5章
真っ白のシーツがゲルダを迎えた。
ゲルダはぼすんとベッドに倒れ込む。スプリングが入っていて、ゲルダの体が揺れる。ふかふかのベッドはとても心地よかった。干したばかりなのか、日向の香りがする。柔らかい枕も用意されており、抱き寄せた。
ハルムがブーツくらい脱ぎなさいよと小声で言ってきたが、もうしばらくは起き上がれそうになかった。ハルムはそんなゲルダを見て、そっと枕に座った。
「ねえ、リュートの話、知ってたの?」
ゲルダは枕に顔を埋めたまま頷いた。
「知ってて、何も言わなかったの?」
その質問に対しては、ゲルダは首を横に振った。
違う、と言いたいようだが、声は出なかった。ハルムは窓辺に飛んでいき、街の様子を見た。リュートがホームから出ていくところを見た。妖精はおらず、リュートだけが街の見回りに出ている。亡霊はもう湧き出していなかった。静かな広間。噴水が静かに水を吹き上げている。
空を見る。確かにいつもより星が多く瞬いている気がする。これが、昼と夜が混ざるということなのだろうか。
ハルムは小人の街の歴史を詳しくは知らなかった。風の妖精は、そういった歴史よりも、もっと面白い話を好む。この街に住まう妖精たちにとっては知ってて当然のことだろうか、わざわざ外の妖精に伝える必要はないと考えていたのだろう。
ハルムは狭間の妖精である。狭間は、霧に包まれた世界。夜と昼の狭間にあり、夜の噂話は自然と風に乗ってやってくる。それでも夜の国の全ては知らなかった。エルフの森についても古い話しか知らなかったし、昼と夜が混ざったことがあるという歴史も知らなかった。
風の妖精、失格かも。そう思った時、ゲルダに名前を呼ばれた。ゆらりと飛び上がり、ゲルダの枕元に向かう。
「なあに?」
ゲルダがハルムの体を手で包み、そっと抱き寄せた。
「ハルムは知らなかったんだよね」
「まあ、そうね。」
「知らなくて当然だよ」
「何、慰めてくれてるの?」
ハルムはゲルダの頬を手で押した。契約石を通じて、気持ちが伝わってしまったかしら、と恥ずかしくなる。
ゲルダは大きく息を吸い、ハルムに顔を向けた。
「ママ・アルパに聞いたんだ」
「まじないのお師匠さんに?」
「そう。小人の話を聞いたの。小人たちが人間をさらい、その代わりに小人がこの世界にいた時代がある。まじない師たちが夜の国に行こうとしたら、昼と夜が混ざって、断念したって。だから、ママ・アルパは、私が夜の国に行ったら助けられないって教えてくれたの」
ゲルダは目を閉じ、静かに語った。喉の奥から絞り出すかのような声で。
「ママ・アルパに助けられなくても自分でなんとかできるって、あの時は、思ってたのかもしれない。それに伝説は伝説だって思ってたから、あの話はすぐ忘れてしまっていたの。とにかく私は、考えなしで、自分のことだけ考えて、ここに来てしまった。私は、ここに来たら、駄目だったんだ」
ゲルダの手が、ハルムを強く抱き寄せる。ハルムの服に、ゲルダの涙が染みた。地下牢で泣いていたのは、このことだったのだとハルムは察する。
ハルムは小さな腕を伸ばして、ゲルダの頬を抱きしめる。
「でも、私は、ゲルダの妖精になって、良かったって思ってるわ。狭間にいては、私はこの世界のことを知れずに、霧の中に閉じこもってつまらない人生を送ったと思う」
喉を震わせ、ゲルダはハルムに謝った。ハルムの優しさが痛い。ハルムだけではない。エリアスや、この世界に謝った。
人を幸せにするためのまじないなのに、その逆をしてしまっている自分の愚かさに耐えられなかった。
「私、昼に帰る。ここにいたら駄目」
シーツを握りしめ、ゲルダは言った。待ってよ、とハルムは声を上げる。
「まだ何も分かってないのに! それに、私との契約は? それよりも、エリアスのことはどうするのよ。あなたのこと、あんなに愛してるのに。あなただってそうじゃない!」
「でも、駄目だよ。エリアスの痣を見たでしょ。私といたら、エリアス、本当に、夜に溶けちゃう。私のまじないが、夜が、そうさせてるのなら、いくら好きでも、離れなくちゃ」
ハルムは唇を噛み、ゲルダの頬を小さなげんこつで殴った。
「馬鹿。馬鹿。私はそんな物語、見たくない!」
