3章

 ロンドの歌に合わせて、数々の魚たちがゲルダたちを見送る。ロンドはやってきた魚たちに手を振ったり、ウインクをしてみたりと楽しそうである。
 ゲルダはそっとエリアスの顔色をうかがった。森から出た時は無愛想だったエリアスの顔に、ほんの僅かだけ笑みが浮かんでいる。森で見れないものを、目に焼き付けているようだった。
 外に出てみて分かることがある。それは、ゲルダもロンドも同じだった。
 魚たちの見送りが終わると、頭上から光が差し込んでくる。それは雲の切れ端から漏れ出る光のように温かなものだった。ランプとは違うまろやかな光に、ロンドはうっとりとしている。
 まるで、空に伸びる梯子のようだ、とゲルダは思った。
 自分たちは梯子を上り、外に出る――。
「うっわあ、すごい……!」
 尾でめいっぱい水を蹴ったロンドは、外の世界に飛び上がった。
 ゲルダとエリアスは目を細める。
 先程の嵐が嘘だったかのような晴天。冬空と思えないほどの太陽の輝き。雲一つない青空が輝き、自分たちを迎えてくれた。
 エリアスは安心して、ゲルダの手を離した。それまで自分たちを守ってくれていた魔法が消え、ゲルダとエリアスの服を濡らす。魔法の温かさがなくなり、ゲルダは大きなくしゃみをしてしまった。
「俺たちは船に上がったほうがいい」
「あ、船なら私の風で沈まないように守ってたの。今、持ってくるわ」
 頼んでもいないのに、ハルムが力を使っていた。そのことにゲルダは驚くと共に、ハルムが自分たちのことを大切に思ってくれていたのだと実感した。
「ありがとう、ハルム」
 ゲルダが礼を述べると、ハルムは恥ずかしそうに笑って、軽やかに飛んでいった。風が運んできた船の帆はすっかり乾いていて、力いっぱい風に膨らんでいた。
 ハルムは更に、自分たちの体を風で抱き上げ、船に乗せてくれた。温かい風がゲルダたちの服を優しく乾かす。
 その間、エリアスは空に何かを探していた。
「エリアス?」
「あ、いや。叔父上が近くにいるのかと思っていたが、いないようだ。安心してよさそうだ」
 ゲルダも空を見る。一羽の海鳥が白く輝きながら飛んでいた。
「あれ、じゃないよね」
「違うだろう。变化の魔法はよっぽどの者でなければできない。叔父上の魔法はロンドの歌に敗れるくらいなのだと分かったから」
 そのロンドは、今、船の横で泳いでいる。
 癖毛が風に踊っていた。初めて見る太陽の輝きに、ロンドの目も輝いている。ハルムはそんなロンドの近くまで飛んでいった。ロンドが手で水をまき散らし、その飛沫をかわして遊んでいた。水を顔から浴びてしまったハルムは大きな声で笑い、ロンドも声を上げて笑った。
 ひとしきり笑った後、ロンドはハルムを肩に乗せてゲルダたちに尋ねた。
「そうだ、君たちはこれからどこへ行くの?」
「小人の街。そこにいるという夜警の小人に会いに行きたいの」
「そっか。ずっと海にいるわけじゃないんだね」
 寂しそうにするロンドに、エリアスは行った。
「俺はいつかまた、森に戻るだろう。その時は、俺もきっと空を飛べるだけの魔法が使えるはずだ。その時になれば、またこの海に来よう」
「本当?」
「ああ、約束しよう。俺は森に引きこもっているだけのエルフとは違う。森の外でも、友は大切にする」
 エリアスはロンドに手を差し伸べようとして、自分の手を見て、引っ込めた。
 懐にしまっていた手袋をして、もう一度手を出す。
「ありがとう、エリアス。君は本当にいいエルフだね。それからゲルダも。ボクにこの広い空を見せてくれてありがとう。気持ちよく歌えた。それは、君たちのおかげ。静かの海に、またおいでよ」
 ロンドはそう言って、エリアスの手を握り返した。
 しばらく一緒に泳いだロンドは、あまり街から離れると心配だからと、途中でゲルダたちを見送った。その時、トビウオのような魚たちも一緒に自分たちを見送ってくれた。
 ゲルダたちは彼らに手を振り、再びハルムの風で小人の街を目指した。
「俺は今、二度約束をした。一度目はハルムに、二度目はロンドに。これからもっと、外の者と約束をするのだろうな――果たせれたらいいが」
 エリアスの見せていた笑みが、さっとなくなったのをゲルダは見逃さなかった。
「手、どうしたの。さっき、痣、消えてたのは見たけど」
「痣が拡がっていた。魔法を使っていた時は、なくなったのに」
 エリアスは袖をめくりあげた。その痣は肘まで拡がっていた。エリアスの白い肌が、夜に侵されているみたいで、ゲルダはそっと袖を戻した。
 エリアスが語っていた夢を思い出す。夜が拡がり、エリアスをどろどろにしてしまう――それが現実になっているみたいで、ゲルダは見るに堪えなかった。
「見なくていいし、見せなくていいよ。見たくないんでしょ」
「ああ……。でも、ゲルダの夜は、痣をなくすほどのものだった。俺に魔法の力が戻れば、この痣は消える。ゲルダ。また俺に魔法が必要となった時、その夜を、俺に貸してほしい。ゲルダの夜に、俺は、魔法を感じた」
 エリアスはそっとゲルダの手を握り返した。ゲルダの心臓が高鳴り、顔がかっと熱くなるのを感じた。それがエリアスに知られないように、ゲルダは俯く。
「ただ、こうしているだけでは、ゲルダの夜は俺に力を貸してくれない。何かが必要なんだろうな。小人の街で何か分かればいいが」
「う、うん、そうだね……。そうだ、今のうちに、濡れたもの、全部乾かしてしまおうよ。エリアス、渡した香り袋、まだ持ってる?」
「ああ、ある」
 エリアスが袂から出した香り袋は、水を吸って大きく膨らんでいた。ゲルダも鞄の中から濡れてしまった草たちを出す。本当は水洗いをしたかったが、今はまだ我慢だ。いざという時に使えるようにだけはしておきたかった。
 カンテラもきちんと船の中にあった。ハルムとの契約石もある。
 安心しながらもエリアスとせっせとそれらを並べ、風に当たるようにする。
 それから、エリアスは疲れたと言って、横になって眠ってしまった。自分の体を守るかのように、腕を組み、自分の体を抱きしめるかのような格好をしていた。ゲルダは、嫌な夢を見ないように、そっとエリアスにまじないをかけた。
 占い石の文字にも、まじないの力がある。「幸福」の石を出し、エリアスの額にそっと当てる。
「辛いなら、見なくていいよ」
 それだけ言って、占い石を袋の中に戻した。
 エリアスの言っていることや、ロンドの言っていることが、まだ分からない。夜の者にだけ感じる夜が自分の中にあり、それがエリアスの魔法の力になっているという事実に実感がなかった。
 しかし、もしその力が、まじないと占いの力だったら、その夜がなくなったら、自分はまじないと占いが使えなくなるのではないか。ゲルダはそのようなことを考えながら風を浴びていた。
 ママ・アルパからは、センスがあるとだけ言われてきた。自分もまじないと占いが得意だと自負してきた。けれど、それが、自分の中にある夜の力だとしたら、自分の本当の力とは何なのだろう。
 ゲルダは占い石を使わず、ただただ、考えていた。
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