5章
塔の鐘が朝を告げた。ゲルダは布団の中で鐘の回数を最後まで数えた。
朝日が差し込んできて、眩しい。そっと目を開けると、心地よさそうに眠っているハルムがいた。
昨晩、ナイフで契約石に文字を刻んだ。刻んだ、というより、傷をつけた。手持ちのナイフでは傷をつけることが精一杯だった。あとエリアスに渡せば、契約はゲルダからエリアスへと切り替わる。ハルムは納得した。あとはエリアスだけだった。
机の上に置きっぱなしだったナイフと石を鞄の中に入れ、身支度をする。部屋には小さな洗面台があった。顔を洗うと、気持ちもすっきりする。
エリアスが何を言っても、もう昼に帰ると決めた。ハルムに押し付けてしまったことには罪悪感はあったが、自分の選択は間違っていないと思うのだ。
ハルムはまだそっとしておき、ゲルダは部屋から出た。リュートはいない。
部屋の掃除をしていた妖精たちに聞くと、リュートは夜明けにホームに戻ってきて、今は寝ているという。夜間の仕事だから、寝るのは朝なのだ。
早くて、昼。リュート次第では夜になるだろうか。夜警が昼まで送ってくれるのなら、安心だった。夜に行くことはできたが、昼に帰る方法は分かっていなかったからだ。先のことを考えていなかった証拠だった。
妖精たちが出してくれたお茶を飲んでいると、エリアスが部屋から出てくる。
眠りすぎたのか、ぼんやりしていた。
「おはよ」
「ああ……」
会話はそれだけだった。暇だった妖精たちはエリアスの乱れた髪で遊びだしたが、エリアスは怒りはしなかった。
頬に浮かび上がる痣が痛々しい。部屋には鏡もあった。エリアスはそれを見て、落ち込んでいるのだろうか。分からなかった。
ゲルダが口を開こうとするよりも先に、エリアスがカップを唇につけたまま言った。
「帰るのだろう。昼に」
「うん」
「俺のためか」
「そう」
ゲルダははっきり頷いた。エリアスは何も言わない。
お茶を飲み干して、ようやくエリアスは溜息まじりに語った。
「昨晩。ゲルダのまじない歌は、俺に魔法の力を与えてくれた。その力は、森の香りがした。なんと言っていいか分からないが、もともと俺の中にあった魔法のような感じがした。ゲルダの魔法には、故郷の風を感じる。だから、ゲルダがもし昼に帰ったとしても、ゲルダはずっと俺の故郷を忘れないでくれるだろうと思った」
目を伏せ、エリアスは告げた。
「俺の痣が決まって拡がるのは、ゲルダのまじないに夜を感じた後。魔法を感じた後。一緒にいてはいけないと、本能が叫んでいるんだ。人間は駄目だ。取り返しのつかないことになると、俺の中の本能が叫ぶ。それに、ゲルダが自分で昼に帰ると決めたのなら、俺は止めない。止められないんだ。俺は夜の、愛し子だから。夜の賢者だから」
苦しそうに告げるエリアスに、ゲルダは返事ができなかった。
その代わり、ゲルダはエリアスの手を取って立ち上がった。
「外、行こう。ハルムも起こして、小人の街を見よう」
エリアスは一瞬戸惑ったが、頷いた。
ベッドで眠っていたハルムを起こし、ゲルダたちは外へ出た。
快晴。噴水の水がきらきらと輝いていた。水の妖精たちが踊っている。踊りに合わせて水も踊っていた。
日が出ているうちは亡霊も湧き出さないのだろう。小人たちはシェルターから出てきて、いつもどおりの生活を送っていた。
その様子は人間の街と変わらない。出店を営んでいる小人もいれば、集団で遊んでいる子供の小人もいた。市庁舎には手続きに向かう小人たちがいたし、警吏のような制服を着て歩いている小人もいた。
路上で玉を使った芸を披露している小人がいた。エリアスは「魔法か?」と、その芸に驚いていた。ひょうきんな小人は、巧みな話術で見物客を笑わせる。その面白さはハルムが手を叩いて笑うほどで、エリアスも笑みを浮かべていた。ハルムは街に出てからずっとエリアスの肩に座っていて、もうエリアスの妖精でいるつもりのようだった。そんな二人の様子を見て、ゲルダは安心する。
芸を見終わると、街にエルフがいるという噂を聞きつけた小人たちが、エリアスを囲んでしまった。本当にエルフだ、森のエルフ様だ、と小人たちはエリアスを迎えてくれた。小人たちにとってはエルフは高貴な存在だった。パンや菓子を持たされてしまう。一方、小人たちはゲルダを避けていた。やはり、人間は恐ろしいものなのだろう。ゲルダも小人たちには近づかなかった。