「痛いよ、ハルム」
「ここにいて、ゲルダ。お願い。すぐに帰らなくていいってリュートも言ってくれるはずよ。せめて、もっと納得いく形で帰ってよ。あなたの夜と、エリアスの魔法のことが、せめて分かるまで」
ハルムは羽根を萎れさせて枕に座り込む。
出会った時みたいに、大きな声で泣いた。ゲルダはハルムの大粒の涙を指先で拭う。
「あのね、契約石、エリアスに譲ろうと思う」
「そ、んなこと、でき、っこ、ないわ。小人でも、ないのにっ!」
「できる。まじないは、信じれば、なんでもできる。私とハルムの契約石を、お守りにする。ハルム、あなたが、エリアスを守ってあげて」
ハルムは最初は首を横に振った。嫌だ、と駄々をこねた。ゲルダはお願い、と何度もハルムに言い聞かせた。
「エリアスが魔法を取り戻して、立派なエルフの王になったら、森に招かれるんでしょ? 初めてエルフの森に入った妖精になれるわ」
「そんなの、ちっとも、嬉しくない! ゲルダと一緒じゃなきゃ嫌っ!」
ふるふると首を振るハルムが愛しい。出会ったばかりの頃はあんなに自分を苛つかせた妖精なのに、今となっては離れるのは嫌だと泣きじゃくっているハルムが愛しかった。
だからこそ、ゲルダはハルムに頼りたかった。ハルムがエリアスの妖精となれば、エリアスも安心する。自分がいなくなっても、ハルムがいれば、魔法を探す旅を続けられるだろう。
「ハルム、私、ハルムのこと、信頼してる。大好きなの。だから、だからこそ、エリアスと一緒にいてほしい。私がどれだけエリアスのこと好きだったか、語ってあげてほしいの。エリアスと出会えて良かったって、ずっと、伝えてほしいの」
ハルムの頭を人差し指で撫でる。
「ハルムならできるでしょ?」
「……できる」
「ありがとう。ハルムと契約できて、良かった」
ゲルダは鞄の中から契約石とナイフを取り出し、起き上がった。
机の上に置かれていたランプの中では、小さな光の妖精が眠っていた。ゲルダは光の妖精に無理を言って起きてもらい、契約石に古代文字を一つだけ刻んだ。その様子を、ハルムはじっと見つめていた。
ゲルダはぼすんとベッドに倒れ込む。スプリングが入っていて、ゲルダの体が揺れる。ふかふかのベッドはとても心地よかった。干したばかりなのか、日向の香りがする。柔らかい枕も用意されており、抱き寄せた。
ハルムがブーツくらい脱ぎなさいよと小声で言ってきたが、もうしばらくは起き上がれそうになかった。ハルムはそんなゲルダを見て、そっと枕に座った。
「ねえ、リュートの話、知ってたの?」
ゲルダは枕に顔を埋めたまま頷いた。
「知ってて、何も言わなかったの?」
その質問に対しては、ゲルダは首を横に振った。
違う、と言いたいようだが、声は出なかった。ハルムは窓辺に飛んでいき、街の様子を見た。リュートがホームから出ていくところを見た。妖精はおらず、リュートだけが街の見回りに出ている。亡霊はもう湧き出していなかった。静かな広間。噴水が静かに水を吹き上げている。
空を見る。確かにいつもより星が多く瞬いている気がする。これが、昼と夜が混ざるということなのだろうか。
ハルムは小人の街の歴史を詳しくは知らなかった。風の妖精は、そういった歴史よりも、もっと面白い話を好む。この街に住まう妖精たちにとっては知ってて当然のことだろうか、わざわざ外の妖精に伝える必要はないと考えていたのだろう。
ハルムは狭間の妖精である。狭間は、霧に包まれた世界。夜と昼の狭間にあり、夜の噂話は自然と風に乗ってやってくる。それでも夜の国の全ては知らなかった。エルフの森についても古い話しか知らなかったし、昼と夜が混ざったことがあるという歴史も知らなかった。
風の妖精、失格かも。そう思った時、ゲルダに名前を呼ばれた。ゆらりと飛び上がり、ゲルダの枕元に向かう。
「なあに?」
ゲルダがハルムの体を手で包み、そっと抱き寄せた。
「ハルムは知らなかったんだよね」
「まあ、そうね。」
「知らなくて当然だよ」
「何、慰めてくれてるの?」
ハルムはゲルダの頬を手で押した。契約石を通じて、気持ちが伝わってしまったかしら、と恥ずかしくなる。
ゲルダは大きく息を吸い、ハルムに顔を向けた。
