3章
強く波が体に当たり、エリアスとハルムは掴んだものをしっかりと握りしめ離さなかった。潮水が目にしみ、エリアスはゲルダに向かって伸ばした腕を引き戻し、自分の顔を覆ってしまった。強い流れが船と自分を引き離そうとしたが、エリアスはマストを離さなかった。ハルムも全身でロープにしがみつく。
それは一瞬の出来事だった。潮を頭から被ってしまったが、船は奇跡的に転覆はしなかった。息ができるようになり、エリアスは顔についた潮水を拭い、目を開く。そして、船の上にゲルダがきちんといるか確認をした。
しかし、目の前に座っていたゲルダはいなかった。
「ゲルダっ!」
マストで体を支えながら立ち上がり、エリアスは海面を見た。
「流されちゃったの?」
ハルムはロープから手を放し、エリアスの肩に飛び移り、共に周囲を見渡す。
濁った泡は見えるが、ゲルダの姿は見えない。もっと深いところまで飲み込まれてしまったのだろうか。
「人間は泳げるのか」
「そこまでは知らないわよ。私、夜の国のことはある程度知っているけれど、昼の国はさっぱりよ」
「お前は水の中に潜れるのか」
「そういうのは、水の妖精の領域ね。まあ……本気を出せば私たちもある程度水の中には……って、エリアス!」
言い終わる前にハルムの視界がぐらりと動き、慌てて空に飛び立った。
エリアスは何も言わず、海の中へと身を投げ入れてしまった。どぼん、という音が静かの海に響く。
「え、ええ? 魔法使えないんじゃないのー? ちょっとー!」
この船は一体誰が守るんだ。ハルムは海面と船を交互に見て悩んだ末、船と自分の体に空気の膜を張った。早くからこれをしておけば良かったとハルムは後悔をする。
自分が面白さを優先させた結果がこれだ。ゲルダには怒られてしまった。死というものが見えた瞬間、面白さはなくなった。面白さよりも恐怖が勝ってしまったのだ。
予想していた展開とは違ったものになった。ゲルダとエリアスは海の中に入ってしまった。ゲルダの言葉が、ハルムの耳の裏でこだまし続ける。
最悪、死ぬ。
死んだら、妖精は星に帰る。エリアスは、夜の女王の元に帰る。では、人間は――帰る場所は、この夜の国にあるのだろうか。昼の国の住民なのに。
自分が招いた結果なのだ。だったら、自分が助けなければ。そうでもしないと、自分は星に帰るまで、いや、星に帰っても、一生後悔すると思った。母である北風の星は、そんな自分を許しはしないだろう。自分自身でも許せなかった。
ハルムは自分の風を纏い、海の中に身を投げ入れた。
ゲルダはうっすらと目を開いた。
何も見えなかった。太陽が隠れてしまっているから、海面から注いでくる光もなかった。どちらが上で、どちらが下か、分からない。ただ、沈んでいるような感覚はあった。
聞こえてくるのは、静かな歌だった。言葉は聞き取れなかった。波にたゆたう感覚が心地よくなるかのような歌だった。子守唄に近いだろうか。
これが人魚の歌というものなのだろう。この静かの海に住んでいる人魚が歌っているのだ。少年の、綺麗な声だ。
これから溺れ死ぬ自分を慰めてくれているのだろうか。天気を悪くして人をここまで沈めておいて、死ぬ間際になれば自分を慰めるのか。身勝手な種族だなとゲルダは呆れた。
夜の国の住民は皆そうなのだ。そうなのだと思い知った。自分の楽しいことばかり優先する風の妖精に、自分を海に沈めておいて死ぬ間際には鎮魂歌を歌う人魚。自分たちにとって都合が悪いからエリアスを殺そうとするエルフたち。夜の国は、人間の当たり前が通用しないのだと思い知った。
自分勝手なのは自分もだ、とゲルダは鞄の紐を握りしめた。
自分も、自分の占いとまじないを過信して、よく考えなかった。こうなってしまったことを、ハルムのせいにしてしまった。本当はハルムのせいではないのに。ハルムの主人は自分だ。ハルムにきちんと海のことを聞かなかった自分が悪かったのだ。
自分もわがままだ。ママ・アルパの言うように、自制心がなく、自分を調整できない未熟者だ。人のことは言えない。
せめて、エリアスとハルムは無事であってほしいと願った。
エリアスは――エリアスは、いいエルフだった。ゲルダはそう思った。
自分にできることをしたい。魔法は使えないが、できることはある。そう言ってゲルダを手伝ってくれたのはエリアスだ。ハルムみたいに嫌だ嫌だ、とは言わなかった。王子の身分でありながらもエリアスは素直だった。目つきは悪いが、ハーブの香りで落ち着いた時は、優しそうな表情をした。不安になったり、かっとなったりした時は、エリアスが落ち着かせてくれた。
自分よりもよっぽどいい人だ。エリアスだけは、海を渡ってほしい。ゲルダはもう一度瞼を閉じた。
夜の国に来る前に見た夢を思い出す。
紅玉の間に似た森で、ツリーハウスで、たくさん遊んだ夢。誰か分からないけれど、優しい青年のような気がする。自分と一緒に遊んでくれた人。それがエリアスだったら良かったな、と思った瞬間、胸が苦しくなった。
