3章

 低く、どんよりと立ち込めている雲を見て、ゲルダは胸がざわついたのを感じた。この雲を知っている。大雨か大雪をもたらす雲だ。風も強い。
「エリアス、いつから?」
 ずっと起きていたであろうエリアスに聞くと、エリアスはすまない、と謝ってきた。
 ぼんやりとしていて、空に気を向けていなかったと言う。
 占いでは快晴だったのに。と、不安でざわめく胸を押さえながらゲルダはこれ以上天候が悪くならないことを祈った。
 しかし、風は強くなる一方で、波も高くなる。船は大きく揺れ、気分も悪くなる。船体を持ち、体を支えなければならないほどだった。
 穏やかだった海は、姿を一変させた。まるで怒り、荒れ狂っているかのようだ。雨はまだ降っていないが、飛沫が顔にかかる。
 こういう時、帆をどうすればいいか分からなかった。この風は、船をどこに運ぼうとしているのだろう。そもそも、進んでいる方角はどっちだろう。ゲルダは周辺を見渡してみたが、目印になるものは何もなかった。岸も見えず、島も見えない。太陽は分厚い雲に覆われてしまい、方角が分からなかった。大海原にぽつんと放り投げだされているかのようだ。
 ゲルダはマストの先に座っているハルムに向かって叫んだ。
「ハルム! 風は大丈夫?」
 今まで風を使って船を運んでくれていたのはハルムだ。ハルムなら分かるかもしれない。そう願って聞いたが、ハルムはマストからゆっくりと降下し、ゲルダの肩に座って首を横に振った。
「向かい風になっちゃって、私、疲れちゃった〜」
「ちょっと! もう、ハルム!」
 巨人から逃げている時と同じだ。ハルムの陽炎のような美しい羽が萎れてしまっている。疲労が溜まってしまい、ハルムはやる気を失っていた。
 このままでは、船はあらぬ方向に流されてしまう。目的地にたどり着かず、他のとんでもない場所に流れてしまったらどうしよう。
 転覆、という言葉がゲルダの脳裏に浮かぶ。そうだ、まずは無事、沈むことなくやり過ごすことが優先だ。
 まずは帆が風を受けてしまわないように、帆をたたもう。ゲルダはエリアスに協力を求め、ロープを解いた。すると、帆が大きくなびいてしまい、船も大きく揺れた。
「気持ち悪い〜!」
 ゲルダの髪を掴んでいたハルムが耳元で叫ぶ。
「我慢してよ、みんな同じ」
「え〜! ここまで頑張って船を運んでた私にもっと我慢しろって言うの!?」
 喚くハルムをなだめるのは、エリアスの役目だ。
「船が沈むよりは良い。ハルム、もう少し我慢できないか」
 エリアスに言われると、ハルムは分かった、と素直になる。その態度が気に食わなかったが、ゲルダは軽くため息をつくだけにした。
 エリアスと共に苦労しながらも帆をたたみ終え、ゲルダはまた空を見上げる。
 なぜここまで天気が悪くなってしまったのだろう。自分の占いは、やはり当たらないのか。簡単に占いすぎてしまったか。日を改めたほうが良かったか。様々な後悔の念が、ゲルダの胸を押しつぶしに来る。
「ゲルダ」
 エリアスが、ゲルダを呼んだ。
「ごめん。私、自分の占いを過信しすぎた。海のこと、よく知らないのに。占いに頼りすぎた」
 ママ・アルパの言葉が胸に突き刺さる。自制心がない。そうだ。自分は自分の占いやまじないの力を過信し、よく考えようとしなかった。自分に自信ばかりがあり、深く考えようとしなかった。その結果がこれだ。
 ゲルダは今にも鞄を海に投げ捨てたかった。こんなものを持っているから、考える力がなくなってしまったんだと、悔しくて、涙が出る。
「ゲルダ。占いやまじないのことは俺はよく分からないが、そう責めるな。どちらにせよ、俺たちは、海に出たんだ。ゲルダが占いやまじないを使わなくても、そうしただろう。今日でも、明日でも、明後日でも、結果は同じだったのかもしれない。お前のせいではないから」
 エリアスの言葉がゲルダの胸の中に溜まったものを溶かしたような気がして、ゲルダは頷いた。
 それに、とハルムが耳元でエリアスの言葉を繋ぐ。
「ここ、静かの海って言うの。どうしてか知ってる?」
 なんだか楽しそうなハルムに、またゲルダは不安になる。
「この海を渡ろうとすると、皆、海に沈んじゃうんですって。だから、エリアスの言う通り、今日でも明日でも明後日でも、結果は同じ。だったら早い方がいいじゃない!」
 ハルムの言葉に、ゲルダは我慢ができなかった。ハルムを掴み、大きく振る。
「なぜ、それを先に言ってくれなかったの!」
 目を回したハルムは、首をぶるぶると振り、いたずらっぽく笑った。
「私は風の妖精よ。面白いのが大好きなの。それは、あなたと契約しても変わらない。夜の国の住民は皆何かしら個性がある。森を守り、自分たち優先のエルフみたいにね!」
 かっとなったゲルダは、鞄から石を取り出し、海に投げ捨てようかと思った。
 しかし、エリアスはそのゲルダの腕を止めた。
「やめろ、ゲルダ。ハルムの性格に怒っても仕方がない! それにここまで連れてきてくれたのは誰だ。俺とゲルダを森から出してくれたのは誰だ。ハルムだろう」
「だけど! 面白いからって危険に晒す必要はなかった! 最悪、死ぬの! 海に沈んで!」
 二人のやり取りを見て、ハルムの顔から、笑顔が消えた。
 ざぁっと雨が降る。滝のような雨だった。
「分かったわよ。ごめんなさい。教えなかったのは謝るわ。あなたたちが死ぬことは考えてなかった……。教えてあげるわ。海を越えようとしてもこんな天気になるのは、海に住んでいる人魚のせいだって聞くわ。その人魚をなんとかすれば、天候も元に戻るはずよ」
 人魚。おとぎ話で聞く、半人半魚。
「でもどうやったら、その人魚が海面に出てきてくれるのよ」
「分からない。ごめんなさい」
 ハルムは今度こそ反省しているようで、雨に濡れて分かりにくいが、べそをかいているようだった。
 雨は強くなる一方だった。風と波は船を大きく揺らす。
 じっと耐えていたが、それができたのはほんの数分だけだった。
「ゲルダ、後ろ!」
 エリアスが目を大きく見開いて、自分の後ろを見ていた。
 ゲルダが振り向くと、そこには、波の壁があった。今まさに、船を食わんとしようとする壁は、空高くそびえ立っている。
 逃げようがなかった。
 ハルムはロープを掴み、エリアスは片手でマストを掴み、もう片方の手でゲルダの手を取ろうと伸ばした――が、その前に海はゲルダたちを食べた。
 
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