3章

 光が注がない海の中を沈み続ける。牙を向けながら大きな魚――のようなものが近づいてきたが、魚も目が見えていないのか、そのまま素通りしていく。目が蜘蛛のようにたくさんある魚だった。いくつもの棘のような背びれが生えており、ゲルダにとっては不気味だった。ハルムは見たことがない、新しい世界に心がときめいているようで、興味津々に魚たちを見ていた。
 驚きで心臓が大きく鳴っているのが、エリアスにまで聞こえてしまいそうで、ゲルダは胸を押さえた。
「怖いのか」
 顔を背けているゲルダに、エリアスが小声で話しかけてくる。
「違うけど」
 こうやって抱きしめられているのが恥ずかしいのだとは言えなかった。自分の中にある夜の感覚は、ゲルダには分からない。エリアスとハルムにしか感じない何かがあるのだろうが、それが分からないからゲルダにとってはこの状態が恥ずかしくてたまらなかった。
 しかし、それを正直に言うこともできず、違う、とだけ答えてしまった。
 その返答に、エリアスは特に何も思わなかったのか、「そうか」とだけ返した。
「これはどこまで続くんだろうな」
「分かんないけど、底はあると思う」
 せっかく持っているカンテラには蝋燭がないので使えない。ここで石を使うわけにもいかず、静かに沈むしかなかった。ハルムの小さな輝きだけが頼りだ。
 ゲルダは黙っているのも気恥ずかしくて、エリアスにそっと話しかけた。
「エリアス、ちょっと聞いてくれる?」
「なんだ、やはり怖いのか」
「違うってば、そうじゃなくて」
 エリアスは心配してくれているのだろうか。そう思うと、心が少しだけ温かくなった。
「私も、エリアスみたいに、昔のことは記憶にないんだ」
 ゲルダの語りに気がついたハルムは、ゲルダの胸の上に座った。面白い話かと思ったようだ。
「ママ・アルパ……、私にまじないを教えてくれたおばあちゃんなんだけど、ママ・アルパに私は拾われたんだって。拾われた時のことも、その時私がどこにいたのかも覚えてない。ママ・アルパの話では、その時、私は一人で森にいたんだって。ママ・アルパは、私が森に一人でいた理由を占いで探ろうとしたけれど、占い石は教えてくれなかった。私には、両親の記憶や、ママ・アルパの家に行くまでの記憶がないんだ」
「そうか。ゲルダは俺と多少似た所があるのだな」
 ゲルダは鞄の紐を握りしめた。
「この夜の国に来たのは、私のまじないと占いの腕を試そうと思ったから。私は、まじないに自信があった。ママ・アルパさえできなかったまじないで、夜の国に行くことができたら、私はまじない師として認めてもらえるんじゃないかって思った。まあ、その自信はここに来てなくなっちゃったけど……、ハルムやエリアスの言う、私の中の夜が、もしかしたら消えてしまった記憶と関係があるんじゃないかってちょっと思ってる」
 へえ、とハルムは面白そうに相槌を打った。
「見つかればいいわね。ゲルダの夜は、エリアスの魔法の力になってる。旅をしていたらそのことについても何か分かるかも」
「そうだね。ハルムの言う通り」
 エリアスも頷いた。
「それを知るためにも、なんとしてでも、海から出ないといけないな。人魚と出会えればよいのだが」
 潮の流れが早くなり、三人は一気に海の底に向かって流される。
 すると、底に何やら明るく光るものを見つけた。それは最初は星ほどの小ささで、魚が光っているものかと思うほどだった。実際、光る魚はいて、何度もゲルダたちの横を泳いでいたからだ。頭に光る玉をつけた魚もいれば、背びれが光る魚もいた。虹色に光るクラゲもいた。この暗闇で餌を探すのに使うのだろう。それらの魚はまるで海の中の星だった。
 しかし、沈めば沈むほど、大きくなっていく光があった。
 はっきりとそれが見えるようになって分かったことは、それは貝だということだった。大きな巻き貝が海底にどっしりと身を置いていた。ゲルダやエリアスの背丈よりも高く、色は桃色をしている。
 エリアスとゲルダは手だけ繋いで、底に降り立つ。
 貝が照らす海の底は、綺麗だった。
 真っ白で、さらりとした砂と、真っ赤なヒトデ。海底の星空のようだった。青色の岩には、色とりどりの昆布やわかめ、サンゴがある。ママ・アルパの持っていた図鑑でサンゴを見たことがあるが、実際に見るのは初めてだった。
 闇の中にいたおどろおどろしい魚たちとは違い、ここには小さな可愛らしい魚たちがいた。虹色の世界だ。
「人魚、いないわね」
 探してくる、とハルムが巻き貝の中の様子を見ようとしたその時だった。
 巻き貝の口から、わかめ色のもじゃっとした毛が出てきたからだ。
 ハルムは飛び上がり、ゲルダの肩に戻ってくる。
「え、お客さん?」
 巻き貝から出てきたのは、少年だった。白い肌、細い腕、青い海の色をしたくりくりの目、エリアスと同じ尖った耳。それから、下半身は鱗が輝く、魚の尾。足はなかった。
 紛れもなく人魚だった。ゲルダも知っていた。おとぎ話に出てくる人魚そのものだった。
 本当にいたのだと、驚きを隠せない。
 さらに、人魚の言ったことにも驚いた。
「うわあ、生きてる! やったあ! いつも死体が落ちてくるから、なんでだろうって思ってたんだよね。生きてるのが来てくれたの初めて! 君たちが初めてだよ! ようこそ、静かの海、人魚の街へ!」
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