってても驚かない。それじゃあおやすみなさい」
「ああ……、ありがとう、リュート」
リュートは大あくびをしながら「いいのよ」と言って、部屋に戻って行った。
「エリアス、私は夜の城に招かれる?」
耳元でハルムがそっと尋ねる。エリアスは手袋をしないまま、ハルムを手のひらに乗せた。
「招かれなくても、俺が連れて行く。一緒に来てくれ」
「行くわ。ゲルダと約束したもの。ずっとあなたといるって」
「そうか。ありがとう、ハルム」
エリアスも夜までは、部屋でぼんやりとしていた。ハルムはずっとエリアスに付き添い、街の様子を眺めていた。ゲルダが街に連れ出したのは、最後の思い出作りだったのだろう。小人の街は、明るい街だった。日が傾き、西日が街を照らすようになっても、光の妖精が街を照らし、輝いていた。小人たちは今日もシェルターに避難しないといけないようで街は静かになったが、彼らが過ごすいつもの”夜も眠らない街”は想像ができた。
気がつけば日は落ち、空には星が瞬き始めた。あの星々の中には、自分の兄弟たちがいるはずである。
エリアスは立ち上がり、ホームから出て、広場に一人立った。
噴水で踊る水の妖精が自分を見ている。
ハルムはエリアスの首に抱きついた。
母上に会いたい。願うと、自分の中の夜が、どろっと拡がる感覚がした。夢と同じである。全身にあっという間に痣が拡がる感覚がする。胸まで広がっていた痣は、下腹部まで一気に拡がった。それでもエリアスは逃げなかった。ハルムも夜を感じていた。怖くなり、エリアスの首に抱きついたまま、目をつむる。
夢と違ったのは、体がどろどろの夜に溶けなかったことだ。
気がついたら、闇の中にいた。小人の街ではなかった。ハルムもそっと目を開ける。
空は無数の星が輝き、光のカーテンが揺らいでいた。その中に、銀の月が浮かんでいた。月は微笑んでいた。細い目が浮かび上がっている。
夜の女王だ。驚きの声が出そうになり、ハルムは口を両手で押さえた。
『おかえり、夜の愛し子――』
月がエリアスを迎える。
「ただいま帰りました、母上」
エリアスは月を見上げ、穏やかに挨拶をした。