手にいっぱいの土産を持たされたエリアスは、ホームに戻ろうとゲルダに言った。
小人たちのゲルダへの態度が気に食わないのか、不機嫌だった。
エリアスを宥めながらホームに戻ったが、リュートはまだ起きていなかった。ゲルダはエリアスをソファに座らせ、自分も隣に座った。
ハルムがエリアスの膝の上に座る。
「エリアス、渡すものがあるの」
ゲルダは鞄の中から、契約石を取り出す。
「それはハルムとゲルダの石では?」
「ハルムは、これからエリアスの妖精になる。エリアスが契約を解消しない限り、ハルムはずっと、エリアスと一緒にいてくれる。エリアスはまだ魔法を探さなくてはいけないから。ハルムはエリアスを守ってくれる」
刻んだ古代文字は『希望』の文字だった。
「諦めないで欲しい。魔法のこと。自分のこと。石もエリアスを守ってくれる。水晶は浄化の石。お守りになるから」
ゲルダはエリアスの手のひらに水晶を置き、両手で握りしめた。
痣が癒えるように願った。
「エリアス、ハルムをよろしくね」
「ああ」
エリアスが石を固く握ると、ハルムは契約が切り替わったのを感じた。
もうゲルダの妖精ではなくなった。だから、ゲルダの気持ちも、もう伝わってこない。
エリアスとハルムは、ゲルダを抱きしめた。
「魔法が見つかったら、俺は、もう一度、ゲルダに会う。方法は考える。俺はゲルダのことを諦めない。約束する。三つ目の約束だ」
「……約束は、駄目だよ」
「いや、約束する。魔法が使えるようになったら、何でも解決できるくらいの賢者になる。まじないでなんでもできてしまうゲルダに負けないくらいの」
「……うん」
ゲルダはエリアスとハルムを抱きしめ、そして、離れた。
リュートが静かにベルを持ってやってきた。ゲルダはエリアスの手を離した。
部屋に霧が溢れる。狭間の霧だった。
「もういいのね」
霧の中で、最後のリュートの問いに、ゲルダは頷いた。
「うん」
「それでは目を閉じて、ベルの音を聴いて」
からん、とベルが鳴る。近くで鳴っている。遠くでも鳴っている。重なるベルの音が心地よい。ゲルダはそのまま崩れ落ち、眠ってしまった。
「よい夜を。ゲルダ――」
リュートは静かに夜の国へと戻って行った。
朝日が差し込んできて、眩しい。そっと目を開けると、心地よさそうに眠っているハルムがいた。
昨晩、ナイフで契約石に文字を刻んだ。刻んだ、というより、傷をつけた。手持ちのナイフでは傷をつけることが精一杯だった。あとエリアスに渡せば、契約はゲルダからエリアスへと切り替わる。ハルムは納得した。あとはエリアスだけだった。
机の上に置きっぱなしだったナイフと石を鞄の中に入れ、身支度をする。部屋には小さな洗面台があった。顔を洗うと、気持ちもすっきりする。
エリアスが何を言っても、もう昼に帰ると決めた。ハルムに押し付けてしまったことには罪悪感はあったが、自分の選択は間違っていないと思うのだ。
ハルムはまだそっとしておき、ゲルダは部屋から出た。リュートはいない。
部屋の掃除をしていた妖精たちに聞くと、リュートは夜明けにホームに戻ってきて、今は寝ているという。夜間の仕事だから、寝るのは朝なのだ。
早くて、昼。リュート次第では夜になるだろうか。夜警が昼まで送ってくれるのなら、安心だった。夜に行くことはできたが、昼に帰る方法は分かっていなかったからだ。先のことを考えていなかった証拠だった。
妖精たちが出してくれたお茶を飲んでいると、エリアスが部屋から出てくる。
眠りすぎたのか、ぼんやりしていた。
「おはよ」
「ああ……」
会話はそれだけだった。暇だった妖精たちはエリアスの乱れた髪で遊びだしたが、エリアスは怒りはしなかった。
頬に浮かび上がる痣が痛々しい。部屋には鏡もあった。エリアスはそれを見て、落ち込んでいるのだろうか。分からなかった。
ゲルダが口を開こうとするよりも先に、エリアスがカップを唇につけたまま言った。
「帰るのだろう。昼に」
「うん」
「俺のためか」
「そう」
ゲルダははっきり頷いた。エリアスは何も言わない。
お茶を飲み干して、ようやくエリアスは溜息まじりに語った。
「昨晩。ゲルダのまじない歌は、俺に魔法の力を与えてくれた。その力は、森の香りがした。なんと言っていいか分からないが、もともと俺の中にあった魔法のような感じがした。ゲルダの魔法には、故郷の風を感じる。だから、ゲルダがもし昼に帰ったとしても、ゲルダはずっと俺の故郷を忘れないでくれるだろうと思った」
