3章
ロンドの歌ったものは、静かの海で使われている言葉の歌だった。だから、ゲルダには意味は分からないし、エリアスもハルムも知らないので、誰も言葉の意味を理解することはできなかった。
ゲルダが沈んでいる時は、一方的で、押し付けがましいような感じがした。自分勝手な歌には、苛立ちを覚えたほどだ。けれど、今はどうだろう。その曲調と、音色から、とても温かなものを感じ取れる。優しい波が、ゲルダたちを海面へ誘う。
ロンドの歌に連れられてやってきたのは、あの、額に明かりを持つ魚や、光るクラゲたちだった。一度ロンドの家を離れれば、闇に包まれる。しかし、虹色の魚たちが、まるで空の星々のように光り輝き、美しい景色を作っていた。
(私のまじないと占いも、こうあるべきだったんだ、きっと……)
自分はママ・アルパに何を教わっていたのだろう。
自分はなんのためにまじないと占いを身につけたのだろう。
まじないと占いが上手にできるから。そんな自分にうぬぼれた。まじないと占いで稼げる自分に酔いしれていた。なんて恥ずかしいことだろう。ゲルダは、無意識のうちに、エリアスの手を力いっぱい握りしめていた。
「ゲルダ」
エリアスがふと、ゲルダを呼んだ。
「俺の魔法は、今はゲルダの力を借りて、指先でしか使えないが……、もし魔法が使えるようになったら、俺も、誰かのために使いたいと思った」
「うん」
「俺は、俺のために魔法を欲した。魔法が使えれば、俺の命はひとまず守られるからだ。でも、船の上で、魔法を使えるようになったら、どうしようかと考えていたのだ。森に戻るのか。戻らないのか。魔法を使えたらどうしようかと」
エリアスはちかちかと光る魚たちを見て、ふと微笑んだ。
「まだ答えは出ない。でも一つ決まった。俺はハルムやロンドや、ゲルダみたいに、誰かのために力を使えるエルフになりたい。それはエルフの夜の賢者としての使命としてではなく、王子としての使命でもなく、俺自身がそうしたいと思ったのだ」
「私もだよ。私も――」
ママ・アルパの顔を思い出すと、じわりと涙が浮かんだ。帰ったら、じぶんのまじないを、心から誰かのために使うのだと、ママ・アルパに誓いたい。
軽やかに歌うロンドが眩しい。
自分たちのために歌っているだけではない。この海に生きる全てのものに歌いかけていた。
ゲルダは溢れ出そうな涙をぐっと拭い、ロンドの姿を目に焼き付けた。
あれが本当の、力を使える者の姿なのだと。
しかし、その幻想的な光景はしばらくして突然なくなってしまった。魚たちが何かを察して、逃げてしまったからだ。ロンドは歌うのをやめてしまった。
「波の雰囲気が変わった。よくわからないけれど、何か来る……」
エリアスの魔法越しに、海の水が冷えるのを感じる。エリアスは剣に手を添えた。
ちらりと光るものが見えた。それは、ぐるぐると自分たちを囲んでいる。
「魔法を感じるわ」
ハルムが小さい声で言うと、エリアスは頷く。
「森の香りがする。叔父上の魔法のようだ」
沈みゆく時に見た、あの、蜘蛛の目を持つ魚たちが、自分たちを囲っていた。来る時は自分たちに全く興味がなかった彼らが、今は目を赤く光らせ、今まさに襲ってこようとしている。
「誰かに操られてるの?」
ロンドが聞くと、エリアスは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「俺の命を狙う者がいる。エルフの魔法だ。だが、叔父上の魔力はそこまで強くない。解く手段はある……と思う」
「エリアス、君が命を狙われる理由がどこにあるの? 君はいいエルフなのに。ゲルダもそう思ってるよ」
ロンドに言われ、エリアスは目を丸くした。
「ね、ゲルダ。君の気持ちが、海に溶け出してるから、分かるよ。なんでだろうね。君の中にある夜のせいかな?」
確かに、沈んでいる時にゲルダはエリアスの無事を願った。それが海に溶け出しているとは、どういうことだろう。自分の気持ちを言われて、ゲルダは顔を少し赤くする。
「ゲルダの夜はとても気持ちがいい。ボクの歌も気持ちよく伸びてくれる」
「俺もそう思う――ゲルダの夜は、とても心地がよい」
