4章

 いつもと何かが違う。そう気付いたのは、自分が紅玉の間にいると気付いた時だった。エリアスは自分を見ていた。記憶にない自分の姿の背中を見ていた。
 紅玉の間は何一つ変わっていなかった。季節を問わず、いつも紅の葉をたっぷり蓄えている木々が間を囲む。美しい、とエルフたちは言う。この紅色を美しいと。しかし、エリアスは見慣れた色だったから、美しいなんて一度も思ったことがなかった。
 しかし、夢の中のエリアスは、木々を見上げ、こう言った。
「美しいだろう」
 誰に向かって言ったのだろう。
 それよりも、今見ているのは、夢なのか、本当にかつてあった過去なのか、判断がつかなかった。
 顔が見えない。ずっと背中を見ていた。切ってしまいたいと思うほど長い髪を風に揺らし、自慢げに木々を見ていた。
 何かを抱きしめているようだったが、その姿は見えない。見ようと思っても、エリアスの足は動かなかった。
 いつもの夢だったら、自分自身が体験するかたちの夢を見ていた。自分が動こうと思えば体を動かすことができた。見る夢はいつも同じだし、どろどろに溶ける展開も同じ。抗うこともできない。夜の女王から逃げることもできない。でも、何度も何度も方法を変えて抗ってみることはできていた。手を剣で切り落とすこともしたことがある。痛覚はなかったが、見るに堪えなかった。覚悟を決めて切り落としたが、切り落とした手はどろどろに溶けて、結局自分を包んでしまう。ある日は女王に向かって刃を向けたこともある。どろどろの状態でも、剣を持つことができた。しかし、女王のドレスは空に溶けて、剣はただ虚しく空を斬っただけだった。また、ある時は、どろどろになりながらも走って逃げた。しかし、女王はこの空をその拡がるドレスで覆い尽くし、その中から月のような顔が追ってきて、捕まってしまう。とにかく、抗うことはできるが、最終的には捕まって、嫌だ、と叫んで目覚めるのがいつもの夢だった。
 それが、今回は違った。穏やかな、紅玉の間。それを美しいという自分を、ただただ、見つめている。脅威など、何一つない、平和な空間だった。
「私、知ってるよ。遠い、遠い、東の国に、紅く燃える木があるって、お母さんに教えてもらったの」
 姿の見えない誰かが、語った。きっと、エリアスの腕の中にいる者だろう。可愛らしい、幼い少女の声だった。
 エリアスの腕が動く。頭を撫でたのだろう。ふふ、と少女が笑っている。
「そうか。そちらの国にも、あるのだな」
「うん。でも、私、見たことない。はじめて」
「では、飽きるほど見たらいい。私もお前となら、ずっと見ていられよう」
 自分のことを”私”と言っていることが不思議だった。私、私。エリアスは胸の中で唱えてみる。違和感はない。もしかしたら、記憶がなくなる以前は、自分のことを私と言っていたのかもしれない。それが王子としての振る舞いだと思って。実際、目の前にいるエリアスは、気品があった。今の自分とは、雰囲気が違うのだ。このエリアスは魔法が使えるのだろうか。記憶も全て持っている状態のエリアスなのだろうか。まだ、夢なのか、実際にあったことなのか、判別がつかないでいた。
 エリアスは、ふと、考えた。
(――ゲルダが、まじないをかけてくれたのだろうか)
 かろうじて動かせたのは、手だった。革の手袋をしていなかった。透き通るほど白い手があった。痣がない。
 痣がなくなるのは、ゲルダの夜が自分の体に流れてきている時だ。これは、ゲルダが見せてくれているのだと、そこでようやく気づく。
 ゲルダには、あの恐ろしい夢の詳細を伝えた。船の上で寝入った自分を案じてくれたのかもしれない。彼女には、そういった優しさがあった。香り袋を渡した時もそうだ。まじないや占いを過信していたとはいえ、そのまじないや占いには、彼女の優しさを感じていた。
 胸の中が温かくなる。
 それと同時に、苦しさも感じる。
 この胸の中の温かさは、あってはならないものだ。本来感じてはならないものだ。本能が訴えてくる。なぜなら、彼女は人間――昼の国の住民だから。
 そう気付いた瞬間、エリアスの手に夜色の痣が拡がった。
 はっとして、顔を上げる。突風が紅の葉を巻き上げ、視界を遮る。
「私、ここに来て、楽しい」
「そうか……、ならば、共にいよう。そのために、私は、お前をここに呼んだのだから……手放さない、絶対。守り抜こう、誰が何と言おうが、お前のことを」
 会話だけが聞こえる。
 風で巻き上げられた葉が、自分の頬を傷つけてゆく。頬から出た血は、どろっとしていた。拭うと、たちまち、それはあの、どろどろの夜に変わった。
 幸せな夢が一変する。まただ、また、あの夢に戻ってしまう。
 嫌だ、と叫びたくても、叫べれない。
 今度は手が溶けた。
 嫌だ、と叫ぶ代わりに、涙が出る。その涙も、夜の色だ。
「エリアス、大好き」
「俺もだ、ゲルダ。ツリーハウスに帰ろう。見つかってはいけないから」
 風が凪いだ。
 最後に見えたのは、苦しそうに微笑んでいる自分と、自分に抱き上げられている、幼いゲルダだった。