「ママ・アルパに聞いたんだ」
「まじないのお師匠さんに?」
「そう。小人の話を聞いたの。小人たちが人間をさらい、その代わりに小人がこの世界にいた時代がある。まじない師たちが夜の国に行こうとしたら、昼と夜が混ざって、断念したって。だから、ママ・アルパは、私が夜の国に行ったら助けられないって教えてくれたの」
ゲルダは目を閉じ、静かに語った。喉の奥から絞り出すかのような声で。
「ママ・アルパに助けられなくても自分でなんとかできるって、あの時は、思ってたのかもしれない。それに伝説は伝説だって思ってたから、あの話はすぐ忘れてしまっていたの。とにかく私は、考えなしで、自分のことだけ考えて、ここに来てしまった。私は、ここに来たら、駄目だったんだ」
ゲルダの手が、ハルムを強く抱き寄せる。ハルムの服に、ゲルダの涙が染みた。地下牢で泣いていたのは、このことだったのだとハルムは察する。
ハルムは小さな腕を伸ばして、ゲルダの頬を抱きしめる。
「でも、私は、ゲルダの妖精になって、良かったって思ってるわ。狭間にいては、私はこの世界のことを知れずに、霧の中に閉じこもってつまらない人生を送ったと思う」
喉を震わせ、ゲルダはハルムに謝った。ハルムの優しさが痛い。ハルムだけではない。エリアスや、この世界に謝った。
人を幸せにするためのまじないなのに、その逆をしてしまっている自分の愚かさに耐えられなかった。
「私、昼に帰る。ここにいたら駄目」
シーツを握りしめ、ゲルダは言った。待ってよ、とハルムは声を上げる。
「まだ何も分かってないのに! それに、私との契約は? それよりも、エリアスのことはどうするのよ。あなたのこと、あんなに愛してるのに。あなただってそうじゃない!」
「でも、駄目だよ。エリアスの痣を見たでしょ。私といたら、エリアス、本当に、夜に溶けちゃう。私のまじないが、夜が、そうさせてるのなら、いくら好きでも、離れなくちゃ」
ハルムは唇を噛み、ゲルダの頬を小さなげんこつで殴った。
「馬鹿。馬鹿。私はそんな物語、見たくない!」
「痛いよ、ハルム」
「ここにいて、ゲルダ。お願い。すぐに帰らなくていいってリュートも言ってくれるはずよ。せめて、もっと納得いく形で帰ってよ。あなたの夜と、エリアスの魔法のことが、せめて分かるまで」
ハルムは羽根を萎れさせて枕に座り込む。
出会った時みたいに、大きな声で泣いた。ゲルダはハルムの大粒の涙を指先で拭う。
「あのね、契約石、エリアスに譲ろうと思う」
「そ、んなこと、でき、っこ、ないわ。小人でも、ないのにっ!」
「できる。まじないは、信じれば、なんでもできる。私とハルムの契約石を、お守りにする。ハルム、あなたが、エリアスを守ってあげて」
ハルムは最初は首を横に振った。嫌だ、と駄々をこねた。ゲルダはお願い、と何度もハルムに言い聞かせた。
「エリアスが魔法を取り戻して、立派なエルフの王になったら、森に招かれるんでしょ? 初めてエルフの森に入った妖精になれるわ」
「そんなの、ちっとも、嬉しくない! ゲルダと一緒じゃなきゃ嫌っ!」
ふるふると首を振るハルムが愛しい。出会ったばかりの頃はあんなに自分を苛つかせた妖精なのに、今となっては離れるのは嫌だと泣きじゃくっているハルムが愛しかった。
だからこそ、ゲルダはハルムに頼りたかった。ハルムがエリアスの妖精となれば、エリアスも安心する。自分がいなくなっても、ハルムがいれば、魔法を探す旅を続けられるだろう。
「ハルム、私、ハルムのこと、信頼してる。大好きなの。だから、だからこそ、エリアスと一緒にいてほしい。私がどれだけエリアスのこと好きだったか、語ってあげてほしいの。エリアスと出会えて良かったって、ずっと、伝えてほしいの」
ハルムの頭を人差し指で撫でる。
「ハルムならできるでしょ?」
「……できる」
「ありがとう。ハルムと契約できて、良かった」
ゲルダは鞄の中から契約石とナイフを取り出し、起き上がった。
机の上に置かれていたランプの中では、小さな光の妖精が眠っていた。ゲルダは光の妖精に無理を言って起きてもらい、契約石に古代文字を一つだけ刻んだ。その様子を、ハルムはじっと見つめていた。