限界が近かった。口から小さな泡が登っていく。ほんの僅かだけ堪えたが、無理だった。ごぼりと大きな泡を吐いてしまった。
もう、駄目、と思った時だった。
何かが自分の手を掴んだ。
それは一瞬の出来事だった。潮を頭から被ってしまったが、船は奇跡的に転覆はしなかった。息ができるようになり、エリアスは顔についた潮水を拭い、目を開く。そして、船の上にゲルダがきちんといるか確認をした。
しかし、目の前に座っていたゲルダはいなかった。
「ゲルダっ!」
マストで体を支えながら立ち上がり、エリアスは海面を見た。
「流されちゃったの?」
ハルムはロープから手を放し、エリアスの肩に飛び移り、共に周囲を見渡す。
濁った泡は見えるが、ゲルダの姿は見えない。もっと深いところまで飲み込まれてしまったのだろうか。
「人間は泳げるのか」
「そこまでは知らないわよ。私、夜の国のことはある程度知っているけれど、昼の国はさっぱりよ」
「お前は水の中に潜れるのか」
「そういうのは、水の妖精の領域ね。まあ……本気を出せば私たちもある程度水の中には……って、エリアス!」
言い終わる前にハルムの視界がぐらりと動き、慌てて空に飛び立った。
エリアスは何も言わず、海の中へと身を投げ入れてしまった。どぼん、という音が静かの海に響く。
「え、ええ? 魔法使えないんじゃないのー? ちょっとー!」
この船は一体誰が守るんだ。ハルムは海面と船を交互に見て悩んだ末、船と自分の体に空気の膜を張った。早くからこれをしておけば良かったとハルムは後悔をする。
自分が面白さを優先させた結果がこれだ。ゲルダには怒られてしまった。死というものが見えた瞬間、面白さはなくなった。面白さよりも恐怖が勝ってしまったのだ。
予想していた展開とは違ったものになった。ゲルダとエリアスは海の中に入ってしまった。ゲルダの言葉が、ハルムの耳の裏でこだまし続ける。
最悪、死ぬ。
死んだら、妖精は星に帰る。エリアスは、夜の女王の元に帰る。では、人間は――帰る場所は、この夜の国にあるのだろうか。昼の国の住民なのに。
自分が招いた結果なのだ。だったら、自分が助けなければ。そうでもしないと、自分は星に帰るまで、いや、星に帰っても、一生後悔すると思った。母である北風の星は、そんな自分を許しはしないだろう。自分自身でも許せなかった。
ハルムは自分の風を纏い、海の中に身を投げ入れた。
ゲルダはうっすらと目を開いた。
何も見えなかった。太陽が隠れてしまっているから、海面から注いでくる光もなかった。どちらが上で、どちらが下か、分からない。ただ、沈んでいるような感覚はあった。
聞こえてくるのは、静かな歌だった。言葉は聞き取れなかった。波にたゆたう感覚が心地よくなるかのような歌だった。子守唄に近いだろうか。
これが人魚の歌というものなのだろう。この静かの海に住んでいる人魚が歌っているのだ。少年の、綺麗な声だ。
これから溺れ死ぬ自分を慰めてくれているのだろうか。天気を悪くして人をここまで沈めておいて、死ぬ間際になれば自分を慰めるのか。身勝手な種族だなとゲルダは呆れた。
夜の国の住民は皆そうなのだ。そうなのだと思い知った。自分の楽しいことばかり優先する風の妖精に、自分を海に沈めておいて死ぬ間際には鎮魂歌を歌う人魚。自分たちにとって都合が悪いからエリアスを殺そうとするエルフたち。夜の国は、人間の当たり前が通用しないのだと思い知った。
自分勝手なのは自分もだ、とゲルダは鞄の紐を握りしめた。
自分も、自分の占いとまじないを過信して、よく考えなかった。こうなってしまったことを、ハルムのせいにしてしまった。本当はハルムのせいではないのに。ハルムの主人は自分だ。ハルムにきちんと海のことを聞かなかった自分が悪かったのだ。
自分もわがままだ。ママ・アルパの言うように、自制心がなく、自分を調整できない未熟者だ。人のことは言えない。
せめて、エリアスとハルムは無事であってほしいと願った。
エリアスは――エリアスは、いいエルフだった。ゲルダはそう思った。
自分にできることをしたい。魔法は使えないが、できることはある。そう言ってゲルダを手伝ってくれたのはエリアスだ。ハルムみたいに嫌だ嫌だ、とは言わなかった。王子の身分でありながらもエリアスは素直だった。目つきは悪いが、ハーブの香りで落ち着いた時は、優しそうな表情をした。不安になったり、かっとなったりした時は、エリアスが落ち着かせてくれた。
自分よりもよっぽどいい人だ。エリアスだけは、海を渡ってほしい。ゲルダはもう一度瞼を閉じた。
夜の国に来る前に見た夢を思い出す。
紅玉の間に似た森で、ツリーハウスで、たくさん遊んだ夢。誰か分からないけれど、優しい青年のような気がする。自分と一緒に遊んでくれた人。それがエリアスだったら良かったな、と思った瞬間、胸が苦しくなった。
限界が近かった。口から小さな泡が登っていく。ほんの僅かだけ堪えたが、無理だった。ごぼりと大きな泡を吐いてしまった。
もう、駄目、と思った時だった。
何かが自分の手を掴んだ。