3章
海に飛び込んだが、エリアスは泳ぎ方を知らなかった。藻掻けば藻掻くほど苦しくなる上に、体は浮ぼうとしてしまう。
(ゲルダはなぜ浮かんでこない?)
人間という種族の特性なのか、それとも、この海に住んでいるという人魚のせいなのか。
手で海水を押し上げ、深く潜ろうとするが、ちっとも進まない。
苦戦していると、小さく光る何かが目の前にやってくる。
ハルムだった。風を纏い、空気の膜を作っている。
「そんなんじゃあ駄目よ! 足を使いなさい!」
エリアスは驚き、口から大きな泡を吹き出し、一度海面に顔を出した。
「俺にもそれをやってくれ!」
「駄目よ、私に命令できるのは、ゲルダだけ……、ごめんなさい」
ハルムは申し訳なさそうに言ったが、エリアスは叫んだ。
「お前のご主人様のゲルダが死んでもか! ゲルダが沈んだんだぞ! 契約にこだわる場合か!」
「でも……妖精の掟だから……」
「ではいい! 一生そうやって掟とやらにこだわっていればいい! 足だな、足を使えばいいんだな!」
それだけは感謝した。エリアスは再度大きく息を吸い、口をきつく結んで海の中に入った。
足をばたつかせ、必死に水を掻く。
先程よりは潜ることができているような気がする。しかし、海の中は暗く、ゲルダの姿を捉えることができない。
「ごめんなさい、今の私ができるのは、ゲルダの場所を教えてあげることだけ……」
ハルムは泣いていた。エリアスは何も言えなかったが、妖精が反省しているのはよく分かった。
海の底から、大きなあぶくが浮かんできて、ハルムの頬を撫でた。
それは、ゲルダが吐いた泡だった。ハルムは涙を拭いて、エリアスに向かって叫んだ。
「下よ! この下にいる! 頑張って!」
エリアスは頷き、手足を使ってより深く潜る。
ハルムが自分の髪の一房を祈るように握る。
胸が苦しい。息が苦しいというだけではなかった。
ゲルダをここで失うことが怖かった。死を目の当たりにするのが怖かった。自分の占いとまじないを過信し、涙を流すゲルダだったが、その力をエリアスは信じていた。船を見つけられたのは、ゲルダの占いがあったからだ。森から出れたのはハルムのおかげだが、そのハルムと契約をしたのは、ゲルダだ。ゲルダの力があったからハルムがいたのだ。
それに、ハーブを渡してくれた時の顔も、エリアスは忘れられなかった。
叔父が自分に向けてくれたものとは、違ったような気がしたのだ。
彼女を失ってはならない。その一心で藻掻く。
「いた、いたわ! 手を伸ばして!」
ハルムが叫ぶ。ハルムが自分の指先を持ち、引っ張る。
エリアスは足で水を蹴り、ハルムが導く先に手を伸ばした。
手が何かを掴む。
その瞬間、エリアスは今までにない何かを感じた。
掴んだものから、温かい、何かを感じる。それは、自分の中に今までなかったものだった。
「夜を感じる、エリアス、あなたに夜を感じるわ! 今なら魔法が使えるかもしれない!」
ハルムの言葉を聞く前に、エリアスは、叔父から教わった魔法を思い浮かべた。
森の木々の間を走り抜ける風がエリアスの頬を撫でた。清々しい風に、木々の葉や草の香りが乗る。
――森の風、俺を包め。
故郷の森から、風がやってくる。エリアスはそう感じた。自分たちが今まで歩んできた道を、風は駆けてくる。そして、海の中に、あぶくとなって潜る。
いくつものあぶくが自分たちの元に集まり、包んだ。空気の膜がエリアスたちを包んだのだ。
苦しみから開放され、エリアスはゲルダを思い切り抱き寄せた。
「魔法! 魔法よ、さっきのは魔法だわ! なんだ、ちゃんと使えるじゃない」
嬉しそうにしていたのはハルムだった。しかし、エリアスは困惑していた。
「いや……、なんだろう。ゲルダから力をもらったような気がする。ゲルダの中にある夜が、俺に流れてきた感じだった。すごい、温かい何かだった」
まだその温かなものは、手に留まっているようだった。まだ、体中に魔力が巡っているわけではない。即席の魔力のような感じだ。
今ゲルダから離れれば、この魔法の力も消えるだろう。ゲルダの力を貸してもらっているような感覚だった。