ロンドはウインクをして、ゲルダたちに背を向けた。
その瞬間、数千の牙がロンドを噛み砕こうと襲ってくる。しかし、ロンドは手を伸ばし、歌で迎えた。
その言葉の意味はやはり分からない。けれどもロンドの歌によって生じた波のゆらぎは、心地よさがあった。
意味は分からないが、心には伝わってくる。
思い出せ、思い出せ、ボクらは友達。
深い海の底で静かに暮らすボクらは友達。
静かの海で静かに幸せを歌うボクらは友達。
その牙は静かの海を守る牙だ。
思い出せ、思い出せ、海の誇りを思い出せ――。
ゲルダの心に、言葉が溢れる。
ロンドの強い願いは、言葉が分からなくても、伝わってくる。
魚たちは動きを止め、そして、ゆっくり口を閉じた。
叔父の魔法が泡になり、抜けていくのをエリアスとハルムは見た。
「君たちは、こんなことをする海の戦士じゃないでしょ。ね」
ロンドの手が魚たちの額を優しく撫でた。魚たちは申し訳ないようにうなだれ、そして海の彼方へと去っていった。
すごい。ゲルダは素直に思った。思わず、凄い、と口にしてしまう。
「あはは、ありがとう。でも、ゲルダの夜がボクの背中を押してくれたから。彼らは、海の戦士たち。本当は、この静かの海が大好きなんだ。まったく、戦士たちに魔法をかけるとは、エルフはエルフでも酷いエルフがいるんだね? エリアス、あの、君は本当に、死んだら駄目だと思う」
「なぜそう思う」
「君は誰よりも優しいからだよ。顔と喋り方はちょっとキツイけどね」
「これは生まれつきだ……と思うが」
記憶がないせいか、はっきりとは言わなかったが、目つきのことを言われて少し怒ったようだ。エリアスの目がきっと釣り上がるのを見て、ロンドは笑った。
「ごめんごめん。じゃ、もう一気に上がってしまおうか。ボク、外の景色が早く見たい」
ロンドは再び歌った。
今度は、言葉が聞こえてくる。
静かの海に、友がやってきた。
ボクの初めての友がやってきた。
ボクは友のために歌う。
ボクは静かの海の人魚。
ひとりぼっちの人魚だった。
けれど今はもう友がいる。
ボクの歌を友に贈ろう。
静かの海いっぱいに響くように。
ゲルダが沈んでいる時は、一方的で、押し付けがましいような感じがした。自分勝手な歌には、苛立ちを覚えたほどだ。けれど、今はどうだろう。その曲調と、音色から、とても温かなものを感じ取れる。優しい波が、ゲルダたちを海面へ誘う。
ロンドの歌に連れられてやってきたのは、あの、額に明かりを持つ魚や、光るクラゲたちだった。一度ロンドの家を離れれば、闇に包まれる。しかし、虹色の魚たちが、まるで空の星々のように光り輝き、美しい景色を作っていた。
(私のまじないと占いも、こうあるべきだったんだ、きっと……)
自分はママ・アルパに何を教わっていたのだろう。
自分はなんのためにまじないと占いを身につけたのだろう。
まじないと占いが上手にできるから。そんな自分にうぬぼれた。まじないと占いで稼げる自分に酔いしれていた。なんて恥ずかしいことだろう。ゲルダは、無意識のうちに、エリアスの手を力いっぱい握りしめていた。
「ゲルダ」
エリアスがふと、ゲルダを呼んだ。
「俺の魔法は、今はゲルダの力を借りて、指先でしか使えないが……、もし魔法が使えるようになったら、俺も、誰かのために使いたいと思った」
「うん」
「俺は、俺のために魔法を欲した。魔法が使えれば、俺の命はひとまず守られるからだ。でも、船の上で、魔法を使えるようになったら、どうしようかと考えていたのだ。森に戻るのか。戻らないのか。魔法を使えたらどうしようかと」
エリアスはちかちかと光る魚たちを見て、ふと微笑んだ。
「まだ答えは出ない。でも一つ決まった。俺はハルムやロンドや、ゲルダみたいに、誰かのために力を使えるエルフになりたい。それはエルフの夜の賢者としての使命としてではなく、王子としての使命でもなく、俺自身がそうしたいと思ったのだ」
「私もだよ。私も――」
ママ・アルパの顔を思い出すと、じわりと涙が浮かんだ。帰ったら、じぶんのまじないを、心から誰かのために使うのだと、ママ・アルパに誓いたい。