 そして、自分は溶けた。
 あの、月のような顔が、自分を見ている。
――母上、これは、ただの夢ですか。それとも、本当にあったことですか。
 エリアスは母に問いかけた。しかし、母は自分の問いには答えず、こう言った。
「おかえり、夜の愛し子」
 冷たい手が自分をすくい上げ、そして、ドレスにエリアスの魂を縫い付けようとした。
 声にならない叫びを上げる。
 嫌だ。嫌だ、母上、俺はまだ俺でいたい、エリアスでいたいんだ――!
 

「嫌だ!!」
 大声で叫んだ。肺に空気が入ってくる。
 満天の星が自分を見下ろしていた。それから、心配そうに見ているゲルダも。
「まじない、効かなかったかな……、嫌な夢を見ないように、まじないをかけてみたんだけど。大丈夫?」
 ゲルダがそっとエリアスの頬を撫でた。涙を拭いてくれたのだと気付くには、少し時間がかかった。
「やはり、あれは、まじないだったか……」
 だったら、あれは、絶対、ただの夢なのだ。ゲルダが見せてくれた、落ち着くためのまじない。まじないの力が切れたから、いつもの夢に戻っただけだ。
 エリアスは自分にそう言い聞かせた。けれど、あの幸せで、苦しい気持ちは、現実に残っていた。
「ゲルダ、俺は、お前の優しさが好きだ。お前のまじないは、優しい」
 正直に言うと、ゲルダは、戸惑ったように「そ、そっか、ありがと」とぎこちなく言った。
 波とハルムの風の音だけが聞こえる。ゲルダはその沈黙に耐えきれずに、エリアスに話しかけた。
「も、もうすぐで、陸に着くって、占いに出たの。小人の街で、もしかしたら、ちゃんとしたベッドで寝られるかも。そうしたら、もっといい夢が見れるかもしれない」
「いや。いくらいいベッドで寝ようが、俺は母上から逃げられない。俺が逃げるべき相手は、叔父上ではなく、きっと母上なんだ。この世界を愛し、守る、偉大な母上が、俺を呼んでるんだ、きっと。この出来損ないの俺を」
 唇が震える。言葉にして出すと、現実味を増してしまう。夢の中で散々流した涙がまた出てくる。
 堰を切ったように涙が溢れ出る。嗚咽していると、ゲルダが、恐る恐るエリアスを抱きしめた。しかし、あの時のように、エリアスに魔法の力は流れてこなかった。
「魔法が欲しい。俺が俺でいられるための魔法が、欲しい。俺は死にたくない、俺はまだ、エリアスでいたい。母上の時間である夜が怖い。ゲルダのまじないがないと、俺は怖いんだ」
「私はまだ一緒にいるよ」
 夢の中のゲルダの声が耳の奥で響く。本能が駄目だ、と叫ぶ。人間は駄目だ、取り返しがつかなくなる、と、警鐘を鳴らす。しかし、何が駄目なのか今のエリアスには分からなかった。記憶がないせいだ。全部、過去に置いてきてしまった。
 エリアスは、ゲルダの頬に手を添え、唇を重ねた。
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