腕の中にいるゲルダは意識はなかったが、胸を少し叩いてやると、大きく咳き込んだ。
死んでいなかった。安堵し、エリアスもハルムもほっと胸をなでおろす。
「良かった……」
エリアスはゲルダの頬を拭おうとして、手を止めた。濡れた手袋では、冷たいだろうと思ったからだ。
歯を使い手袋を外し、エリアスは自分の手の平と手の甲をじっと見た。
「痣が消えている」
「あら、ほんとね。その、ゲルダの中の夜があなたに流れたからかしら」
「分からない。けれど、俺のことは今はどうでもいい」
エリアスは手袋を懐の中に入れ、ゲルダの頬を撫でた。
「ゲルダ、ゲルダ、起きろ。もう大丈夫だ」
エリアスが囁くと、ゲルダがゆっくりと瞼を開けた。状況を飲み込むにはほんの少しの時間が必要だった。
息ができることに安心したようで、大きく深呼吸をする。
「ハルム、ありがとう……」
ゲルダはてっきりハルムの風の力だと思っているようで、ハルムに感謝した。しかし、ハルムは大きく首を横に振った。
「違う、違うわ、私は何もできなかった。これはエリアスの魔法。ごめんなさい、ごめんなさい、ゲルダ。私、みんなにひどいことしちゃった。ごめんなさい」
出会った時と同じように、ハルムはわーっと大きな声で泣いた。
ゲルダは眉を八の字にして、もういいよ、と許した。ハルムのふんわりとした髪を撫でてやる。
「私があなたにきちんと確認しなかったのが悪いの。それから、エリアス、ありがとう……、あの……、もう大丈夫だから」
抱きしめられていると、恥ずかしくなってくる。しかし、エリアスは放してくれるどころか、逆にきつく抱きしめられる。
「すまない、こうしていないと、魔法が維持できない……風を維持するのが精一杯なんだ。ゲルダの力を借りてなんとかしているが、海上に上がることは難しそうだ」
「そう……、なんだ」
声がか細くなり、ゲルダは顔を赤くした。
自分の肩にあるエリアスの手が、ふと目に入った。夜色の痣が消えていることに気がついたが、ゲルダは聞くことはできなかった。
三人は海上に上がることはできず潮流に乗って、海の底に沈む一方だった。
(ゲルダはなぜ浮かんでこない?)
人間という種族の特性なのか、それとも、この海に住んでいるという人魚のせいなのか。
手で海水を押し上げ、深く潜ろうとするが、ちっとも進まない。
苦戦していると、小さく光る何かが目の前にやってくる。
ハルムだった。風を纏い、空気の膜を作っている。
「そんなんじゃあ駄目よ! 足を使いなさい!」
エリアスは驚き、口から大きな泡を吹き出し、一度海面に顔を出した。
「俺にもそれをやってくれ!」
「駄目よ、私に命令できるのは、ゲルダだけ……、ごめんなさい」
ハルムは申し訳なさそうに言ったが、エリアスは叫んだ。
「お前のご主人様のゲルダが死んでもか! ゲルダが沈んだんだぞ! 契約にこだわる場合か!」
「でも……妖精の掟だから……」
「ではいい! 一生そうやって掟とやらにこだわっていればいい! 足だな、足を使えばいいんだな!」
それだけは感謝した。エリアスは再度大きく息を吸い、口をきつく結んで海の中に入った。
足をばたつかせ、必死に水を掻く。
先程よりは潜ることができているような気がする。しかし、海の中は暗く、ゲルダの姿を捉えることができない。
「ごめんなさい、今の私ができるのは、ゲルダの場所を教えてあげることだけ……」
ハルムは泣いていた。エリアスは何も言えなかったが、妖精が反省しているのはよく分かった。
海の底から、大きなあぶくが浮かんできて、ハルムの頬を撫でた。
それは、ゲルダが吐いた泡だった。ハルムは涙を拭いて、エリアスに向かって叫んだ。
「下よ! この下にいる! 頑張って!」
エリアスは頷き、手足を使ってより深く潜る。
ハルムが自分の髪の一房を祈るように握る。
胸が苦しい。息が苦しいというだけではなかった。
ゲルダをここで失うことが怖かった。死を目の当たりにするのが怖かった。自分の占いとまじないを過信し、涙を流すゲルダだったが、その力をエリアスは信じていた。船を見つけられたのは、ゲルダの占いがあったからだ。森から出れたのはハルムのおかげだが、そのハルムと契約をしたのは、ゲルダだ。ゲルダの力があったからハルムがいたのだ。
