3章

 海は静かだった。波も高くはなく、船の揺れも少なかった。
 座ったまま眠っていたので、眠りが浅かった。冬とはいえ、日差しは温かい。ハルムの風もまた心地が良かった。ゲルダの瞼はすぐに落ちた。
 こくり、こくりと船を漕ぐゲルダの肩を持ち、エリアスは横にさせた。
 森の外を知らないとはいえ、少女に無理をさせてしまった。
 ふと空を見ると、遠くに小さな雲が見えた。空が広い。一面、真っ青だ。森にいた頃は、こんなに広い空を見ることはなかった。木々の葉が空を覆ってしまい、輝かしい星々も見れなかった。
 視線を少し下げる。周囲には何もなかった。紅の木々も、碧々とした木々もなかった。ただあるのは、陽の光に輝く海だった。
 自分を囲むものがない。それに、島からも出た。自分は魔法を取り戻せば島に戻るつもりだったが、このままどこか遠いところに行ってもいいような気もする。
 どこか遠いところに行くにしても、まずは魔法の力が欲しかった。さもなければ、あの夢が現実になってしまいそうな気がした。
 あれは、魔法が使えない故に、一人で剣の稽古をしていた時だった。剣を使っているところを見られたくなくて、紅玉の間から少し離れた場所で一人汗を流していた。その時だった。
――このままでは、エルフの民を統率できる者がおらず、外部から侵入者を招いてしまう。オーゲン、何か策はないのか。
 最初に聞こえたのは、家臣の一人、叔父に最も親しいエルフの声だった。オーゲンというのは、エリアスの叔父の名だった。叔父も一緒にいるのか、と、エリアスは息を潜めて、叔父たちを探した。
 二人のエルフが、向かい合って深刻な表情で話をしていた。叔父の相手をしているのは、家臣の中でも最も発言力のあるアントンというエルフの男だった。叔父よりも若いが、魔力は叔父よりも強い。その魔力で上り詰めたエルフだった。
 魔法を教えてくれていた叔父は、エリアスが魔法が使えないことを黙ってくれていた。しかし、このアントンという男は、エリアスに魔力がないことをすぐに見抜いてしまったのだ。それ以降、エリアスはアントンに近づかないようにしていた。
「考えはしているが、女王が許してくださるかどうかは」
「女王だって、柱は欲しいはずだろう。女王のご意向をうかがうこともできないのか」
 叔父は悩んでいるようだ。柱という言葉を聞いて、どきりとした。自分と関係のある話だと、エリアスは引き続き木の影に隠れながら、二人の話を聞いた。
「しかし、アントン。お前の知っている通り、エリアスは、私が育てた子だ。夜の落とし子とは言え、愛着はある。彼が成熟しないまま夜の女王に返すことは」
 大きなため息をつく。叔父の言葉は嬉しかったが、アントンが叔父に声を上げた。
「では、オーゲン殿はこのままエルフの森が朽ちるのを許すということだな。お前の気持ちも分かる。エリアス様を手放せば、オーゲン殿の立場もなくなるからな。次もまた、オーゲン殿が夜の落とし子を拾うとは限らない。他の者が拾う可能性も高い。だからオーゲン殿はエリアス様を返したくないのだろう。違うか」
 エリアスのいる場所からは、叔父の表情がはっきりと見えた。
 歯ぎしりをしている叔父。図星だった。
 叔父がエリアスを大切に思っているのは、エリアスの立場を利用するためだった。気がついたら、エリアスは手袋の上から爪を噛んでいた。
 視界が歪んだ気がした。
「オーゲン。一つ手がある。お前が、お前の手でエリアス様を女王に返還するのだ。お前の魔力は弱い。今ある立場に留まるには、それしかない。お前がやれ。いいか。早々と女王に返還しろ。俺たちには新しい王が必要だ。それは女王のご意向でもあるはずだ」
 剣を握る手が震えていた。エリアスは、そっとその場を離れ、ツリーハウスへと逃げた。
 それからは、メイドしか部屋に入れなかった。叔父ですら、怖かった。
「いいかエリアス。魔法が使えなければ、夜の賢者として生きるのは難しくなる。魔法の使えないエルフは、女王に返還される。返還されれば、エリアスは夜そのものの姿に戻り、女王のドレスで眠るのだ。そうなればお前はもうエリアスでもないし、エルフでもない。お前に魔力がないわけではない。だから、必死にやれ。いつか身につく」
 叔父はそう言って、魔法の鍛錬に付き合ってくれた。微笑んでもくれた。頭を撫でてくれた。しかし、自分に魔力がないというのは嘘だった。叔父が自分の立場を守るためについていた嘘だった。
 それからだ。両手の痣が全身に拡がり、ついに体を維持することもできず、どろどろの夜に溶けてしまう夢を見るようになったのは。
 夢に見る母は、月のような顔をしていた。つばの広い帽子を被っていて、目は見えない。果てしなく拡がる夜のドレスに、数多の兄弟の魂があった。まるで星のような兄弟たちだった。時たま、流れ星のようにドレスから落ちる兄弟がいた。地上で拾われ、柱として活躍するのだろう。
 母はどろどろに溶けた自分を手ですくい上げ、おかえり、と言うのだ。愛する我が子よ、と。
 エリアスは、嫌だ、と叫んだ。叫んだところで、いつも目が覚める。
 逃げなければ。叔父から。エルフたちから。そして、魔法が使えるようになって、森に帰る。そう決めて森から出た。
 しかし、この広大な景色を見ていると、戻らなくてもいいのかもしれない、と思ってしまう。
 自分がエリアスとして生きるために魔法は使えるようになりたい。しかし、あの森に戻る意味はあるのか。
 そこまで考えたところで、ゲルダが目を覚ました。
 エリアスははっとしてゲルダに話しかける。
「寒かったか」
「ちょっと。風が出てきたなって……風?」
 ゲルダはぱっと身を起こし、空を見上げた。
 居眠りをする前には雲一つなかったのに、空一面に暗い雲が立ち込めていた。
 
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