目を伏せ、エリアスは告げた。
「俺の痣が決まって拡がるのは、ゲルダのまじないに夜を感じた後。魔法を感じた後。一緒にいてはいけないと、本能が叫んでいるんだ。人間は駄目だ。取り返しのつかないことになると、俺の中の本能が叫ぶ。それに、ゲルダが自分で昼に帰ると決めたのなら、俺は止めない。止められないんだ。俺は夜の、愛し子だから。夜の賢者だから」
苦しそうに告げるエリアスに、ゲルダは返事ができなかった。
その代わり、ゲルダはエリアスの手を取って立ち上がった。
「外、行こう。ハルムも起こして、小人の街を見よう」
エリアスは一瞬戸惑ったが、頷いた。
ベッドで眠っていたハルムを起こし、ゲルダたちは外へ出た。
快晴。噴水の水がきらきらと輝いていた。水の妖精たちが踊っている。踊りに合わせて水も踊っていた。
日が出ているうちは亡霊も湧き出さないのだろう。小人たちはシェルターから出てきて、いつもどおりの生活を送っていた。
その様子は人間の街と変わらない。出店を営んでいる小人もいれば、集団で遊んでいる子供の小人もいた。市庁舎には手続きに向かう小人たちがいたし、警吏のような制服を着て歩いている小人もいた。
路上で玉を使った芸を披露している小人がいた。エリアスは「魔法か?」と、その芸に驚いていた。ひょうきんな小人は、巧みな話術で見物客を笑わせる。その面白さはハルムが手を叩いて笑うほどで、エリアスも笑みを浮かべていた。ハルムは街に出てからずっとエリアスの肩に座っていて、もうエリアスの妖精でいるつもりのようだった。そんな二人の様子を見て、ゲルダは安心する。
芸を見終わると、街にエルフがいるという噂を聞きつけた小人たちが、エリアスを囲んでしまった。本当にエルフだ、森のエルフ様だ、と小人たちはエリアスを迎えてくれた。小人たちにとってはエルフは高貴な存在だった。パンや菓子を持たされてしまう。一方、小人たちはゲルダを避けていた。やはり、人間は恐ろしいものなのだろう。ゲルダも小人たちには近づかなかった。
手にいっぱいの土産を持たされたエリアスは、ホームに戻ろうとゲルダに言った。
小人たちのゲルダへの態度が気に食わないのか、不機嫌だった。
エリアスを宥めながらホームに戻ったが、リュートはまだ起きていなかった。ゲルダはエリアスをソファに座らせ、自分も隣に座った。
ハルムがエリアスの膝の上に座る。
「エリアス、渡すものがあるの」
ゲルダは鞄の中から、契約石を取り出す。
「それはハルムとゲルダの石では?」
「ハルムは、これからエリアスの妖精になる。エリアスが契約を解消しない限り、ハルムはずっと、エリアスと一緒にいてくれる。エリアスはまだ魔法を探さなくてはいけないから。ハルムはエリアスを守ってくれる」
刻んだ古代文字は『希望』の文字だった。
「諦めないで欲しい。魔法のこと。自分のこと。石もエリアスを守ってくれる。水晶は浄化の石。お守りになるから」
ゲルダはエリアスの手のひらに水晶を置き、両手で握りしめた。
痣が癒えるように願った。
「エリアス、ハルムをよろしくね」
「ああ」
エリアスが石を固く握ると、ハルムは契約が切り替わったのを感じた。
もうゲルダの妖精ではなくなった。だから、ゲルダの気持ちも、もう伝わってこない。
エリアスとハルムは、ゲルダを抱きしめた。
「魔法が見つかったら、俺は、もう一度、ゲルダに会う。方法は考える。俺はゲルダのことを諦めない。約束する。三つ目の約束だ」
「……約束は、駄目だよ」
「いや、約束する。魔法が使えるようになったら、何でも解決できるくらいの賢者になる。まじないでなんでもできてしまうゲルダに負けないくらいの」
「……うん」
ゲルダはエリアスとハルムを抱きしめ、そして、離れた。
リュートが静かにベルを持ってやってきた。ゲルダはエリアスの手を離した。
部屋に霧が溢れる。狭間の霧だった。
「もういいのね」
霧の中で、最後のリュートの問いに、ゲルダは頷いた。
「うん」
「それでは目を閉じて、ベルの音を聴いて」
からん、とベルが鳴る。近くで鳴っている。遠くでも鳴っている。重なるベルの音が心地よい。ゲルダはそのまま崩れ落ち、眠ってしまった。
「よい夜を。ゲルダ――」
リュートは静かに夜の国へと戻って行った。