軽やかに歌うロンドが眩しい。
自分たちのために歌っているだけではない。この海に生きる全てのものに歌いかけていた。
ゲルダは溢れ出そうな涙をぐっと拭い、ロンドの姿を目に焼き付けた。
あれが本当の、力を使える者の姿なのだと。
しかし、その幻想的な光景はしばらくして突然なくなってしまった。魚たちが何かを察して、逃げてしまったからだ。ロンドは歌うのをやめてしまった。
「波の雰囲気が変わった。よくわからないけれど、何か来る……」
エリアスの魔法越しに、海の水が冷えるのを感じる。エリアスは剣に手を添えた。
ちらりと光るものが見えた。それは、ぐるぐると自分たちを囲んでいる。
「魔法を感じるわ」
ハルムが小さい声で言うと、エリアスは頷く。
「森の香りがする。叔父上の魔法のようだ」
沈みゆく時に見た、あの、蜘蛛の目を持つ魚たちが、自分たちを囲っていた。来る時は自分たちに全く興味がなかった彼らが、今は目を赤く光らせ、今まさに襲ってこようとしている。
「誰かに操られてるの?」
ロンドが聞くと、エリアスは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「俺の命を狙う者がいる。エルフの魔法だ。だが、叔父上の魔力はそこまで強くない。解く手段はある……と思う」
「エリアス、君が命を狙われる理由がどこにあるの? 君はいいエルフなのに。ゲルダもそう思ってるよ」
ロンドに言われ、エリアスは目を丸くした。
「ね、ゲルダ。君の気持ちが、海に溶け出してるから、分かるよ。なんでだろうね。君の中にある夜のせいかな?」
確かに、沈んでいる時にゲルダはエリアスの無事を願った。それが海に溶け出しているとは、どういうことだろう。自分の気持ちを言われて、ゲルダは顔を少し赤くする。
「ゲルダの夜はとても気持ちがいい。ボクの歌も気持ちよく伸びてくれる」
「俺もそう思う――ゲルダの夜は、とても心地がよい」
ロンドはウインクをして、ゲルダたちに背を向けた。
その瞬間、数千の牙がロンドを噛み砕こうと襲ってくる。しかし、ロンドは手を伸ばし、歌で迎えた。
その言葉の意味はやはり分からない。けれどもロンドの歌によって生じた波のゆらぎは、心地よさがあった。
意味は分からないが、心には伝わってくる。
思い出せ、思い出せ、ボクらは友達。
深い海の底で静かに暮らすボクらは友達。
静かの海で静かに幸せを歌うボクらは友達。
その牙は静かの海を守る牙だ。
思い出せ、思い出せ、海の誇りを思い出せ――。
ゲルダの心に、言葉が溢れる。
ロンドの強い願いは、言葉が分からなくても、伝わってくる。
魚たちは動きを止め、そして、ゆっくり口を閉じた。
叔父の魔法が泡になり、抜けていくのをエリアスとハルムは見た。
「君たちは、こんなことをする海の戦士じゃないでしょ。ね」
ロンドの手が魚たちの額を優しく撫でた。魚たちは申し訳ないようにうなだれ、そして海の彼方へと去っていった。
すごい。ゲルダは素直に思った。思わず、凄い、と口にしてしまう。
「あはは、ありがとう。でも、ゲルダの夜がボクの背中を押してくれたから。彼らは、海の戦士たち。本当は、この静かの海が大好きなんだ。まったく、戦士たちに魔法をかけるとは、エルフはエルフでも酷いエルフがいるんだね? エリアス、あの、君は本当に、死んだら駄目だと思う」
「なぜそう思う」
「君は誰よりも優しいからだよ。顔と喋り方はちょっとキツイけどね」
「これは生まれつきだ……と思うが」
記憶がないせいか、はっきりとは言わなかったが、目つきのことを言われて少し怒ったようだ。エリアスの目がきっと釣り上がるのを見て、ロンドは笑った。
「ごめんごめん。じゃ、もう一気に上がってしまおうか。ボク、外の景色が早く見たい」
ロンドは再び歌った。
今度は、言葉が聞こえてくる。
静かの海に、友がやってきた。
ボクの初めての友がやってきた。
ボクは友のために歌う。
ボクは静かの海の人魚。
ひとりぼっちの人魚だった。
けれど今はもう友がいる。
ボクの歌を友に贈ろう。
静かの海いっぱいに響くように。