それに、ハーブを渡してくれた時の顔も、エリアスは忘れられなかった。
叔父が自分に向けてくれたものとは、違ったような気がしたのだ。
彼女を失ってはならない。その一心で藻掻く。
「いた、いたわ! 手を伸ばして!」
ハルムが叫ぶ。ハルムが自分の指先を持ち、引っ張る。
エリアスは足で水を蹴り、ハルムが導く先に手を伸ばした。
手が何かを掴む。
その瞬間、エリアスは今までにない何かを感じた。
掴んだものから、温かい、何かを感じる。それは、自分の中に今までなかったものだった。
「夜を感じる、エリアス、あなたに夜を感じるわ! 今なら魔法が使えるかもしれない!」
ハルムの言葉を聞く前に、エリアスは、叔父から教わった魔法を思い浮かべた。
森の木々の間を走り抜ける風がエリアスの頬を撫でた。清々しい風に、木々の葉や草の香りが乗る。
――森の風、俺を包め。
故郷の森から、風がやってくる。エリアスはそう感じた。自分たちが今まで歩んできた道を、風は駆けてくる。そして、海の中に、あぶくとなって潜る。
いくつものあぶくが自分たちの元に集まり、包んだ。空気の膜がエリアスたちを包んだのだ。
苦しみから開放され、エリアスはゲルダを思い切り抱き寄せた。
「魔法! 魔法よ、さっきのは魔法だわ! なんだ、ちゃんと使えるじゃない」
嬉しそうにしていたのはハルムだった。しかし、エリアスは困惑していた。
「いや……、なんだろう。ゲルダから力をもらったような気がする。ゲルダの中にある夜が、俺に流れてきた感じだった。すごい、温かい何かだった」
まだその温かなものは、手に留まっているようだった。まだ、体中に魔力が巡っているわけではない。即席の魔力のような感じだ。
今ゲルダから離れれば、この魔法の力も消えるだろう。ゲルダの力を貸してもらっているような感覚だった。
腕の中にいるゲルダは意識はなかったが、胸を少し叩いてやると、大きく咳き込んだ。
死んでいなかった。安堵し、エリアスもハルムもほっと胸をなでおろす。
「良かった……」
エリアスはゲルダの頬を拭おうとして、手を止めた。濡れた手袋では、冷たいだろうと思ったからだ。
歯を使い手袋を外し、エリアスは自分の手の平と手の甲をじっと見た。
「痣が消えている」
「あら、ほんとね。その、ゲルダの中の夜があなたに流れたからかしら」
「分からない。けれど、俺のことは今はどうでもいい」
エリアスは手袋を懐の中に入れ、ゲルダの頬を撫でた。
「ゲルダ、ゲルダ、起きろ。もう大丈夫だ」
エリアスが囁くと、ゲルダがゆっくりと瞼を開けた。状況を飲み込むにはほんの少しの時間が必要だった。
息ができることに安心したようで、大きく深呼吸をする。
「ハルム、ありがとう……」
ゲルダはてっきりハルムの風の力だと思っているようで、ハルムに感謝した。しかし、ハルムは大きく首を横に振った。
「違う、違うわ、私は何もできなかった。これはエリアスの魔法。ごめんなさい、ごめんなさい、ゲルダ。私、みんなにひどいことしちゃった。ごめんなさい」
出会った時と同じように、ハルムはわーっと大きな声で泣いた。
ゲルダは眉を八の字にして、もういいよ、と許した。ハルムのふんわりとした髪を撫でてやる。
「私があなたにきちんと確認しなかったのが悪いの。それから、エリアス、ありがとう……、あの……、もう大丈夫だから」
抱きしめられていると、恥ずかしくなってくる。しかし、エリアスは放してくれるどころか、逆にきつく抱きしめられる。
「すまない、こうしていないと、魔法が維持できない……風を維持するのが精一杯なんだ。ゲルダの力を借りてなんとかしているが、海上に上がることは難しそうだ」
「そう……、なんだ」
声がか細くなり、ゲルダは顔を赤くした。
自分の肩にあるエリアスの手が、ふと目に入った。夜色の痣が消えていることに気がついたが、ゲルダは聞くことはできなかった。
三人は海上に上がることはできず潮流に乗って、海の底に沈む一方だった。